第4話
それから、僕はバイトが終わると必ず彼女の家に向かうようになった。繁華街の喧騒を逃れて、世界の隙間のような彼女の部屋がとても心地よかった。
そして夢乃さんは変わらず、僕の制服と私服を丁寧に洗ってくれた。
「バイトの制服はもう、油の匂い落ちないんですね。芯まで染みつきすぎて。」
彼女は一日経てば油の匂いで柔軟剤の匂いが消えてしまう制服を嫌がった。でも、僕はこの制服の匂いに慣れているので無臭に感じていた。
「僕、超が付くほどの苦学生なんです。奨学金を借りてるけど、ギリギリの生活で。だからもうバイトをするしかないんですよね。」
「じゃあこれは毎日、頑張ってる証なんですね。」
「そうなります。」
彼女はそう言うが、頑張っていると言うよりも諦めて悟っている感覚が強かった。毎日を繰り返すことに必死になっていて、繰り返す毎日が嫌いと贅沢に呟く人間は癪に障る。
「だったらずっとここにいてくれて良いんですよ?そしたら生活費もかからないから。」
夢乃さんは僕の目を見ながらそう言ってくれた。どうして彼女はこんなにも優しくしてくれるのかと思う。そして一方でどうしてこんなに余裕があるのだろうかとも思う。彼女は仕事から逃げて相当の収入を失ったはずなのに。
「失礼かもしれないですけど。夢乃さんはどうしてそんなに焦らずに生きれるんですか?」
だから我慢できずにそう聞いてしまう。
「だってもう、焦る必要もないので。」
余計なお世話ではあるが、少しは焦ってほしいと思った。じゃないとこんなに必死こいて生きている自分があまりにも情けなく思えてしまうから。
洗濯物を丁寧に畳む彼女の華奢な背中が幻想のように、ぼやけて見えてくる。時計の針は深夜0時を回った。夢乃さんと一緒に時間を過ごすと、次第に自分まで焦る必要のない人間であるように錯覚を犯してしまう。でも僕はきっと死ぬまで焦りながら生きてゆく、そういう遺伝子を持って生まれたのだと思う。
「私は君のこと見放したりしないので。別に焦らないで良いんじゃないですか?」
余裕たっぷりの彼女の言葉がまた僕を包み込む。
「なんか、僕たちってきっと恋人にはならないんでしょうね。」
「それよりももっと、深い関係になるかもしれないですね。」
そんなことを話しながら、今日も僕らの部屋はゆっくりと眠りに落ちてゆく。
夢乃さんと恋人にはならないだろうというふわりとした予感がしたのは多分、彼女にはもう既に完成された生き方があったからだと思う。あまりに無機質な部屋で朝を迎えて、何事にも焦ることもなく、そしていつかはその素敵な見た目を使ってまた違う仕事で生活費を稼ぐのだろう。僕はそんな彼女の生き方に合わせることはできないと思う。
でも、恋人にならなくても夢乃さんと過ごす時間はこの上なく幸せで繰り返す毎日の中で唯一の彩りになった。どうして夢乃さんは僕のことを毎日受け入れてくれるのかと不思議になりつつも、彼女に嫌われない限りはここにいようと思った。
そして同時に、毎日必死になってバイトをすることに嫌気が差して段々とシフトの日が減っていった。ずっと彼女の家に居続ければ確かに生活費は掛からなかったし、居候することは少し情けなくもあったけど結局は甘えてしまった。
