第3話
彼女の家は繁華街から少し離れた閑静な住宅街の中の、オートロック式のマンションだった。おそらく同年代であるはずなのに、僕のアパートには付いてすらいないエレベーターに乗りながら少しだけ虚しくなった。だから彼女はあの仕事で辞めたくても辞められないくらいの、相当の給料を貰っていたのだろうと想像がつく。
「どうぞ上がってください。」
「お邪魔します。」
ドアを開けて室内へ案内されると、そこには真っ白な玄関が広がっていた。そして天井照明が廊下の表面にうっすらと反射し、リビングへと繋がっていく。埃の一つもない床は冷たかった。
彼女の部屋は、あまりにも無機質だった。小さな木製の机と、それから丁寧に畳まれた布団。そして全身が映り込む姿見鏡が置かれていた。カーペットも敷かれていないその部屋は新品の白さではなく漂白されて出来た白色のようだった。
「何にも無いんですよ、私の部屋は。」
「ミニマリストとかそういうことですか?」
僕がそう言うと、彼女は少し考えて「そう言うことにしましょう。」と笑った。
ソファすらない部屋で彼女にクッションを渡されて、それに座ると中綿の少ないクッション越しに冷たく硬い床を感じた。
「こうやって生活していくのって大変じゃ無いですか?」
「なんかいつの間にか、こんな感じの部屋になってました。」
部屋は自分の生き方を物理的に表すと思う。だから、自然にこの部屋が完成するまでの間、彼女は一体どのように生きて来たのだろうと不思議な気持ちになる。この部屋で生活感を感じるところといえばベランダに干してある洗濯物くらいだった。
「そうだ、ちょうど今から洗濯回すので。今着てるのを洗濯機の中に入れちゃってください。」
「いや、別に大丈夫ですよ。汗もかいてないので。」
そう遠慮すると彼女は急に、僕のTシャツの裾をつまみ上げて鼻に近づけた。彼女の柔らかな髪が二の腕に触れて、心が身体中を跳ね回った。
「なんかちょっとだけ油っぽい匂いしますよ。」
「ファミレスの制服に油の匂いが染み付いてるんですよ。それがこっちにも移ったのかも。」
「じゃあ尚更、洗濯しちゃいましょう。」
どうしてそんなに洗ってしまいたいのか僕には分からなかったけれど、とりあえずTシャツと、あとバイトの制服も一緒に洗濯機に放り込み、彼女が貸してくれた服を着た。それは綻ぶ花のように、甘い香りがした。
そして着替え終わると彼女は扇風機の前に座っていた。だから僕も横に座り、ふわりとした風を浴びる。洗面所からはカタカタと洗濯機の作動音が響いている。
「そういえば、名前はなんて言うんですか?」
同じ匂いのする服を着た彼女はそう聞いてきた。
「青山終人って言います。終わる人って書いて終人。」
「珍しいですね。」
僕は今でもこんな名前をつけた両親の意図を理解しかねている。
「あなたは?」
「黒島夢乃です。」
儚さと柔らかさが混ざり合った彼女らしい名前だと思った。
「僕も「夢」とかそんな幸せそうな名前が良かったです。」
「確かに名前だけは我ながら幸せそうですよね。」
「生まれた瞬間に終わった人って名付けるのはセンスが皆無なんですよ。」
そう言うと彼女が笑ってくれたので、僕も笑った。
夢乃さんは僕と同い年の二十一歳だった。僕たちの唯一の共通点でありながら、同じだけの時間を生きているのに、二人の生き方がまるで違うことが不思議でもあった。
なぜか嬉しそうに、洗濯物を抱えてベランダに運んでいく彼女を見ながら、僕らはどういう関係になろうとしているのだろうかと考える。僕の服を洗濯されたということは夢乃さんの家にこのまま泊まることになるんだろうけど、彼女は自分の寝室とは別の部屋に僕の布団を用意してくれた。だから体の関係にもならなかった。下心があったわけではないけれど、僕は一体、何をしにこの部屋にやって来たのか、自分でも分からなかった。
結局、別々にお風呂に入って別々の空間で眠りに入った。夢乃さんの身体に触れることもなかった。でもそれが別に残念だったわけでもなかった。「おやすみなさい。」と笑顔で言う彼女はそんな大きな不思議さで包まれていた。
翌朝目覚めると、畳まれた洗濯物から甘い柔軟剤の香りがした。そして僕の服から油の匂いは消えていた。
「ありがとうございます。結局、泊めてもらっちゃったし洗濯もしてもらって。」
「バイト辞めれたのは君のおかげなので、もっとお礼をしたいくらいです。」
光の差し込む朝に見る彼女はあの時よりもずっと幼く、少女のようだった。もっと夢乃さんの家に居たかったけれど、昼過ぎから大学に行かなくては行けなかったので、名残惜しさを抱えながら支度をした。これからどんな関係になるのか、もしくはもう二度と会わなくなるのか、それは全て彼女次第だ。僕にはどんな関係性でも受け入れられる自信があった。
「初めてこんないい香りで大学に行きます。いつもは雑に洗濯してて。」
真っ白な玄関先で僕を見送る夢乃さんは微笑んだ。
「その香りが消えちゃったら、またここに来てくださいね。」
彼女の言葉が僕を静かに包み込んだ。もう二度と会わないかもしれないと名残惜しさを感じていたのは僕だけだったと気づき、堪らなく幸せな気分になった。強引に水で洗い流してでも、その香りを消してまた夢乃さんに会いたいと思った。
「はい、また来ます。」
彼女の見た目、儚さ、そして不思議さ。そのどれもが混ざり合い僕は惹かれた。夢乃さんがキャッチしたのは数多のガールズバーの客と、僕の心そのものだった。




