第2話
「あそこに立って客引きをしている時の私には全部マニュアルがあるんですよ。」
彼女は星の見えない真っ暗な夜空に向かって言葉を放つ。
「マニュアル?」
結局、オフィスビルに見下ろされるサンクンガーデンで、僕らの足は止まった。冷たく硬いベンチに二人で座って、汗ばんだ彼女は襟元をパタパタとし、風を仰いでいた。そしてチェックのスカートに軽く手を添えて僕に「ついてきてくれてありがとうございます。」と少し掠れた声で言った。
「今日お兄さんに言った言葉が全部セリフで決まってて。あ、年齢関係なくお兄さんって呼ぶことも決まってます。それで本気で好意を寄せているんだと装って集客するっていうのが仕事なんです。」
「やっぱり、そうですよね。なんか棒読みだった気がして。」
「いっつもはもっと上手いんですよ?でも今日はもう疲れちゃって。」
彼女は首を傾げながら「スランプかも」と一人呟く。それがあまりにも可愛くて笑ってしまいそうになる。
「それは自分から始めた仕事なんですか?」
「いや、最初は私もバーの中で働いてたんですけど、いくらなんでも性格が暗すぎるって評判が悪くて。店の人から時給を上げるからこのセリフを言って集客する係になってほしいってお願いされて。そしてあそこに飛ばされました。」
「そうだったんですね。」
それをお願いする店側も、そして受け入れる彼女も、どうかしてると思う。
「でもそれがもう限界かもしれないって思って。君には全然通用しなかったけど、君以外はみんな本気な顔をして私の言葉を鵜呑みにするんです。だからもう私の中で人を本気で好きになることがどんな感情だったかも分からなくなってて。」
「確かに言葉は消耗品かもしれないですね。あなたの場合は好きって言葉を多用し過ぎて麻痺してなんの感覚も無いまま、とりあえず口から溢れ出ているみたいな。」
彼女は深く頷きながら、僕の方に少し体を寄せる。
「そうですまさに。好きと言ってもドキドキなんてしないし、言葉が体と繋がってないっていうか。」
「それに、こんなこと続けていたら私、そのうち誰かに刺されそうですからね。」
「確かにそうかもしれないですね。」
彼女はそう言いながら呑気に笑った。まるで殺されても仕方がないと悟っているかのようだった。
「だからもう、辞めてやるんです。」
「すぐにですか?」
「明日、いや明後日ぐらいには辞めます。」
結局、こんな風に辞める日を先延ばしにしてここまできたんじゃないかと思う。彼女は自分の見た目を利用してそれだけで生きていられる。そういう恵まれた人は口では達者だけれど、見た目による恩恵に死ぬまで縋り続けるんだろうと頭のどこかで思っている。
「じゃあ辞める日には、また僕に会ってくださいね。あそこの近くのファミレスで毎日働いてるので。」
「そうしましょう。」
湿気を帯びた晩春の風が肌に当たる。きっと彼女は明日も明後日も明明後日も、そして一年後もあの場所で麻痺した言葉を使い続けるんだろうと思った。だから「辞めれるもんなら辞めてみろ」と僕は心の中で呟いた。
次の日、あの横断歩道からは彼女の声だけが聞こえていた。その姿自体は酔ったサラリーマンたちに囲まれていてあんまり見えなかった。でもいい歳した大人が彼女一人に夢中になっていてみっともないことは分かった。三人のサラリーマンが小さな彼女の手のひらを、それぞれ分け合うようにして握り、彼女はそれを強引に引っ張っていく。そして店の入り口付近まで連れて行くと、店内へと続く下り階段へサラリーマンたちを強引に押し込んでいた。人をモノのように扱う仕事内容に思わず笑ってしまうと同時に、初めからそんなに人を雑に扱うような人間ではなかったのだろうと思う。彼女は強く握られ尽くした右の手のひらを掲げて夜風に晒す。そして、その瞬間に僕の存在にようやく気がついた。すると咄嗟に穢れた右手を後ろに隠して、真っ新な左手で僕に手を振ってみせる。彼女は本当に今の仕事が限界なんだと、その痛々しさに気がついて、悲しさが心に詰まった。