週末になると必ずと言って良いほど店長から「出勤できないか?」という旨の連絡が届き、それをやんわり断っていると、そのうち直接電話がかかってきて「もう少しシフトの日を増やしてほしい」と懇願された。今まで学生とは思えないほどに連勤してきたので少しくらいは休んでも良いかと思い、夢乃さんの前で「一度実家に帰ることになりました。」と嘘の電話をした。すると店長は「あぁ、、そうか」と諦めたような声を発して自然と電話は切れた。その疲労が溜まったような掠れた声に少し罪悪感を抱きながらも、してやったりと言う顔で僕を見る彼女と目が合うとそんなこともどうでも良くなり、弾けるように笑った。
そうしてバイトをしなくなり大学にも行くか行かないかも怪しい状態になり、夢乃さんと出会ってから三週間が経った。僕はますます彼女に惹かれていき、その姿が脳内を埋め尽くしていった。
ただ、一緒に生活すると彼女にはいくつかの口癖があることに気がついた。例えば「結局どうにでもなる。」とか「無理して生きようとするから辛くなる。」とか「私がどう生きているかは誰も興味ない。」だとか、良く言えば余裕たっぷりに生きているのかもしれないけれど僕には彼女が世界に対してひどく無気力なのだと思えた。そして彼女は不自然なほどに明日以降の予定を立てなかった。目を覚ましたら偶然、次の日がやってきていたかのように、彼女は毎日を生きている。そう言うところが気になってしまい、徐々に彼女が脆く危うい存在に見えていった。
夕飯としてコンビニの惣菜を二人で静かに食べて、空いたプラスチックの容器をゴミ箱に押し込んだ。たくさんのゴミが詰まり、蓋が閉まり切らないほどになった。
「ゴミ箱いっぱいなので変えておきますね。不燃ごみの回収日とかは決まってるんですか?」
リビングで洗濯物を畳む夢乃さんにそう聞く。
「分かんないです。いつもあんまり気にしてなかったですね。」
「そうなんですか。」
やっぱりそうかと、思う。彼女は何曜日にゴミ出しをするべきかを知らないし、明日は何時に起きるのか、何を食べるのか。そういうことを全く考えようとしない。だから明日、突然一人になりたいと言われてもそれほど驚かないと思う。
そんな漠然とした不安感を抱いたまま彼女の後ろ姿を見ていると、こんなあやふやな居候するだけの関係を脱却したくなる。夢乃さんの明日に不可欠な存在になりたいと強く思う。
だから僕はキッチンから駆け寄って彼女の身体に初めて触れた。抱擁とは言えないけれどお互いの体温と身体の振動が伝わり、高揚した。
「どうしたんですか?」
夢乃さんは大して驚きもせず、僕の身体を受け入れる。
「前に恋人にならない気がするって言いましたけど、実はそんなこともないのかもしれないと思って。」
少なくとも僕は、こうして身体を触れ合うことが正しい関係なのではないかと少し思った。
「やっぱりこれじゃないと思います。」
「え?」
でもそんな彼女の言葉が四角く冷たい部屋にこぼれ落ちる。
「恋人になるために出会ったんじゃないと思います。」
「じゃあ何のために?」
あっさりと断られてしまい、僕には恥ずかしさが募る。
「嫌なことから一緒に逃げるために。」
夢乃さんはそう言って振り返り、彼女に触れていた僕の両手がゆっくりと離れ落ちる。
「君がもしもどうしようもなく辛い状況にいたとしたら、私はそこから一緒に逃げるのを手伝います。君が私にしてくれたみたいに。」
「嫌なことから一緒に逃げるための関係なんですか?」
「そうですきっと、幸せになれますよ。」
果たして逃げた先には何があるのか。そして一人では逃げられない現実から二人で助け合って逃げていくような関係を一体何と呼ぶ?
