第9話
週末が終わると僕は夢乃さんの家を出て一度自宅へ戻った。あそこにずっと居てしまえばまた大学へいく気も失せると思い、堕落しないようにと外界へ飛び出した。彼女は僕がちゃんと戻ってくるかどうか不安だったようで「ここにずっと居てほしい。」と腕を相当の力で掴まれた。その時に自分は恋人として愛されているのではないかという錯覚を起こした。でも本当は心中相手として求められているだけだと言うことは頭の奥底で理解していた。
大学では久しぶりに外の世界に接したような気分になった。百数十人が入り混じるような大教室では誰しもが「目の前の人間が明日死ぬかも知れない」なんて微塵も考えることなく雑に言葉を交換し合う。数ヶ月後の予定を平気で立てる余裕があり、同時に数年後の将来を考えて行動する人間も溢れている。何だかそんな活気に溢れた空間が新鮮に思えたが、世界ではこれが普通だったと、ただ強く思う。
退屈な講義が終わり、通勤ラッシュの電車内のように混み合ったエレベーターに乗り込んでそのまま、立派なエントランスを飛び出した。続いていく明日からの日々を常に意識することが美徳とされる大学の空間にいると精神的な疲労感を感じた。だからそこに適応するにはもう少し身体を慣らす必要があると思った。
そうして外へ出ると目の前の大通りではちょうど大規模なデモ行進が行われていた。その人たちが掲げていたのは「同性婚の合法化」であった。同じ色のTシャツを着て汗を滲ませながら、多様性を謳い堂々と公道を練り歩く。持参されたスピーカーからは陽気な音楽が流れて、歩いている人々は沿道で傍観する僕らに手を振ってくる。そんなパレードぶったデモ行進は騒がしくも続いてゆく。「本当に愛する人と結婚できない苦しみ」を声高らかにアピールして、彼らは満足げな顔をしていた。同性愛者が結婚できないのは法律や制度、それから人々が持つ家族観に対するステレオタイプのせい。
けれど僕だって「愛おしい人と恋愛できない苦しみ」を持っている。僕が彼女と恋愛できないのは、彼女自身の自殺願望、ただそれだけのせい。
同性愛者よりもさらにマイノリティの人間がそばにいるからこそ僕にはデモ行進の参加者の気持ちが理解できる。でも恥ずかしげもなく自らの感情を曝け出す度胸がない。そして叫んだとて、彼女の本質は変わってくれない。
デモ行進が過ぎ去った幹線道路はまた正常に車が行き交うようになる。彼らが練り歩く前と後で、結局この世界は何一つとして変わっていないと思う。
大学の最寄駅から夢乃さんが住む町の駅までは各駅停車で十分もかからずに着いてしまう。終点のひとつ前の、この駅のホームに降り立つ人はサラリーマンが多い。僕も同じ路線沿いに住んでいて大体の家賃相場は分かるので、彼女はどれほど金に恵まれているのだろうかとつくづく嫉妬じみた嫌な気持ちになる。彼女のマンションの近くには予約必須の日本料理屋やビストロが立ち並ぶ。そして彼女の部屋のベランダからは繁華街の商業ビルがほど近くに見えるが、この辺りは閑静な住宅街で全体的に上品さを纏っている。
そんな街を歩いて今日も一人で生きている夢乃さんに会いにいくことは、とうに日常になっていた。
二日ぶりにインターフォンを鳴らすと、ドアの向こうから小走りでやってくる彼女の足音が聞こえて、安堵する。弾むようなその足音には温もりを感じた。
「ちゃんと帰ってきました。」
ドアが開いて、微笑む顔を見せる彼女は今日も愛らしい。僕はこの人と恋愛したいとやっぱり今でも思う。
「一度だけ、帰ってこないんじゃないかって疑いました。あの走れメロスみたいに。」
「最後、お互いに殴るやつですよね。」
「そうです」と彼女は頷く。部屋に入ると、今日もまっさらなこの空間には冷房が効いていた。早いものでもう七月になり、エアコンから流れる冷たく乾いた空気が心地いい時期になった。
「あ、そうだ。よかったらこれ使ってください。」
僕は手土産として駅前で買った箸を夢乃さんに手渡した。
「ありがとうございます。また料理でも、作りましょうね。」
「そうですね。」
「他にも作ってみたいものたくさんあるんです。」
「でもなんかキッチン周りに少し物が増えましたよね。」
