第6話
東京へ戻るとまた一週間が始まり、僕はもう一度この世界で真面目に生き直そうと誓い、彼女の家に入り浸っていた時のような自堕落な生活から脱却しようとした。ただ生活の中の彩りが消えた、その茫漠とした喪失感が心には確かに存在した。
そんな喪失感をどのように扱えばいいのか、それが分からないままふわふわと生活していた。毎朝一人で目覚める度に、期待する香りが僕の部屋には存在していない。散らかった部屋には必死に生きた生活の残り香が漂い続けていた。
でも単純に、銀行口座のあまりにか細い残高を見ていると自分が苦学生であることを自覚し、働かなくてはいけないと思うようになる。彼女の前で実家に帰ると嘘の電話をして以来一ヶ月は働いていなくて、居候ではなくて一人で生きていけばお金が消えてゆくということを今更になって実感した。
だから僕は初日のような緊張感を抱えながらあの繁華街のファミレスへ久しぶりに出勤した。相変わらず夕方の繁華街は、街全体が夜間に発光する準備に勤しんでいた。
鉄製の錆びた階段を上がり裏口の扉を開けようとする。でも正しい暗証番号を打っているはずなのに、なぜかドアノブは回ってくれなかった。どれだけ丁寧に押し直しても開かないその扉の前で困惑していると、後ろの階段から、あまり見たことのない人が上がってきた。その人が何の戸惑いもなく暗証番号を入力すると扉は自然に開き、僕も一緒に入った。このファミレスで、たった一ヶ月の間に何かが変化したような、そんな予感がした。
従業員室は冷房が効いていてひんやりとしていた。奥の椅子にはさっき裏口を開けてくれたよく知らない人とその隣に、同い年の同僚も座っていて暇そうに携帯をいじっていた。「久しぶり」という意味を込めてその同僚に目で挨拶をすると、なぜか視線を逸らされた。そのそっけない態度に困惑しつつ、僕は共同ロッカーに荷物を放り込んだ。
「久しぶり、、だね。」
「ああ。」
同僚の短い返答はあまりにも冷たくて、僕には得体の知れない不安感が迫り来る。
「て言うかさ、よくこれたね。」
「え、、、」
同僚がそう言うと、隣に座っていた知らない人間も僕に軽蔑したような視線を浴びせてくる。そんな二人の言動の意味が分からなかった。
「あの人新しい店長の前田さん。挨拶しておきなよ。」
「うん、、分かった。」
よく見るとパソコンが置かれたデスクにも知らない人間が座っていた。店長が新しく赴任してきたことすらも知らされていなかった。とりあえず言われるがままに、キーボードを打つその新店長の元へ歩み寄った。
「あの、バイトの青山です。よろしくお願いします。」
「君が青山くんだったか、前の店長から聞いてます。僕は前田って言います。」
前の店長よりも一回りくらい年下の前田店長は作り上げたような爽やかさを纏い、その言葉には圧を感じる人だった。
「急だったからね。僕も分からないことがあると思うから色々とよろしくね。」
「前の店長は、、どこに行ったんですか?」
僕が何気なくそう言葉を放つと、ただでさえ静かだった従業員室の空気がより一層緊迫した。
「その事も聞いてなかったのか、、」
「はい。何も聞いてなかったです。」
目の前の人間が必死に言葉を選んで伝えようとしていることに気づき、言いようもない不安感の輪郭が徐々にはっきりと映り、それが僕に襲いかかってくると身構えた。
「精神的にちょっと病んじゃって。あの、、、」
前田店長は声を発しながらも尚、言葉に詰まる。
「どうやら自殺未遂をしたみたいで。」
その言葉を告げられた僕は思ったよりも冷静でいた。「一命は取り留めたみたいだったからそれはよかったんだけどね。」と前田店長は付け加える。店長は今もどこかで天井を眺めているのかとただ漠然と思う。
「生きてはいるんですね。」
まさしくそれだけが僕の精神を安定させる唯一の手綱となる。死んではいない、死のうとしただけ。あの日のような冷たい蝋人形みたいな状態にはなっていない。まだ暖かい店長の身体は呼吸を続けている。
「うん。まあ君たちが責任を感じる必要はどこにもないからさ。」
「そうですね。」と僕は呟く。気づけば従業員室には僕と前田店長以外誰もいなくなっていた。誰かが「死ね」と店長に言ったわけでもない、何より死んでいないのだから僕らが感じる責任は確かに存在していないように思える。でも、僕の脳内では夢乃さんの家でしつこく鳴り続けた店長からの携帯の着信音が耳鳴りのように繰り返し再生される。実家に帰省すると嘘をついた時の店長の掠れた声も一緒に蘇る。
そして「よくこれたね。」と言う数分前の同僚の言葉も同時にリフレインする。そこでようやく僕は彼らの態度の意味を理解した。僕はきっと自殺未遂の責任を押し付けられているのだと。それはあまりにも耐えられないと思い、急いで制服に着替えて泣きそうな気持ちを抱えたまま、厨房へと降りていった。
