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余韻  作者: 紫川拓海
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第18話

翌朝、彼女は当たり前のように僕よりも早く起床して、家を出ていった。リビングには坂井さんから受け取った小説が開かれたままで放置されていた。栞に書いてあるメッセージを夢乃さんはどんな気持ちで眺めていたのかと思う。

 押田さんに会いにいく日の彼女は悪い意味で堂々としている。いつまでも生きていて欲しいと願う僕と一緒にいると、彼女は自分の異常性を実感してしまい、異常から逃れて普通になるために、唯一の同志に今日も会いに行った。

 彼女が出ていった箱庭で一人、大きな無気力感に襲われる。こんな僕の生活の相談に乗ってくれる友達は居ないし、親にもこんなこと言える訳が無い。もうあと数日で大学が始まると言うのに、いつまでも自堕落な生活を続けてしまう気がする。

 僕に与えられた選択肢が、彼女から離れて記憶から抹消することか、彼女と一緒に死んでしまうことの二つしかないことに深く絶望する。

 スマホのカメラを構えると、豊かな箱庭と窓の向こうの青々とした空が映る。でもシャッターを押す気にはならなかった。そして何となくスマホをスクロールしている内に、僕はただ一人、自分の気持ちを相談できる相手がいることに気がついた。それが自殺未遂をした店長だった。

 バイト時代に頻繁にかかってきた店長の連絡先は電話帳に今でも残っていた。出てくれるかは分からないけれど、とにかく誰かに話を聞いてもらえないと一人で煮詰まりそうで限界だった。だから僕は迷うことなく発信ボタンを押した。

 「はい。もしもし。」

 僅かな沈黙の後、あまりにすんなりと応答があった。それに僕は驚き、用意していた言葉もうまく言えなかった。

 「あ、、あの。えっと僕です。青山です、、」

 「ああ、青山か。名前登録してなかったから誰かと思った。」

 店長はハキハキとした口調で話し、突然の電話をすんなりと受け入れた。

 「急に掛けてしまってすみません。もうバイトも辞めたんですがどうしても話しておきたいことがあって。」

 「ああ、そうか。」

 「もう電話をするのも今日限りなので、店長に相談します。」

 僕は息を整え、自殺に最も近づいた人間へ自らの気持ちを吐き出す。

 「僕は今、事情があって自殺願望を抱えた人と生活しています。色々な事をしてその人に生き続けてもらおうとしたのですが、もう無理だと言うんです。でもどうしても死んでほしくないです。僕は一体どうすれば良いんでしょうか?どうすれば生き続けると思ってくれるんでしょうか?」

 僕が言葉を渡したのちに、数秒間の沈黙が続いた。

 「その人はもう止めても無駄だってことは分かる。坂道を転がり落ちていくみたいにどんどん加速して。だから、、」

 再び、店長の声は止まる。電話先で大きく息を吸い込んだのが伝わった。

 「自殺未遂を成功させること。」

 「自殺未遂?」

 「そう。本気で自殺を試みながら、失敗する。」

 自殺未遂を成功させるという一見矛盾した表現が僕の脳内で反芻する。

 「考えようによっては一度死から蘇って、生まれ変わったようなものだから、未遂で成功だったんじゃないかって思う。」

 「そうですか。」

 同時にあの時、バイトの同僚は店長がまるで本当に死んでしまったかのように責任を感じていたことも思い出す。

 「まさか人にこんな話をするとは思わなかったけど。」

 「すみません。失礼な事を聞いてしまって。でも謝りたくもあったんです。店長がどうにかなってしまう前に僕達がもっと力になるべきだったんじゃないかと。」

 「そんなことはいいんだよ。どうせいつかは耐えられなくなるんだから。」

 自殺というものが本人以外の努力でどうにかできるものではないということが今ははっきりと分かる。

 「今はどんな感じで暮らしているんですか?」

 「精神病棟に入って、自殺しないように監視されながら生きている。」

 店長の声色的に、自殺未遂を経て生まれ変わって不自由ない生活をしているものだと勝手に思っていた。

 「それで成功なんですか、、、」

 「でも生まれ変わったとは思う。人間から水槽の中の魚に。」

 「ああ、、、」

 水槽の中の魚。水中は人間のままでは生きてゆけない空間。生き続けるために魚に生まれ変わる。でもそうすることでしか彼女を救うことはできないと言う。

 「分かりました。声を聞かせてくれて、本当にありがとうございます。」

 「ああ、ありがとう。」

 黒く塗りつぶされたような結末を何となく悟りながら、店長との通話は終わった。でも同時に僕の中で新たな選択肢が追加されたことも確かだった。そしてその三つ目の選択肢が自分の中で圧倒的に有力であることも実感していた。

 久しぶりに店長の声を聞いた僕は彼女の家を飛び出して、意味もなく繁華街へと足を運んだ。

 

 繁華街では外国人観光客の姿がよく目についた。彼女と初めて出会った交差点、そこから見える繁華街の入り口には今日も昼間から甲高い声で客を呼び寄せる人たちが立っている。数ヶ月前までは彼女もあそこに立っていたとは思えなかった。

 そしてさらに奥には僕がバイトしていたファミレスの看板も目に入る。辞めて以来近づく事すらしなかった場所に、恐れながらも近づいていた。

 すりガラス越しに店内を見つめてみると、厨房の奥であの新しい店長を見慣れた顔が囲んでいた。客が入店すれば店員が愛想良く向かい入れて、また別の客が満足げな顔で退店する。そしてその空間は何の違和感もなく動かされている。死の香りなんてするわけもなくきっちりと正常化されている。

 僕は箱庭の真ん中で虚しさに耽っている。そして店長は精神病棟という名の水槽で必死にもがく。全ての責任を僕の背中に押し付けて、ここで起きた自殺未遂の残り香は風と共に外へと吐き出される。どうしてこうならなくてはいけないのかと思う。

 酷い虚しさの中で、僕は歩いてゆく。秋の風に僅かに押されながら死に場所を探しているような気分になる。昼間から繁華街の喧騒はうるさい。冷静な判断を捨てて、水中で眠るように死ねたならどれほど心地良いかと思う。

 いやダメだ。僕らは決して死ぬのではない。生まれ変わるのだ。生と死の境目でもがいて正常に愛を育めるような人間に生まれ変わる。彼女が自殺願望を捨て去るために、その記憶全てが飛んでしまってもいい。一度極限まで死に近づいて、そこから奇跡的に生還して。また彼女と二人で新たな生活を始めたい。そのような決意が人混みの中心で生まれてしまった。それを実行するために、準備を進めた。僕はもうあまりの虚しさから、自暴自棄に近い精神状態に陥った。


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