キッチン周りにはいくつかの調味料が置かれていて冷蔵庫にも買い出しのメモが貼られている。冷蔵庫を開けると卵や味噌、それから牛乳などもポツポツと置かれていた。
「前は本当に空っぽだったのに、なんか良いですね。」
「君が来るから、それまでにちょっと用意しておきましたよ。」
彼女のその伝え方に胸がときめく。
「明日のために食べ物を用意する。これこそまさに自然に生きるっていうことだと思います。」
「じゃあ私にもその自然に生きるとやらが、ちょっとわかってきたってことですかね。」
そんなことを言う夢乃さんは週末よりも心が軽そうだった。もしかしたら死にたい気持ちが薄まりつつあるんじゃないかと、淡い希望を抱いた。
「うん。きっとそうです。」
このまま時間が進めば、どこにでもあるような幸せな空間が出来上がり、死の香りさえ充満しなければ、きっと恋人にもなれると思う。
今日僕は彼女の自殺願望の真相を聞くために、ここまで会いにきた。でもそれを聞く気が失せるほどに、彼女が僕と会う今日のために準備してくれたことが嬉しくて堪らなかった。
けれどテレビも何もなく、静寂なこの部屋ではそれを誤魔化し続ける方法がなかった。ただひたすらに静かな空間には、二人分の呼吸の音が聞こえるだけだった。
「最初に、死にたい気持ちのこと話しておいても良いですか?」
「そうですね、、、」
彼女はソワソワしながらそう聞いてくる。どうせ死にたい気持ちが無くなっていないのなら、辛いことは最初に終わらせておいた方がいいと僕も思った。
早速、真四角な部屋の中央で、お互いクッションに座りながら理由を打ち明ける準備と、それを受け止める心の準備を進めてゆく。でも得体の知れない彼女の死への感情に対峙して、それを自分自身で噛み砕いて理解しきる自信はあまり無い。
「まず私は常に死にたいと思っているわけじゃ無いです。」
彼女の方から言葉が吐き出される。
「ある時急に、ああ死にたいかもって思うんです。」
「発作的にですか?」
「うん、そんな感じです。何の前触れもなく朝起きた瞬間にそう思う時もあります。」
それが無意識に起こると言うのが、僕には想像も付かない。
「全く死にたいとは思わない日もあります。何となく生きていられる日が。でもそういう日には明日になったらまた死にたいと思ってしまうかも知れないという不安がひどいです。」
窪地の街の池で彼女が語った「明日死にたくなるかも知れない」という言葉を思い出す。
「そして死にたいと思う日は、どうせ死ぬんだからってなんか心が軽くなって精神的にはすごく楽になるんです。それがきっと良く無いことなんでしょうけど。」
「いつ死にたくなるかわからない不安を抱える日よりも、どうせ死ぬんだからって投げやりになって、余裕感を持てる日の方が私は心地よくて。それならずっと死にたいと思い続けた方がいい気がして、今に至ります。」
はっきりとその真相を聞くと彼女の自殺願望について少し共感できることが、逆に苦しかった。
「じゃあ今日はどっちの日ですか?」
「今日は死にたい日です。」
彼女は迷うことなくそう答える。確かにその朗らかな笑顔からは余裕感が感じ取れる。死にたいと今まさに思っている、そんな彼女の言葉や温もりをどのように扱えばいいのか。それが僕にはわからない。
「そういう、死にたい気持ちが出るようになったのは、いつからだったんですか?」
「中学生くらいですかね。でも何か辛いことがあったとか、そんなわけじゃなくて唐突に。」
「死にたい気持ちを他の誰かに言ったことはありますか?」
とりあえず彼女の気持ちを多面的に見つめて明らかにするために、質問を続けた。
「君が初めてです。これまでは誰一人に漏らしたことは無かったです。」
「どうして僕には言ったんですか?」
「良い意味で偶然ですかね。私がもうこの自殺願望を隠し通すのが限界だった時に君と運よく会えたから。」
それはきっと僕に特別な魅力があったわけでもないことを意味するのだと思う。
「そしたら、あの時僕じゃない誰かと先に出会っていたら、その人を選んでいたんですか、、」
「でも運命ってきっとそういうことですよね。無数のタラレバの上にあるのが。」
無数のタラレバ、あの時彼女を無視して横断歩道を渡っていれば。猫耳を外してあげなければ。バイト先で居場所を無くさなければ、今こうして彼女と二人でいないということはわかる。
