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ラスト・サイレンス ― 核の冬に芽吹く祈り ―  作者: tky


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第16話:凍てつく涙と、したたかな交渉

【2040年7月15日】


「……換気して!全員、すぐに穴から出て!」


凛の悲痛な叫び声が、熱気と蒸気に満ちた和室に響き渡った。


ストーブで大量の湯を沸かし続け、床下で泥を掻き出していた防衛工作班の誠や義男が、次々と激しい頭痛と吐き気を訴えてうずくまっていたのだ。


「一酸化炭素中毒よ!すぐに火を消して、窓を少しだけ開けて!」


凛の迅速な指示により、辛うじて致死量に至る深刻な事態は避けられた。


氷点下三十度の冷気が容赦なく室内に流れ込み、換気は数分で済んだものの、閉鎖空間で火を燃やし続けることの危険性が露呈した。


お湯を使った強引な掘削作業は、開始からわずか数日で中止を余儀なくされた。


作業手順の抜本的な見直しが必要になったが、絶望の中にも僅かな希望はあった。


地表面から四メートルほど掘り下げた辺りから、土が明らかに柔らかくなり始めていたのだ。


それは地熱の影響を受け始めている何よりの証拠であり、お湯を使わなくともスコップで十分に掘り進めることが可能になっていた。


「ただ、問題は掘り出した土だ」


泥だらけの義男が、凍りついた土の塊を床下から放り出しながら言った。


「外気が冷たすぎて、奥に運ぶまでの間に土が凍っちまうんだ。これじゃあ隙間なく綺麗に埋め固めるのは難しいぞ」


「……多少の隙間は妥協するしかありません。今はとにかく、底の面積を広げることが先決です」


湊は冷徹に状況を判断し、作業の継続を指示した。


和室の片隅では、隔離スペースから出られるまでに体調が回復した祥子が、結衣の小さな体を力強く抱きしめていた。


しかし、健吾の口から兄の死を聞かされていた結衣は、数日振りの母親との再会に反応する事もなく、ただ薄汚れたウサギのぬいぐるみに顔を押し当てて、虚ろな目で宙を見つめている。


事実を受け止めきれず、心が完全に乖離してしまっている状態だった。


その光景は、湊の胸を鋭利な刃物でえぐるような痛みを伴っていた。


(俺には、どうしようもない……)


