第8話
「重かったですねえ。」
台所に大きく膨らんだレジ袋を置く。彼女の白い手首の皮膚にレジ袋の持ち手部分が跡をつける。
「じゃあ早速作りましょう。」
僕はレジ袋の中身を冷蔵庫に閉まって手を洗う。彼女は唐揚げを作りたいと言った。それがお袋の味だったようで、親の愛情は人並みに受けているのかと思った。
「お母さんにもらったレシピがあるんですよ、ほら。」
夢乃さんは棚から小さなメモ帳を取り出して、僕に見せた。イラストと共に作業工程が事細かに記されていてとても分かりやすかった。
それを基に二人で協力して唐揚げを作る。まな板の上で具材を丁寧に切り分けたり、計量カップのメモリを凝視しながら調味料を入れる。そんな彼女の姿から死の香りは全くしなかった。調味料に浸された鶏肉を冷蔵庫にしまう時に見せる夢乃さんの嬉しそうな表情。これこそが自然に生きることだと思った。
そして三十分ほど漬け込むために時間を置いて、調理を再開させた。
「そういえば、市販の鶏肉で鳥刺作って救急車で運ばれた人のニュースをネットで見ました。」
夢乃さんは冷蔵庫で漬け込んでおいた鶏肉が入ったボウルを取り出しながらそう言った。
「そんな人もいるんですね。」
片栗粉をトレイに出しながら何となく返答する。
「生の鶏肉って言ったら毒みたいなものじゃないですか、これを食べたら病院送りって。そんな毒が身近にあるのってなんか不思議です。」
「不思議ですか?」
「かろうじで食べていないだけですよね。そう考えると怖くなってきます。」
夢乃さんはさっきまで普通に持っていたボウルを乱雑に置き、蛇口を捻って流水で手を洗い出した。
「なんか嫌です、毒がボウルに入っているのが。」
僕は少しうんざりしながらも彼女の濡れた掌にそっと触れてあげた。
「でもそんなこと言ったら包丁だって指先を簡単に切っちゃうだろうし、この炊飯器のコードでも首を絞めることはできるだろうし。それを気にしてたらキリが無いですよ。」
そう言うと夢乃さんは初めて僕の手を握り返した。
「なんか、かろうじで生きているけど、危ういことばっかりだなって思わないですか?」
そう不安そうに呟く夢乃さんを見て、この人は日々の中で幸せよりも危うさを見つけ出してしまうんだろうと思った。それが自殺願望に繋がっているのかは分からないけれど。
だけど小さなテーブルに出来上がった料理を並べていくうちに彼女はさっきの自然な笑顔を持った人間へと戻っていった。そう言う表情を見ていると安心してくるし、ずっとこれが続けばいいと思う。
向かい合って座り、スーパーで買った割り箸を使って出来立ての唐揚げを口に運んだ。繊細な味付けと絶妙な衣の弾ける音、そして温かさがそれらを包み込み、僕は自然と笑顔になった。彼女は「懐かしい」と言って自分たちで母の料理を再現できた喜びを語った。雨上がりの夕日が窓の外から差し込む。こんな彼女との自然な営みの時間が増えるようにまずは二人分の箸を買おう、そして冷蔵庫いっぱいに好きな食べ物を詰め込もうと思った。
「明日は何をしますか?」
唐揚げを食べ終わると、今まで明日の予定を一度も立てなかった夢乃さんが、そう聞いてくれた。
「今日みたいな日は好きですか?」
「なんかすごく新鮮でした。やっぱり一人でずっといるのは良く無いですね。」
それは僕も同じで、二人でいると心は軽くなっていくことを実感する。
「じゃあ、明日はどこかへ出かけますか?」
「そうしましょう。」
お互いにある程度の距離を保ちながらも、確かに支えあっているような感覚。恋人とはまた違うけれども、それでも心地よかった。
二人で食器を洗い、別々にお風呂に入り、二人で扇風機の風を浴びて、別々に寝る。僕は夢乃さんの家で生活を支えてもらう。その代わりに僕は彼女にずっと生きていたいと思ってもらえるようにする。
翌日は梅雨が終わるその最後の悪あがきのような朝だった。夢乃さんが洗濯してくれたシャツを来て外へ出る。どこに向かうのかは歩きながら決めることにした。彼女は「誰かと出かけるのは久しぶり」と言い、雨の香りを感じながら歩いていた。僕にはそれを懐かしんでいるようにも見えた。でも死にたい気持ちを抱えた夢乃さんが狭い歩道を歩いていると何だか危なっかしくて、右手をずっとつないでおきたくもなる。