「まあ、きっとそうですね。」
薄手のカーテンから夏の日光が木漏れ日のように差し込む。僕らが出会ったのが運命だと言えども、僕が彼女の元から永遠に離れることになったら、きっとまた彼女は別の人間と死に陶酔するのだと思う。僕はたまたま、彼女が死にたいと思ったタイミングで目の前に現れた人間に過ぎないから。その偶然は、何だか店長の自殺未遂と似ていると思った。
「でも僕思うんですけど、、良いですか?」
「うん。言ってください。」
目の前にいる彼女に与える言葉を選ぶのには少し時間がかかる。死にたい気持ちを抱えていると思うと僕の些細な言葉で崩れてしまわないかと不安になるから。
「君は本当に死にたいというよりも、気持ちを楽にして生きるために、死にたい気持ちを持っていますよね。」
彼女は「ん?」と少し不思議そうに首を傾げる。
「緊張したり不安に襲われた時に脳内にアドレナインって出るじゃ無いですか。それと同じように君はあえて死にたい気持ちを抱くことで、余裕感をもたらす幸せなホルモンが脳内に分泌されて。そして日々感じている不安感が解消されていますよね。だったら君はずっと死なないんじゃ無いですか?幸せに生きるために、死にたいと思っているんだから。」
僕は彼女のセンシティブな部分に持論をぶつけることが怖くもあったけれど、すっきりとした気持ちにもなった。彼女の表情を慎重に確認すると、少し口元を引き結んだ顔をしていた。
「確かに、君の言う通り、幸せなホルモンみたいなものが出ている気もします。でも単純な話で、そんな刺激を繰り返していると耐性ができてそのうち効かなくなってきます。そしたら、もう死にたいという気持ちだけじゃどうにもなくなると思うんです。」
そう言われてしまえば、僕には返す言葉が見当たらなかった。ただ沈黙し、彼女の自殺願望の手強さを実感した。
「そうですよね。まあそんな簡単な話ではないですよね、、」
受け入れられるかは置いておいて、自殺願望の構造を知れたことに意味があるんだと思う。少なくとも自殺したいと思うだけで、心が軽くなるうちは死なないと言うこと。
「私も怖いです。自分のことを打ち明け続けたら君はもうここにはいてくれないんじゃ無いかって。」
夢乃さんは弱々しく、そう言う。
「今更君から離れても、他人にはなれないのでどこにも行きません。」
どこにいるのかも、何をしているのかも、はたまた生きているのかも分からないまま。それでも夢乃さんのことを想い続けてしまったら、それは耐えられないと思う。だからもう離れようという気にもならない。
そう伝えた時の彼女の嬉しさを隠しきれない表情が、また運命になる。
「今日は何か夜ご飯でも作りますか?」と聞いたが、死にたい日の夢乃さんはあまり手の込んだ料理を作りたがらなかった。お母さんが昔作っていた料理なんかは尚更嫌だと言う。だから二人でコンビニに行き、安くて大きいだけの菓子パンを買った。
「死にたい日にはただ甘いものを食べていたい。余計な思い出とかがないと良い。」と彼女は話して、パンを頬張った。僕もパンに塗された砂糖の甘ったるさを感じながら
「もしも最後の晩餐があったら何を食べたいですか?」
と聞くと彼女は少し考えた後に
「その時に、一度も食べたことのない食べ物だったら何でも良いです。」
と答えた。もしも同じ質問を死にたくない日にしたらどう答えるのだろうかと僕は思った。
そして死にたい日には洗濯もしたがらなかった。
「洗濯機を回して、ベランダに干したら翌朝洗濯物を回収して畳むまで終わらないじゃないですか。次の日まで掛かる作業をやる気にはならないです。」
「でもそしたら、僕がバイトしてた時の制服を毎日洗ってくれてたのは無理してたんですか?きっと死にたい日も何日かありましたよね?」
毎晩洗濯をしてくれて、翌朝丁寧に畳んでくれたことを思い出して、申し訳なくなった。
「それは君のおかげで客引きを辞めれたっていう恩があったので、頑張りました。」
「そういうことだったんですか。」
彼女は今でも「あのバイトを辞めれたのは君のおかげ」とたまに口にする。だからこそ、あの役割が彼女にとってどれほど苦痛だったかが、僕には分かる。
お風呂上がり、さっきコンビニで一緒に買ったペットボトルの麦茶を飲みながら彼女は
