第3話:沈みゆく太陽と、集う火種
【2040年 6月27日 11:00】
加藤家のリビングは、静寂と鉄錆の匂いに包まれていた。
床には頭から血を流して動かない達也と、湊たちの反撃によって意識を失った二人の暴漢が転がっている。
湊は、荒い息を吐きながら手にした金属バットを握り直した。
「……湊くん。こいつら、どうする」
誠が、震える声で問いかけた。足元に転がる男たちは、今は無抵抗だが、目を覚ませば再び牙を剥くのは明白だった。
逃げた一人が仲間を連れて戻ってくる可能性を考えれば、背後に爆弾を抱えたままこの場を離れるわけにはいかない。
「生かしておけば、必ず俺たちを殺しに来ます。……街はもう、警察も病院も機能してない。縛っておいても、誰がこいつらの飯を食わせるんですか?」
湊の言葉は冷酷に響いたが、それは十五歳の少年が捻り出した、あまりに正論で残酷な生存戦略だった。
健一が斧を握る手に力を込め、男の一人を見下ろした。
「……私がやろう。君に、これ以上の業を背負わせるわけにはいかない」
「いいえ、田中さん。俺が言い出したことです。……俺も、やります」
湊の瞳には、逃れられない運命への諦悟と、隣人たちを守るという執念が混在していた。
大人たちは、顔を見合わせた。自分たちが守るべきはずの少年に、人殺しの片棒を担がせようとしている。その罪悪感がリビングに重く沈殿した。
しかし、達也の傷口から溢れる血が、決断を促した。
「……やるしかない。みんなで、背負うんだ」
誠が呻くように言い、ゴルフクラブを持ち上げた。
湊は、意識を失っている男の頭の傍らに立った。昨日まではただの同級生や近所の少年だった自分が、今、この手で「トドメ」を刺そうとしている。
胃の奥からせり上がる吐き気を、奥歯を噛み締めて押し殺す。
(殺さなきゃ、俺たちが殺される。北条が、莉子ちゃんが、また酷い目に遭う)
自分にそう言い聞かせ、湊はバットを高く振り上げた。
乾いた音がリビングに響き、肉と骨を砕く感触がバットを通じて湊の両腕に伝わる。
続いて、誠のゴルフクラブと、健一の斧が、もう一人の男へと振り下ろされた。
一度、二度、三度。
動かなくなった肉体を前に、三人はしばらくの間、石像のように立ち尽くしていた。
湊の手は、自分でも驚くほど激しく震えていた。
「……行こう。もう、ここにはいられない」
健一の掠れた声に促され、湊は血に汚れたバットを掴み、この場を誠と健一に任せて外へ出た。
向かったのは、すぐ近くにある田中家の高い石垣の裏だ。
そこには、栞、恵、由美子、そしてきよの四人が、息を潜めて湊たちの帰りを待っていた。
湊が角を曲がり、その姿を現した瞬間だった。
「湊くん……!」
栞が、弾かれたように駆け寄ってきた。
彼女は湊の無傷な姿を確認するなり、堰を切ったように、彼の腕を震える手で強く掴んだ。
「よかった……本当に、無事でよかった……。中から嫌な音が聞こえて、ずっと、どうしようって……もし湊くんに何かあったらって、私……」
大きな瞳に涙を溜め、湊の安否を自分のこと以上に喜ぶ彼女の姿に、後ろで見ていた大人たちは思わず顔を見合わせた。
佐藤の妻、恵がきよと顔を見合わせ、口元を綻ばせて小さく頷いている。
湊は、栞の温もりに触れて初めて、自分の身体が氷のように冷え切っていたことに気づいた。
彼女の無垢な信頼が、先ほど奪った命の重みをより一層鋭く突きつけてくる。
「……ごめん、心配かけた。もう大丈夫だ。加藤さんも、なんとか助け出したから」
湊の声は少し震えていたが、栞はそれに気づかないほど必死に彼に縋っていた。
その様子を、恵が少し茶化すように、だが温かく見守りながら声をかける。
「湊くん、こんなに心配してくれる子がいて幸せね。さあ、まずは加藤さんの家に行きましょう」