繁華街とは逆方向に歩いていくと休日でも人はそこまで多くなく、傘に雨粒が跳ねる音がしっとりと心地良く耳に届く。大通りに立ち並ぶ雑貨店やカフェにその都度、彼女は惹かれている。「どこに向かっているんですか?」と彼女に聞かれた時、ようやく目指す場所が決まった。
大通りを曲がった先の急勾配の下り坂を僕らは下っていく。坂を下るにつれて大通りの車の音が遠くに聞こえてくる。
「この辺りは街全体が窪地になっているんです。」
「そうなんですね。」
彼女と二人でゆっくりと歩き、その窪地の街へと入り込んでゆく。
「そして窪地の底になる位置に池があるんです。なんか素敵じゃないですか?」
「そう思います。」
「あんまり刺さってなさそうですね。」
僕は夢乃さんのふわりとした返答に笑いつつもそう言う。「そんなことないですよ。」と否定する彼女はやっぱり可愛らしかった。
坂を降り切ると密集した住宅街の脇に石畳の階段が何段も歪曲しながら続いてゆく。錆びた手摺に触れながら一歩ずつ跳ねるように降りていく彼女の後ろ姿を見ていると僕も気分が上がってくる。
「ほら、見えますか?この下った先に池があるんですよ。」
「本当ですね。」
窪地の底に位置するその場所には露天風呂くらいの小さな池がある。池の水面は雨の滴で絶えず揺れ続ける。ただ静かに、この街の大きな水溜りのように存在している。
「この場所すごい好きかもしれないです。さっきまでの騒がしさとは切り離されているみたいな。」
夢乃さんは水面に浮かぶ波紋を眺めて、そう言ってくれる。
「そうなんです。分かってくれてよかった。」
「どうしてこんな場所知ってるんですか?」
「この池を待ち合わせに使う人がいたんですよ。窪地の底で待ってるよって言いながら。」
大学一年生の頃、僕に「好き」と告白してくれた同級生がその待ち合わせの言葉を使っていた。
「すごい、その人は粋ですね。」
夢乃さんは感心した表情をして、「私も使おうかな。」と一人呟いた。
思い返せば、僕は告白してくれた同級生自体にはそこまで惹かれていなかった。でもその言葉と、この静かな池の雰囲気が好きになって、なんだか分からないけどとりあえず一ヶ月だけ付き合ったのを覚えている。
一方で彼女はただひたすらに水面に映る草木をぼんやりと眺めていた。そのまま吸い込まれていきそうなくらい無心で。
「楽しいですか?」
僕はそんな彼女の様子が不安になり、そっと声を掛ける。
「うん。楽しいです。でも、、、」
「でも?」
夢乃さんの少し丸みを帯びた横顔を、見つめる。雨粒が傘の露先を伝い、彼女の髪先を少しずつ湿らせる。
「この景色から目が離れていかないです。何となくですけど、もう一度ここにくることはできないだろうなって、そんな予感がするので。」
「別にいつだって、明日でも来れるじゃないですか。」
彼女の精神がまたあちら側へ転がっているのが、僕には分かる。
「明日死にたくなるかも知れないっていう、、思いがあります。きっと意味わかんないでしょうけど。」
明日死にたくなるという感情は確かに理解できない。でも理解できないからこそ、僕は自分の気持ちを伝えるしか方法がない。
「何度だって来れますよ。僕が絶対に連れて行きます、またここに。」
夢乃さんにどれだけ精神論者だと思われてもいい。そもそも自然に生き続けることに合理的な理由なんてない。ただ死ぬという選択肢を選んでいないだけだ。
「嬉しいです。でも私、今、この瞬間はちっとも死にたくなんてないです。」
彼女はそうして崩れそうな笑顔を見せる。彼女の自殺願望は発作のようなものなんだろうかと思う。だからずっと死にたいわけじゃないのかも知れない。
「一度君が死にたい理由をはっきりと聞いてみたいです。」
「そうですね。でも楽しい休日が台無しになっちゃいそうなので。明日か明後日にしましょう。」
彼女が今日という日を楽しい休日と認識していることが嬉しかった。少なくとも今この瞬間は死にたいと思っていない夢乃さんの姿はいつもに増して愛おしく思える。
その後もしつこく止まない雨の中、窪地の街を出て、行きに見た雑貨屋や本屋にふらっと立ち寄った。夢乃さんは時々不安に満ちたような表情をするけれど、気に入った切子グラスを店内の照明に照らしたりする時には見惚れてしまうほど澄んだ瞳をしていた。
彼女には未だ得体の知れない死への願望がどうしようもなく残っていることは分かった。でも一緒に料理を作ったり、外の空気を全身で浴びたり。そのどれもが楽しくて、幸せな週末だったなと、思った。




