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ラスト・サイレンス ― 核の冬に芽吹く祈り ―  作者: tky@3作品同時連載中


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第5話:黒い雨の警告

【2040年 6月28日 13:30】


昼食を終えた佐伯家の庭先には、静かな、しかし確かな決意が満ちていた。


湊は、玄関の隅に立てかけてあった血濡れの金属バットを手に取り、その冷たく重い感触を両手で確かめた。


彼の背中には、昨日までの「誰も傷つけたくない」という少年の迷いはもうない。


達也の無惨な姿を目の当たりにした湊は、この寄せ集めの共同体を理不尽な暴力から守るためなら、自らが鬼になる覚悟を完全に決めていた。


「午後の班分けを確認します」


湊が声を張ると、大人たちが作業の手を止め、真剣な眼差しで彼を振り向いた。


「生存者の捜索と周辺の警戒には、俺と駿先輩、健一さん、凛さんの四人で向かいます。誠さんと徳治さん、真由美さんは、ワンボックスカーで加藤家と渡辺家へ向かい、当面の生活物資を回収してきてください。残りの皆さんで、家事・拠点警護と薪拾い・伐採を必ず複数人で固まって行ってください」


「わかったよ、湊くん。そっちも気をつけてな」


誠が車のキーを受け取り、力強く頷く。


「絶対、無事で帰ってくるから。留守番、頼むな」


「うん……気をつけてね、湊くん」


栞が不安げに湊のジャージの袖を握り、祈るように見送った。


車に乗り込む誠たちを見送った後、湊たち四人の捜索班は、金属バットや斧を片手に、静まり返った山道を下り始めた。


昨日、栞が襲われた「街」の方向へ続く道だ。


太陽の光はすっかり濁り、昼間だというのに夕暮れ時のような薄暗さが山を覆っている。


しばらく坂を下った先で、湊の足がふと止まった。


「どうした、湊?」


駿が怪訝そうに振り返る。


湊の視線の先、道端の乾いた土の上に、どす黒く変色した大きな染みが残っていた。


昨日、栞を襲っていた大柄な男の右膝を、湊がバットで粉砕した場所だった。


しかし、そこにあるのは無残な血痕だけで、這いずったような跡が山林の奥へと続いている。


死体はおろか、男の姿はどこにもなかった。


「……俺が昨日、男の足を砕いた場所です。でも、奴がいなくなってる」


湊の言葉に、健一が鋭い視線を周囲に向け、斧の柄を握り直した。


「仲間が助けに来たか、それとも自力で這って逃げたか……。どちらにせよ、我々に恨みを持つ人間が、まだ近くに潜んでいるという判断だ」


(俺の甘さが、また皆を危険に晒すかもしれない)


湊の額に冷たい汗が伝う。


その肩を、駿が力強く叩いた。


「気にするな、湊。次会った時は、俺も一緒に戦う。お前一人に重い荷物は背負わせないさ」


「……はい、ありがとうございます、駿先輩」


得体の知れない薄気味悪さを振り払うように、湊たちは警戒を強めながらさらに歩を進めた。


三軒ほど家を回ったが、やはりもぬけの殻だった。


しかし、さらに奥へと進んだ先にある立派な門構えの家から、微かな人の気配がした。


湊の父の知人である、野村家だった。


「誰だ!」


門の奥から、野村泰造が警戒を露わにして顔を出した。


手には鋭い農具を握り締めている。


「泰造さん! 俺です、佐伯の息子の湊です!」


「佐伯んとこの……? ああ、湊か。生きてたんだな」


泰造は湊の顔を見て、ようやく強張った肩の力を抜き、農具を下ろした。


家の中から、妻の芳江と、長男の蓮が顔を出す。


蓮は細身で眼鏡をかけた知的な青年で、湊も何度か顔を見たことがあった。


「凛先輩……生きてたんすね。まさかこんな状況で顔を合わせるとは思いませんでしたよ」


「蓮くんじゃない。東京の大学に行ってたはずなのに、帰省中だったのね。無事でよかったわ」


二人は地元の高校の先輩後輩という間柄だった。こんな世界情勢の中で思いがけない知人の無事を確認し、わずかに表情を緩ませる。


湊がこれまでの経緯を簡潔に説明し、佐伯家への合流を提案した。


「泰造さん、車はどうすか?」


「駄目だ。昨日、街の方へ逃げようとしたんだが、大渋滞と暴動に巻き込まれた挙句、途中でガス欠になっちまってな。車は仕方なく道端に乗り捨てて、なんとかここまで歩いて戻ってきたところだ」