加藤家に戻った湊は、2人の亡骸に目を向けないよう、倒れている達也の呼吸を確認した。
息はある。
だが、頭部の傷が深く、意識は戻っていなかった。
「……逃げた一人が、仲間を連れて戻ってくるかもしれない。ここに留まるのは危険です」
湊が顔を上げると、周囲を取り囲む大人たちの顔に緊張が走った。
真由美は泣き疲れた娘の莉子を抱きかかえ、不安そうに湊を見つめている。
「でも、達也さんを動かすには担架代わりの戸板と、もっと人手がいります。……俺と佐藤さんで、近所を回って人を集めてきます。田中さんは、ここで女性陣と一緒に加藤家を守ってください。鍵と窓をしっかり閉めて、絶対に誰も入れないで」
「わかった。任せてくれ」
田中が、血のついた薪割り用の斧を強く握り直して頷いた。
栞も、湊の腕を掴んでいた手をようやく離し、今度はその手を真由美の背中に添えて、湊に向かって静かに頷き返す。
その目に込められた「無事で戻ってきて」という強い祈りを背中に受け、湊は佐藤誠と共に再び静まり返った外の道へと飛び出した。
【同日 12:30】
湊と誠は、慣れ親しんだはずの近隣住宅を一件ずつ回っていった。
五軒目の渡辺家では、玄関先で木刀を構えた徳治が、鬼のような形相で二人を迎え撃とうとしていた。
「湊か! 佐藤さんも……無事だったのか」
湊が加藤家の惨状と、自らの家に備蓄があることを必死に説明すると、徳治は重々しく首を振って木刀を下ろした。
「……うむ。街の方は地獄じゃ。略奪に火事、警察も軍も来やせん。わしも、よしを連れてどこへ逃げればよいか迷うておった。湊、お主の言葉を信じよう。老い先短い身、お主たちの盾にでもしてくれ」
「徳治さん……ありがとうございます」
さらに隣の小林家へ向かった。
小林家では、玄関の鍵だけでなく内側から家具でバリケードを築いているらしく、湊が何度呼びかけても応答がなかった。
「小林さん! 佐伯の湊です! 佐藤さんも一緒です、開けてください!」
湊が声を張り上げると、ようやく二階の窓から健吾がおそるおそる顔を出した。その目は血走っており、手には台所包丁を握っている。
「湊くんか……! 本当に君なのか!? おかしい奴らがうろついてるんだ、誰も信じるなって祥子と話してて……!」
「俺の家に来てください。食料も水もあるし、何より大勢で固まった方が安全です!」
「……だ、だが、陽太と結衣を連れて外に出るなんて、どうすればいいんだ……! 途中でまた誰かに襲われたら……!」
パニック気味に包丁を振り回す健吾に、湊は毅然と言い放った。
「俺が守ります。俺と佐藤さんで、絶対に小林さんたちを俺の家まで届けます。……今のまま、ここで家族揃って飢え死にするのを待つつもりですか!」
湊の力強い言葉に、健吾はようやく包丁を下ろした。一階からバリケードを退ける音が響き、祥子に抱きかかえられた子供たちと共に、小林家が外の世界へと足を踏み出した。
最後に、坂をさらに下り、佐伯家から少し離れた場所に建つ相沢家を訪ねた。
女子大生の凛は、リビングのソファに腰掛け、手元に護身用のバールを置いて一人で静かに時を待っていた。
湊のノックに応えて玄関を開けた凛は、湊の顔と、その服に付着したどす黒い返り血をじっと見つめた。
「あら、湊くん。ずいぶん物騒な格好をしてるじゃない」
凛は年上らしい落ち着きを保っていたが、その指先はわずかに震えていた。
「凛さん、無事だったんですね。……ここにいるより、俺の家に来てくれませんか。あそこなら米も水もある。凛さんの知恵も貸してほしいんです」
湊の必死な提案に、凛はふっと口元を緩め、からかうような視線を向けた。