すれ違う他の従業員が僕にどんな目線を浴びせているのか、それは分からなかった、分かりたくもなかった。厨房へ降りるとさっきの同僚は食洗機の蓋をガシャンと閉めてこちらを見ていた。
「よく来れたね、なんて第一声で言うなよ。」
「もう、店長のこと知ってると思ってたからね。」
僕はあえて同僚とは物理的に距離を空けたまま、話すことにした。
「君が店長からの着信を無視し始めて三日か、四日後かな。もう限界だってキャパオーバーになって、次の日から来なくなったよ。」
「だからって、全てが僕のせいになるか?」
食洗機の中の皿が洗剤や水流に揉まれている。それと同じように僕の精神がかき混ぜられてゆく。
「君がここからいなくなった時期と、店長が限界を迎えた時期が重なったのは事故かも知れないよ。でも事故なら許されると言うわけでもない。」
事故がどうとか言っているけれど、この人たちは自分の中に少しでもある罪悪感を全て僕に押し付けて楽になりたいたいだけなのだと思う。
「そもそも自殺は自殺で。わざわざ理由とか、誰のせいとか決めつけて他殺みたいにする義務なんてないだろ。それに、、、誰一人として死んですらいないし。生きてさえいれば何も終わりじゃない。」
生きているはずなのに、まるで死んでしまったかのように僕を責め立てる。わざわざそんなことをする意味が分からなかった。
「君の制服から香るようになったあの甘い香り、ものすごく嫌いだったな。」
「え?」
同僚は薄ら笑いを浮かべながら、唐突にそう言った。午後五時を過ぎて店内は少しずつ騒がしく動き出す。
「だから何?」
「香水なのか柔軟剤なのか知らないけど、あの甘い匂いを纏い出してからさ、遅刻はするし仕事は雑になるし。わかりやすかったんだよ、君の変わり様が。ただ余計なことせずに働いておけばよかったものを。」
「余計な事って、、、」
余計な事。それは夢乃さんと過ごしたあの時間。
僕の心に複雑な気持ちが募る一方で、徐々に店前の通行人が増えていた。そして前田店長は厨房に降りてきて夜ピークに備えて店内の指揮を高める。
「資材とか足りないもの今のうちに準備してね、後で資材切れとかやめてよー。」
そんな言葉に顔馴染みの大学生や高校生、外国人留学生は前と変わらぬ様子で返事をする。そして同僚も前田店長に肩をそっと叩かれ、それに対して笑顔で「頑張ります。」と対応していた。僕はそんな表情を見ていると憤りを覚える。
「お前もだけどさ、みんな何事もなかったかのように働いているね。」
帽子からはみ出た同僚の薄茶色の前髪が空調の風でふてぶてしく靡いていた。
「だって、店長の自殺未遂は君のせいだったってみんなが納得できたから。」
その突き放すような言葉はあまりに強く、全身が痛い。精神的には立っているのがやっとだった。
「でも君がまたここに来たから、みんな店長のこと思い出しちゃうかも知れないね。せっかく忘れられたところなのに。」
僕はもう、反論する気力すら無くなってしまった。同僚は冷凍のフライドポテトをフライヤーバスケットに入れて油に落とす。そしてポテトを全て包み込む無数の泡をただひたすらに見つめていた。
店長の件で一度乱れたこのファミレスの空間は、僕に全ての責任を押し付けることで再生された。そこに当然僕の居場所はない。もはや調和にそぐわない異物になる。もしも、このファミレスの空間が世界そのものだったら、それこそ僕は自殺しているのかも知れない。
でも幸運なことに、このファミレスは世界のほんの一部でしかない。異物になり続けてまでここに居続ける必要性はどこにもない。だからもう、今日限りでこのバイトを辞めるんだと誓った。
鉄板に落とした卵には小さな殻が入っていたが、それを取ろうという気にもならず、そのまま焼かれて固まり、異物が入った目玉焼きがお客さんの元へ運ばれている。退勤するまでそんな目玉焼きを何個も作った。そんなことで気持ちの辛さを紛らわせようとしている自分がひどく虚しかった。
そうしてもう二度と戻らない空間から汗ばみつつ逃げ出した僕は、今日も星のない空を見上げる。そして、ふと自殺未遂は卑怯だと思った。この世界のどこかに今も生きているのに、まるで死んでしまったかのように周りの人間に罪悪感を与えるのだから。
生活費を賄うためのバイトから逃げた後、一体どこに向かおうとしているのか。その行先は自分ではっきりと分かる。結局、僕はこんな現実から一緒に逃げるために彼女に助けてもらおうとしている。
バイトのみんなはきっと喜ぶと思う。纏めて押し付けた罪悪感を抱えたまま、異物である僕がいなくなるんだから。そして無事に正常化されるんだから。