「なら、急いで準備しましょう。手荷物だけで俺の家へ向かいます。なんだか、嫌な空模様になってきましたから」


湊の言葉に、凛が空を見上げ、その美しい顔を険しく歪めていた。


「……急いで。何か、おかしいわ」


【同日 14:30】


急に風が止み、異様な湿り気を帯びた空気が山を包み込んだ。


頭上の空は、ただの雨雲とは違う、鉛色と漆黒が混ざったような不気味な色に染まっていた。


それは、この世の終わりを告げるような、圧倒的な質感を伴う暗雲だった。


「全員、急いで佐伯家へ向かって! 絶対にあの雨に当たっちゃダメ!」


凛が悲鳴のような声を上げた。


そのただならぬ剣幕に、全員が顔を見合わせ、すぐさま佐伯家へと駆け出した。


手荷物を抱えた野村家の三人も、必死に後に続く。


息を切らして佐伯家の敷地に飛び込むと、留守番をしていた栞や恵たちが驚いた顔で出迎えた。


「湊くん、おかえり! 早かったね」


「誠さんたちは!?」


「まだ、戻ってないよ……」


湊は激しく舌打ちをした。


加藤家と渡辺家に向かった物資回収班の車が、まだ帰ってきていないのだ。


外からは、パラパラと乾いたような、奇妙で重い雨音が聞こえ始めた。


「北条、傘とカッパをありったけ集めてくれ! それと人数分の靴も!無ければスリッパでもサンダルも何でも良いから用意してくれ!俺と駿先輩は車庫で待機する!」


「わ、わかった!」


湊と栞、そして駿は、玄関の土間に数本のビニール傘とレインコート、履き物を掻き集めると、家と直接屋内で繋がっている巨大な車庫兼倉庫へと急いだ。


開け放たれた車庫の入り口の向こう、コンクリートの地面に黒いシミが点々と広がっていく。


それは透明な水滴ではなく、黒い煤を含んだ粘り気のある「黒い雨」だった。


「……これが、核の冬の雨……」


栞が震える声で呟く。


空を覆う黒い雲から降り注ぐそれは、命を育む恵みの雨ではなく、世界を静かに殺していく死の雨だった。


【同日 14:50】


その時、山道からけたたましいエンジン音が聞こえ、見慣れたワンボックスカーが佐伯家の敷地に入ってきた。


「誠さんたちだ! でも、絶対に車庫の中には入れるな!」


湊が鋭く叫んだ。


車庫の中には、昨日から集めた大量の薪や、汚染させたくない貴重な生活物資が備蓄されている。


黒い雨に濡れた車をそのまま中に入れれば、放射性物質を屋内に持ち込むことになってしまう。


湊は鉄扉をギリギリまで閉め、わずかな隙間から身を乗り出して叫んだ。


「誠さん! 車はそこで止めて! そのまま降りてください!」


誠が状況を察し、車庫の入り口から数メートル離れた屋外で急ブレーキをかけた。


外では強い風に乗って、真っ黒な雨粒が吹き荒れている。


「これを使って、絶対に肌を出さないでください! そして、使い終わったら全部外に投げ捨てて!」


レインコートを着た湊と駿が、ドアの外で傘を差して、レインコートを車内へ投げ入れる。


車内でレインコートを着た誠、徳治、真由美の三人は、受け取った雨具で必死に身を覆い、車庫の入り口へと駆け込んだ。


「早く! 中へ!」


三人が車庫内へ滑り込み、雨具に付着した黒い雨が飛散しないように気を付けながら外へ投げ捨てたのを確認した湊は、倉庫の扉をガシャンと音を立てて完全に閉ざした。


「ここで靴を履き替えてください。ズボンの裾などが濡れてしまっていないかも確認して欲しいですが、肌に触れる事が無いように気を付けてください」


薄暗い車庫の中に、安堵と恐怖の入り混じった激しい息遣いが響き渡る中で、湊は黒い雨が付着した靴を履き替える事や、黒い雨で濡れてしまっていないか確認する旨を告げた。


「湊くん、荷物は……」


靴を履き替えて一通り確認した誠が、息を切らしながら振り返る。


「雨が上がるまで車の中に置いておきましょう。今は、中へ」


【同日 15:10】


これで、佐伯家には新たに加わった野村家の三人を含め、総勢二十五名が集結した。


全員の無事を確認した凛が、リビングの中央に立ち、静まり返った大人たちを見回した。


「……皆さん、聞いてちょうだい」


凛の声は静かだったが、そこには科学を学ぶ者としての重い響きがあった。


「今降っている黒い雨には、核爆発で巻き上げられた放射性降下物が大量に含まれているわ。絶対に、直接触れてはいけないものよ」


「放射能……じゃあ、外を歩いた靴はどうすればいいんだい?」


芳江が怯えた声で尋ねる。


「外を歩いた靴は、すべて玄関のたたきで脱いでちょうだい。可能なら水洗いして汚染を落とすべきだけど、今は水も貴重だから、素手で触れないことを優先して。絶対に居住スペースには持ち込まないでね」


凛の言葉に、大人たちはゴクリと喉を鳴らした。


健一が、ホッとしたような、だがどこか恐ろしいものを見るような目で凛を見た。


「凛ちゃんが昨日、『数日以内に核の冬が来る』と警告してくれたおかげだ。あの言葉がなければ、私たちは昨日切り倒した薪や、外に置いてあった物資をそのままにしていたかもしれない」


健一の言葉に、他の大人たちも深く頷いた。


昨日、凛の警告を受けた直後から、湊の指示で大人たちは総出で庭の薪や農具、備蓄品をすべて倉庫や家の中に運び込んでいたのだ。


「あの外にあるものは、もうすべて汚染されたわ。追加の燃料も、山の山菜も、当分は手に入らない」


凛は、窓を打ち付ける黒い雨を見つめながら、残酷な事実を口にした。


「ええ。でも、私たちは間に合った」


湊が一歩前に出て、大人たちの顔を見回した。


「倉庫の中には、冬を越すための薪が天井まで積んである。水も、地下深くから汲み上げる井戸水だから汚染されていないはずです。……外の世界は死にました。でも、俺たちの『城』には、生き残るためのすべてが揃っている」


湊は力強く言い放った。


最善を尽くした彼らの備えは、見事に共同体の命を繋ぎ止めたのだ。


「無駄な消費を抑えてルールを守れば、必ず生き延びられる。絶対に、誰一人死なせはしない」


十五歳の少年の揺るぎない宣言は、外で降りしきる黒い雨の不気味な音をかき消すように、二十五人の心に確かな希望の火を灯していた。

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