彼女がバイトを辞めると言った約束の日は、流れるようにやってきた。金曜日の繁華街はあまりに混沌とする。ファミレスのバイトでは店長が発熱しながらも厨房に立ち、溜息がうるさかったので「大変ですね」と心配する素振りを見せてあげたのに、何故か八つ当たりをされた。それからフライドポテトがいつもよりも数本少なかっただけで三十分近くも店員を拘束して文句を言うような質の悪い客で溢れかえった。
だから、排気ガスの澱んだ匂いや、あいも変わらずマニュアル化された耳にへばりつく声で客を呼び寄せる人たちにはより一層うんざりした。それに、その空間には彼女の姿は見当たらなかった。今日みたいな日はこの世界の悪口を二人で言いたいと思っていたから、僕は彼女の姿を探し始めた。
そしてちょうどその時、雑居ビルの階段からあの猫耳の先端が見えた。彼女は今日も風に靡く横髪を耳にかけて、虚な目で世界を眺める。その瞬間「会えてよかった。」と純粋に思った。
僕は彼女へ近づき、手を振る。すると彼女は恥ずかしそうに、同時に何か後ろめたそうな顔で体をゆっくりと左右に揺らす。
「結局お前、辞めてないじゃないかって。思ってますよねきっと。」
「思ってないですよむしろ、何も言わず辞めて居なくなる方が嫌でした。」
彼女は少し安堵したように笑いつつも、泣き出してしまいそうな儚さを内包していた。
「辞めようと思ってたんですよ。気持ちだけは本気で。でもそれも言い訳になりますけど。」
「昨日も会ったじゃないですか、でも実はその前からちょっと見てたんですよ。君が三人いっぺんに店に押し込んでるところ。」
彼女は苦笑いをし、昨日握られていた右手をふと眺めた。
「悪い意味じゃなくて、本当に凄いなって思って。この場所にいる誰よりも人を寄せ付けるのが上手い訳じゃないですか。だからきっと他の仕事でも上手くいくんじゃないかって勝手に思います。」
「そう言ってくれて嬉しいんですけど、あの人たち私の手を三等分してギュッて握ってきて、気色悪かった光景を思い出しちゃいました。」
どれほど気色悪くても、それこそが彼女の求められる仕事であること。
「どうやったら辞める決意を持てるかな、逃げたいですもう。」
彼女のゆらゆらと揺れる瞳を見ていると言葉よりも何よりも、その全てに惹かれてゆく。名前も知らない、誰にでも偽りの愛を振り撒くこの人と、何かで繋がり合う予感がした。
「じゃあこうするとかどうですか?」
僕はそっと手を伸ばして、彼女の頭に添えた。猫耳カチューシャに指が触れると彼女は一度瞬きをして、静かに目を伏せた。それを外すと、カチューシャの跡で少し潰れた毛先がさわさわと夜風で揺れている。ただそうしただけで、まるで別人のように思えた。
「わぁ、、」
彼女は甘く、感嘆の声を漏らす。
「凄いです。なんか軽いです、心が。」
「じゃあもっと早く外せば良かったですね。」
ただ猫耳を外しただけなのに、まるで本物の拘束具を外されたぐらいに、彼女の表情は自然で明るいものになっていく。
「どうせ一人ではいつまで経ってもやめれないと思うので、今辞めます。」
「いいと思いますけど、そんな急に辞める決心がつくんですね。猫耳カチューシャって呪縛か何かですか?」
僕はそっと握ったカチューシャを返そうと手を差し伸べたが、それを彼女は「持っててください」と拒否した。
「まあこれも店の人に勝手に付けられたものなので、他の誰かに外してもらうのを待っていたのかもしれないです。」
「じゃあ僕は重要な役割だったわけですね。」
「そう。」と彼女は呟く。大通りの片隅でこんな話をしていた僕らの横を数えきれないほどの人々が無関心で通り過ぎていく。その一方で、他のキャッチの女性たちはチラチラと僕らの様子を見ていた。
「そしたらもう、逃げましょう。私の家、近いのでついて来てください。」
「分かりました。」
流れで彼女の家に行くことになって、漏れ出してしまいそうなほどの高揚感があった。そしてふわりと浮遊しているような夢見心地になる。勇者だけが剣を引き抜けるように、僕だけが彼女の呪縛を解けるのだと思った。