「ふふ、そんな顔で見つめられたら断れないわね。……いいわよ、湊くん。私にできることがあれば何でも手伝ってあげるわ。環境科学のゼミで学んだ知識くらいは、役に立つかもしれないし」
凛は手際よくリュックに荷物をまとめると、湊の横に並んだ。
「さあ、案内してちょうだい。湊くんの築いた『お城』へね」
凛を含む生存者たちは、湊の指示に従い、一旦加藤家へと集結した。
男たちが協力して戸板を外し、重傷の達也を寝かせて担架を作る。
「準備はいいですか。ここから俺の家まで、全員で固まって移動します。子供や女性を真ん中に入れてください。何かあっても、絶対に列を乱さないで」
十五歳の湊が放つ、戦場のような緊張感を帯びた号令。
大人たちは、いつの間にかこの少年に命を預けることに何の疑問も抱かなくなっていた。
一行は息を潜め、暴漢たちの影を警戒しながら、山道をゆっくりと、だが着実に佐伯家へと向かった。
途中、何度か遠くで怒号や悲鳴が聞こえたが、湊の鋭い眼光が一行を鼓舞し、誰一人欠けることなく「拠点」へと辿り着いた。
【同日 15:00】
佐伯家に到着し、怪我人の達也を寝かせ、一息ついた時のことだった。
庭先に出た凛が、重く垂れ込める空を見上げて立ち尽くしていた。
「凛さん? どうかしたんですか?」
湊が声をかけると、凛は振り返り、集まってきた大人たち全員を見回して、重い口を開いた。
「皆さん、空を見てちょうだい。あれは、単なる雨雲じゃないわ。……核爆発で成層圏まで巻き上げられた『すす』なのよ」
「すす……? それがどうしたっていうんだい?」
徳治が尋ねると、凛は悲痛な面持ちで首を横に振った。
「数日以内に、太陽の光はあの黒い雲に完全に遮断されるわ。日照量が激減して、気温が一気に氷点下まで下がる……いわゆる『核の冬』が来るのよ」
「氷点下!? 今は六月だぞ!?」
健吾が声を荒げるが、凛の表情は真剣そのものだった。
「季節なんて関係ないわ。作物は全滅するし、真冬以上の寒波がずっと続くの。食料だけじゃない……燃料がなければ、私たちは凍死するわよ」
先ほどリビングで下した残酷な決断さえ、この圧倒的な絶望の前では、生き延びるための些細な儀式に過ぎなかったのかもしれない。
庭先は凍りついたような静寂に包まれた。
絶望が伝染しそうになったその時、湊が一歩前に出た。
「凍死なんてさせません。皆さん、裏の倉庫を見てください」
湊に案内され、大人たちが大きな倉庫の扉を開ける。
そこには、湊の父親が農協へ出荷する予定だった玄米の袋が、山のように積まれていた。
「米だけで、十トン以上あります。庭の井戸は手動ポンプで水が枯れないし、この家自体も雪国の冬に耐える頑丈な造りです」
湊は、絶望に打ちひしがれそうになる大人たちの目を見据えた。
「ここを拠点にします。この『城』なら、俺たちは生き延びられる。だから、力を貸してください」
十五歳の少年の堂々たる宣言に、佐藤や田中をはじめとする大人たちの顔に、再び確かな希望の光が宿った。
【同日 18:00】
日が傾き始めると、佐伯家では早速「冬」への備えが始まった。
湊の父が遺した薪割りの道具を使い、男たちが庭の木や、以前からストックされていた薪を整理し始める。
一方、台所では、恵や由美子、そして凛たちが中心となり、備蓄の米を炊く準備を進めていた。
「湊くん、これを見て」
栞に呼ばれて裏手に回ると、そこにはかまどから上がる煙と、その熱を利用して大きな鍋で沸かされている湯があった。
「夜になると冷えるから、今のうちに身体を温めてもらおうと思って。ソーラーの湯が足りない分は、こうして足せばいいんだよね?」
栞の少し誇らしげな笑顔に、湊の強張っていた心がわずかに解けるのを感じた。
十七人の生存者が、一つの屋根の下で初めての夜を迎えようとしていた。