バイト先からの連絡は鳴り止み、大学にも行かず、ますます僕らは閉鎖的になっていった。夢乃さんに「恋人になるために出会ったんじゃない」とはっきりと言われてから、僕の心は複雑に揺れていった。「一緒に逃げるための関係」と彼女は言ったけれど最初はその関係の意味が分からなかった。でも、僕はバイトと大学を行き来するような今までの退屈な暮らしからもう既に逃げて彼女の家に居候しているんだと気がついた。
焼きたてのパンを食べ終えて、窓を開け、朝の外気を吸い込んだ時に、僕はそんな自分の気づきを夢乃さんに打ち明けた。すると彼女は
「逃げるって言うから少し後ろめたくも思えるんで、ちょっと現実から離れたってことにしましょう。」
と言った。
「一度現実から離れただけだとしても、いつかは戻らなくてはいけないじゃないですか。大学に行かなくてはいけないし、お金も稼がないといけないし。今はいいけど、夢乃さんだってそうでしょ?」
彼女の途方もない余裕に触れて、現実逃避する時間も素晴らしかったけど、それは限られた時間だからこそ輝くはずだと思う。
「でも、私は戻らないです。現実から逃げ続けますよ。」
彼女のその言葉からは上手く言えないけれど、強烈な決意みたいなものが滲み出ていた。
「だけど、逃げ続けた先には希望も何も無いと思わないですか?」
「それでいいんですよ。逃げ続けた先にはただ全ての終わりだけがあって、いつかはそこに辿り着くんです。」
笑顔でそう語ってゆく彼女、僕の頭の中には途轍もなく不穏な予感が立ち込めてくる。
「もしかしたら、君が持ってる余裕って僕が想像していたものとは全然違う気がします。」
「そうなんですかね。」
朝、眉は少し薄く幼く見える彼女が呑気にあくびする。その大きく空いた口を塞いでしまいたくなるほど、僕の心は乱れ始める。
「客引きの時もそうでしたけど、君の勘は鋭いと思うので。もう気づいていますか?」
夢乃さんは立ち上がって部屋に立てかけられた姿見鏡の前に座り、鏡に反射した僕に向かってそう問いかけた。
「気づいてますか?」
黙っていた僕に、彼女はもう一度問いかけてくる。
「もしかして。もう、死んでしまおうなんて思っていないですよね。」
僕は自分の言葉が否定されるのを心から願った。微かに震えていたのは僕の声だけではなく、彼女の瞳孔もそうだった。
「死にたいと思ってます。でも、ひとりぼっちではなくて。君と一緒に世界から逃げたいです。」
ああ、最悪だと心の底から思った。洗濯機の音すらしない空虚な部屋で失意の底へ沈んでいく。それなのに、彼女は綺麗な瞳で僕を見つめている。
「嫌ですか?」
「嫌です、そんなことできる訳もないので。」
初めて会ったあの日、猫耳をつけた彼女に手招きされた瞬間。僕は客としてではなく、勿論好意を向けられたわけでもなく、一緒に死ぬ為の人間として寄せられたなら、そう考えると全ての理想が砕け散るような虚しさが苦しかった。
「どんな方法でも良いです。一度恋人になってから死ぬでも良いですよ。」
「そんなつもりで今日まで君と一緒にいたわけじゃないんです、、、」
ただ僕は彼女の外見に惹かれ続けていただけだった。
「そうですよね。」
彼女の言葉は余りに重く、身体を締め付けてくる。
「ごめんなさい。多分ですけど、今日でもう夢乃さんとは会わないです。君がもし一人で死んでしまっても罪悪感を感じたくないから、無関係で居たいです。」
「ひとりではどうせ死ねないんですよ、、、きっと。」
「じゃあ、死にたいなんて言うな」と叫びたくなったけれど、頭の中ではもう既に彼女と他人になる準備を進めていたから、僕は何も言わなかった。
「君がまた会ってくれるまでは死なないです。待ってます。」
「それなら、自然に生きれるようになっててください。」
彼女が死にたいなんて言い出さなければ僕だってここに居続けたかった。でも窓から見える快晴の空を眺めると、この部屋はまるで深海のようだった。早いうちに水面へ這い上がらなくては彼女と一緒に僕まで窒息死してしまう。
だから、僕は大した礼も言わずに夢乃さんの家を脱出した。死の香りを纏った彼女は玄関まで見送ってくれたが、身体の隅から無意識に、彼女を拒絶していた。
厄介な人にのめり込んでしまったと後悔しながら、自宅へと歩く。彼女と出会わなければよかったと、その刹那に思った。