慰めの言葉など、今の彼らにとっては白々しい呪いでしかない。


湊は込み上げてくる感情を無理やり心の奥底に封じ込め、ただ無心でバールを振るい続けた。


同日午後。


「……湊、来い!下から客だぞ」


見張りに立っていた駿の緊迫した声が、砦の静寂を切り裂いた。


湊はバールを置き、二階の窓から身を乗り出した。


雪に覆われた坂の麓に、見慣れぬワンボックスカーが停まっている。


そこから降り立った四人の人影が、武器らしきものを手に、警戒しながらこちらへ向かって徒歩で近づいてくるのが見えた。


「……エンジン音が聞こえたってことは、まだ動く車を持っている連中だ」


湊は即座に思考を巡らせ、防衛工作班の大人たちを集めた。


「敵の可能性が高いです。正面から俺、誠さん、義男さんで接触します。駿さん、健吾さん、健一さんは裏口から回って、奴らの背後を取ってください」


相手を完全に包囲し、いざという時には一瞬で制圧できる陣形を組む。


極限状態を生き抜いてきた砦の男たちは、湊の指示に無言で頷き、それぞれの武器を手に取った。


正面玄関の重い扉が開く。


吹きすさぶ雪の中、十メートルほどの距離を保って、四人の男たちが立ち止まった。


相手もまた、こちらの予想外の人数と、背後に回った駿たちの存在に気づき、明らかな動揺を見せていた。


「……何の用ですか」


湊がガスマスク越しに低く鋭い声を放つ。


「ま、待ってくれ!俺たちは怪しいもんじゃない!」


リーダー格らしき小柄な男が、慌てて手に持っていたバールを雪の上に放り投げた。


「食料を探して、あちこち回ってるんだ。あんたらのところ、煙が見えたから……もし食い物があるなら、分けてもらえないかと思って」


一酸化炭素中毒の騒ぎで換気した際の煙を見てここまで来たこの男たちには、隠しきれない飢えと疲労が滲んでいた。


湊は背後の誠と視線を交わし、相手が略奪者ではなく、単なる難民に近い集団である可能性が高いと判断した。


だが、この世界に無償の施しなど存在しない。


「……ただで渡せる食料はありません」


湊の冷酷な言葉に、男たちの顔に絶望が走る。


しかし、湊はすぐに言葉を継いだ。


「ですが、取引なら可能です。俺たちには、米があります」


「米……!本当か!」


「ええ。その代わり、そちらが持っている塩、あるいは燃料になるもの……ガソリンでも薪でも構いません。それらと米を交換しませんか」


湊の提案は、現在の砦にとって最も切実な問題を解決するための、したたかな交渉だった。


男たちは顔を見合わせ、数秒の沈黙の後、リーダー格の男が真剣な表情で湊に向き直った。


「……分かった。塩も少しならあるし、車のガソリンも抜いて渡せる。だが、レートはこっちにも考えがある。価格交渉をさせてもらいたい」


「構いません。どれくらいの交換を希望しますか」


「俺たちは四人で動いているが、拠点にも仲間がいる。ガソリンのポリタンク二つ、約四十リットル分を出す。その代わり、米を三十キロ譲ってほしい」


「……分かりました。その条件で取引しましょう」


湊が即答すると、男の顔に安堵の色が浮かんだ。


「明日の正午、もう一度この坂の下に車で来てください。車の前にポリタンクを二つ置いて、あなたたちは車内に入って待機する。俺たちがガソリンを確認したら、同じ場所に米三十キロを置きます。同時に近づくことはしない。それでいいですね」


「ああ、分かった。明日、必ず来る」


交渉は成立し、男たちは逃げるように車へと戻り、雪道を引き返していった。


砦の和室に戻った湊たちは、車庫の玄米から三十キロを計量しながら、深刻な話し合いを始めていた。


「罠じゃないのか、湊。ガソリンなんて今の時期、命より大事な代物だぞ。それをたった三十キロの米で渡すなんて話がうますぎる」


健吾が腕を組みながら、疑心暗鬼に満ちた声で言った。


健一も同調して頷く。


「ああ。取引と見せかけて油断させ、米も燃料もすべて奪い取る気かもしれない。それに、あいつら車で来たが、この極寒の中でどうやって車を維持しているんだ」


大人たちの不安は尤もだった。


だが、湊は床下の図面を見つめながら冷静に分析を口にした。


「彼らが車を動かせているということは、彼らの拠点は暖房が機能しているなど、何かしら強固な施設である可能性が高いです。四人が抜けても維持できるだけの人数もいるはずです」


「だとしたら、なおさら危険じゃないか」


「いいえ、食料の奪い合いが激化している今の状況を考えれば、取引には合理性があります」


凛が湊の言葉を引き継ぐように言った。


「田舎のガソリンスタンドや放置されたタンクローリーから、大量の燃料を備蓄できたグループがいる可能性は十分に考えられるわ。汚染された外の薪を拾って燃やすリスクを考えれば、ガソリンの価値は計り知れない。でも、燃料だけではお腹は膨れないのよ」


凛の言葉に、義男が顎をさすった。


「なるほどな。ガソリンは余るほどあるが、食い物が底を突いてるってことか」


「ええ。それに、気温がこれ以上低下すれば、エンジンオイルも凍結して車は完全に使用不可になります。彼らも、車が動かせる今のうちに遠出して、必死に食料を集めているんでしょう」


湊は玄米の袋をしっかりと結びながら、大人たちを見回した。


「相手からすれば、俺たちがこの状況で三十キロもの米をぽんと出せること自体が、巨大な罠に見えているはずです。お互いに疑心暗鬼の中で、生きるための取引をするしかないんです」


「……もし明日、奴らが武装して大挙して押し寄せてきたらどうするんだ」


誠の重い問いかけに、和室の空気が一瞬張り詰めた。


「その時は……」


湊は金属バットを強く握りしめ、冷たい瞳で断言した。


「戦うしかありません。ガソリンが手に入れば、発電機を回して新たな熱源が手に入る。この取引は、絶対に成立させなければならないんです」


十五歳の少年の覚悟に、大人たちはもはや何も言えなかった。


命を繋ぐための三十キロの米と、狂気に満ちた世界での約束。


砦の住人たちは、明日やってくる未知の結末に向けて、武器の手入れを黙々と始めた。

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