「明日も大学に行くんですか?」
と聞いてきた。
「明日も行きます。でも、あと一週間もしたら夏休みになるんです。」
「本当ですか、じゃあずっとここにいれますね。」
当然のようにそう言ってくる彼女の言葉は重たくも愛おしかった。
「でも、実家に帰省とかはしないんですか?確か岩手?でしたよね?」
「少し前に親戚の葬式があって、その時に帰ったので夏は帰らないです。帰ってこいって言われない限りは帰りたく無いし。」
「そうなんですね。」
どうして帰りたく無いのかと言うことも彼女は聞くことなく、そっと受け入れてくれる。
「夢乃さんは?帰省とかしないんですか?」
「私は帰省とかないですよ。だってこのマンションに両親住んでますもん。」
「え?そうなんですか?」
彼女は床を指差して、「ちょうどこの部屋の真下です。」と言う。死にたい気持ちを抱える彼女のこんなに近くに両親が住んでいるなんて、思いもしなかった。
「真下?ここが元々実家っていうことですか?」
「いや、上京して一人暮らしするって言ったら両親も同じマンションについてくることが勝手に条件になってて、真下の部屋とは私も思いませんでしたけどね。」
監視され続けているようで厄介そうな両親だなと少し思った。
「でも言い方悪いかも知れないですけど、君はもっと一人ぼっちで生きているのかと思ってました。相談できる存在がこんなに近くにいるんですね。」
そう言うと、夢乃さんは唐突に床に手のひらを叩きつけた。その重い音がじんと響き渡り、僕は驚いた。
「物理的に近づけばそれでいい思っている親ほど、本質的には分かり合えないんですよ。」
彼女のその言葉はリアリティに溢れていて、とても印象深かった。
「夢乃さんが死にたいと思っていることも、両親は知らないんですか?」
「そうですよ。君と一緒に暮らしていることも。何もかも知らないままで、今も呑気に生活してます。」
「でも僕、一度くらいは君の両親に見られてるんじゃないですか?もしそうだったら嫌です。」
夢乃さんと僕の二人だけの空間だと思っていたのに、どうやらそうでもないという不安が沸々と沸いてくる。
「大丈夫です。仮に見ていたとしても、両親は元々私にあんまり興味がない人たちなので。」
彼女は笑いながら、あたかも当然のようにそんなことを言う。そして手のひらを床にもう一度叩きつけて、鈍い音が再び響いてゆく。
「どうして?君のことが心配だからこんなに近くに住んでいるんじゃないんですか?」
「違うんです。私の両親ってお互いのことがとにかく大好きで、自分達の幸せしか考えられないから、実家ではいつも二人だけの世界があって居心地が悪かったんですよ。なんていうか、両親と言うよりも見知らぬ恋人同士が同棲する部屋に無理やり放り込まれたみたいな。」
「そういう幼稚な両親に私が与えられた数少ない愛情が、近い場所に住むっていうことで。今まで私のことを散々放置してきたから、せめて物理的に近い場所に居てあげようっていう最低限の気遣いがあったと思うんですよ。でもそれ安直だし、幼稚だし、ありがた迷惑だし。」
彼女の口から溢れ出したその言葉たちにはどれもうっすらと恨みが塗られていた。そして四分の一ほど残っていた麦茶を飲み干して、呆れた顔をする。
「それでも、お母さんの料理だけは大好きだったですけどね。」
「そうだったんですね。」
そんな自分の家族に対するうっすらとした嫌悪感も夢乃さんの自殺願望を引き起こした一因なのかと思ったけれど、彼女は「それは多分違います。」と言った。何か明確な要因があるわけじゃない自殺願望はあまりにも厄介だと思った。死んでしまったら全てが台無しになると言うのに、彼女はそれを過剰に美化する。
今日も一日が終わり、僕たちは別々の部屋で眠りにつく。どうしたら彼女は死への幻想をやめてくれるのか、どうしたらバッドエンドだと気づいてくれるのか。そう言うことを考えながら薄暗い部屋で真っ白な天井を眺める。もうそれならいっそのこと、誰か僕らの目の前で無惨に死んでくれないかと思う。そうすれば夢乃さんでも死の醜さを理解できるかも知れない。
明日の夢乃さんは死にたい日なのか、それとも生きたい日なのか。そんなことを考えながら僕は掛け布団を強く握る。




