第2話:寄せ集めの城
【2040年 6月27日 06:35】
冷たい水で火照った頭を冷やし、どうにか冷静さを取り戻そうとしていた湊は、バスタオル一枚を腰に巻いた状態で脱衣所のドアを開けた。
「……っ!?」
すぐ目の前、文字通り鼻先が触れそうな距離に栞が立っていた。
「ひゃっ……!?」
栞が短く悲鳴を上げ、反射的に両手で顔を覆い隠す。指の隙間から覗く耳から首筋にかけて、一瞬にして熟したリンゴのように真っ赤に染まっていくのが分かった。
「あ、悪い! すぐ服着るから!」
湊も心臓が口から飛び出そうになるほど驚き、慌ててドアを閉めようとした。しかし、栞は顔を伏せたまま、その場から一歩も動こうとしない。
「……後ろ、向いてるから! どこにも行かないで! お願い、そこにいて……!」
震える声で叫ぶ彼女を見て、湊はハッとした。女の子としての恥じらいよりも、たった一人で静まり返った家の中に取り残される事への根源的な恐怖が、彼女の理性を上回っているのだ。ドア越しに感じていたあの震えは、本物だった。
「……わかった。ここにいるよ。後ろ向いてて。今すぐ着替えるから」
湊は極力優しい声を作ってそう告げると、脱衣所の影に身を隠し、大急ぎで服に袖を通した。数秒で着替えを終え、湊が再びドアを開けると、栞はまだ壁に向かって背を向け、肩を小刻みに震わせていた。
「もう大丈夫だ。服、着たから。……ごめん、驚かせて」
「……ううん、私こそ、変なこと言ってごめんね」
栞がゆっくりと振り返る。その瞳にはまだ薄く涙の膜が張っていたが、湊がそこに存在しているという確かな事実に、彼女は深く、深く安堵の吐息を漏らした。
【同日 08:00】
カセットコンロでお湯を沸かし、買い置きのフリーズドライの雑炊を二人で分け合った。
質素な朝食を済ませた後、湊はテーブル越しに栞の目を真っ直ぐに見据えた。
「北条。俺は、近所の人たちと協力して自衛していかないといけないと思ってるんだ」
「自衛……?」
「ああ。さっきの暴漢みたいな奴が、また来るかもしれない。この家は山腹にあって見晴らしもいいし守りやすいけど、俺一人じゃ限界がある。北条を守り切れる自信もない」
湊の言葉に、栞はハッと息を呑んだ。
「……幸い、この辺の家は俺がガキの頃から付き合いがあって、変な人はいないはずなんだ。みんなで集まって、知恵と力を出し合いたい」
「……わかった。私も、できることは手伝うよ」
一人で置いていかれる事を恐れる栞を伴い、二人は連れ立って近所の家々を回ることにした。
一軒目は、湊の家のすぐ裏手にある佐藤家だった。
「湊くん! 無事だったのね!」
恐る恐る出てきたのは、佐藤誠と佐藤恵の中年夫婦だった。
普段は温厚な誠も、手にはゴルフクラブを握りしめ、酷くやつれた顔をしている。
「佐藤さん、うちは井戸水が出るし、温水器もあります。ここに集まって、一緒にこの山を守りませんか」
湊の提案に、夫婦は顔を見合わせ、安堵の涙を浮かべた。
「……助かるよ。正直、二人だけで夜を越すのは怖くて仕方なかったんだ。湊くんの両親も、北見から戻ってこれない状況なんだろう?」
誠の言葉に、湊は小さく頷いた。
「ええ。道路状況も分からないし、今は俺たちが生き延びることを考えないと」
二軒目は、少し坂を下ったところにある、退職したばかりの田中健一と田中由美子の家だった。
「若い君がそう言ってくれるなら心強い。食料の備蓄なら少しはある、すぐに持っていくよ」
健一は元公務員らしく、冷静に現状を分析していたようで、二つ返事で快諾してくれた。
三軒目は、少し奥まった場所にある一人暮らしの高齢者、高橋きよ(たかはし きよ)の家だった。
「おや、湊ちゃん。立派な顔つきになったねぇ。お婆ちゃん、足手まといにならないかい?」
「そんなこと言わないでください。きよさんの昔の知恵が、今は絶対に必要なんです」
三軒を回り、一行は湊と栞を含めて総勢七名の大所帯となった。
【同日 10:30】
「次は四軒目、加藤さんの家だ。加藤さんのところは旦那さんも若いし、心強いはずだ」
湊を先頭に、七人の生存者がなだらかな坂道を下る。
しかし、その家の敷地に差し掛かった瞬間、湊の背中に氷の刃を当てられたような悪寒が走った。
立派な一軒家の玄関ドアが、鈍器で殴られたようにひしゃげて半開きになっている。
そして、中から男の怒鳴り声と、女性の悲鳴、それに重なるようにして幼い子どもの泣き声が聞こえてきたのだ。
「離せ! やめろ! その子だけは!」
「うるせえ! 隠してる食いもんを全部出しな! 金目のもんもだ!」
湊は、弾かれたように後ろを振り返った。
「佐藤さん、田中さん……救出に行きましょう」
「……わかった。やるしかないな」
中年の男性二人は、恐怖に顔を強張らせ、膝を震わせながらも、持ち出したゴルフクラブや薪割り用の斧を力強く握り直した。
「栞は、佐藤さんの奥さんたちときよさんをお願い。あそこの、田中さんの家の高い石垣の裏に隠れていて」
湊が指差したのは、死角になっており、かつ背後が崖になっている為、絶対に背後から襲われない安全な場所だった。
「湊くん、気をつけて……絶対に無事で戻ってきて!」
栞の祈るような声を背に受け、湊は小さく頷くと、音を殺して荒らされた加藤家へと踏み込んだ。
玄関の土間には靴が散乱し、ガラスの破かな片が散らばっている。
リビングを覗き込むと、そこは地獄だった。
夫の加藤達也が、頭から大量の血を流して床に倒れ伏している。
ピクリとも動かない。
その奥で、三人の柄の悪い男たちが、妻の加藤真由美を床に組み伏せていた。
真由美はその腕の中に、泣き叫ぶ五歳になる娘の莉子を必死に抱きしめ、庇っていた。
「……今だ!」
湊の低い合図と共に、男三人が一気にリビングへと突入する。
「な、なんだてめえら!」
一人の暴漢が振り返りざまにサバイバルナイフを抜こうとした。
しかし、湊がフルスイングした金属バットがそれよりも一瞬早く、男の腕を捉えた。
ゴキッという骨の折れる音と共に、男が絶叫してナイフを取り落ろす。
続いて佐藤が、震える手でゴルフクラブを振り下ろし、男の肩を強打して床に沈めた。
田中も老体に鞭打ち、もう一人の暴漢の背後に体当たりを食らわせ、壁に激突させた。
「ぐわっ……!」
不意を突かれた二人の暴漢は、為す術もなく意識を飛ばし、その場に昏倒した。
しかし、残る最後の一人が、チッと舌打ちをして、倒れた仲間をあっさりと見捨てて掃き出し窓から庭へと飛び出した。
「逃げやがった……!」
湊は追撃しようと窓に足をかけたが、血だまりの中で震えている真由美と莉子の姿を見て、思いとどまった。
「もう大丈夫です、真由美さん。俺たちです。近所の、佐伯湊です」
湊は泣き崩れる真由美と莉子を横目に、血だまりの中で動かない達也の元へ駆け寄った。
「しっかりしてください! 達也さん!」
必死に呼びかけるが、達也の瞳は虚空を見つめ、微かに震える唇からは血の混じった吐息が漏れるだけだ。
湊は達也の顔に飛び散った血と、荒らされたリビング、そして恐怖に震える母子の姿を視界に収めた。その瞬間、湊の胸の内で「何か」が音を立てて壊れ、同時に冷徹な「義務感」が芽生えた。
(あいつらは……人じゃない。俺たちの生活を、ただ壊すだけの獣だ)
先ほど自分のバットが男の腕を砕いた時、感じたのは吐き気ではなかった。
(達也さんはこんな目に遭ったんだ。……次は、もう逃がさない。俺が……俺たちが, こいつらを始末しなければ、誰も助からないんだ)
達也の血だらけの顔を見ながら、湊の瞳から少年の迷いが消えていく。
自分の手についた他人の返り血を、湊は拭おうともせずに見つめていた。その背中には、先ほどまでの「助け合おう」という甘い理想は消え、この「城」を守るための冷酷なまでの決意が宿っていた。
終わりの始まった世界で、十五歳の少年は今、真の意味で「武器」を握り直したのである。




