第15話
九月になっても甚だしい残暑が続いていた。箱庭には今までのように誰かに使い古されたモノではなく、新品のモノがプレゼントされるようになった。たとえば北欧のブランドのマグカップや、小さな観葉植物など。もちろん嬉しかったけれど、何だか貰いすぎて申し訳なくもなってくる。だから、その貰ったマグカップで温かいレモンティーを飲みながら、参加者への恩返しをどのような形で行えばいいのか考えた。息を吹きかけて懸命にレモンティーを冷まそうとする彼女の横顔は、何気ない幸せそのものだった。
そんな彼女は徐々に気温が落ち着いて秋が近づくにつれて、頻繁に外出するようになった。勿論二人でどこかへ行く時もあるけれど、僕が起床する前に準備を済ませて、目を覚ました頃には既にどこかへ出かけていることもあった。そんな時は彼女の気持ちの変わりように嬉しくなりつつもどこか寂しい気持ちになった。子供が離れてしまった親のような気持ちだった。帰ってきた時に今日はどこに行ったのかと聞いても、何となくはぐらかし、微笑むばかりだった。
そして彼女が外出する時には、僕も栞書店へと度々訪れるようになった。坂井さんには「いつになったら彼女さんをつれてきてくれるんですか?」と言われながらも、懲りずに一人で時間を過ごした。少しずつ入れ替わる本棚の古本を開きながら、夢乃さんの最近の様子を相談する。そして僕らが恋人ではないこと、彼女が僕と一緒に死ぬことを望んでいたことを打ち明けた。すると坂井さんは
「感情じゃなくて、命で繋がっているんですね。」と言った。夢乃さんは僕と一緒に死にたい、一方で僕は夢乃さんと一緒に生きたい。そんな命に関連したお互いの願望を基に、僕らは生きている。でも「命で繋がっている」なんて言い表せるほど美しいものではないと強く思う。だけど、そんな風に僕たちの生活を美化して言い表してくれる存在を知らぬ間に求めていた気がする。
「僕なんてただの大学生がこんな精神をすり減らすような経験をしなくてもいいと思うんですよ。もっとありふれた恋愛をするべきだと。でも何か、坂井さんに言われると今までの全ての行動が正解みたいに思えます。」
「正解みたいと言うか、正解そのものですよ。一人の命をこんなにも大切に救おうとしてるんですから。」
坂井さんは古本屋の店員だからか、その言葉がどれも心に染み付いていく。唐突に襲ってくる数多への不安。親が僕の現状を知ったらどうするか、夢乃さんとの関係性がいつまで続いてゆくのか、そして彼女がいつまで生きてくれるのか。そう言うものを取っ払うために僕は栞書店へ今日も遥々と足を運んだんだと思う。
「あ、そうだ。少し荷物になるかも知れないですけど。新しく私がチョイスした本を用意したので持っていってください。」
坂井さんは奥から紙袋に入った数冊の本を手渡してくれる。
「そんな、貰ってばっかりじゃ悪いので払いますよ。」
「いいんですよ。箱庭にこれを置いてくれれば私も嬉しいので。」
こんなにも優しい人がどうして「自分には価値がない」という感情を今でも抱かなくてはならないのだろうと思う。紙袋の手提げ越しに、坂井さんの優しさが伝わったような気がした。
「ありがとうございます。本当に、何らかの形で恩返しします。」
坂井さんは嬉しそうに笑う。口だけではなく、心の奥からそう思う。恩返しがどれだけ坂井さんの中で僅かな意味しか与えなくても、自己満足だと言われても構わないから。
そうして栞書店を出ると空は茜色に染まってゆく。遠くの方をぼんやり見ながら駅の方へと歩いていると夢乃さんから連絡が来た。「ICカードの残高が足りなくなったのに、財布を忘れて改札から出れないです。助けてください。」と、彼女の珍しい一面を見た。それを知って僕は急ごうとはしたものの、彼女が足止めを食らっている自宅の最寄り駅までは結局一時間ほどかかってしまった。
「めっちゃ待ちましたよね、多分。」
「あぁ、、待ってました。」
ようやく到着して、声をかけると彼女はもう疲れ切った様子だった。知らないバンドTシャツは軽く汗ばみ、いつもの柔軟剤の香りが漂う。側から見れば何の変哲もない活発な女性のようだった。とりあえず千円札を夢乃さんに手渡して、一緒に改札を抜け出した。
「今日はどこに行ってたんですか?」
地下鉄の出口へと歩きながら、彼女は僕が持っている紙袋を見て聞いた。でも、何だか坂井さんに会ってきたことは言いたくない気分だった。
「色々です。」
「色々って何ですかもう。」
彼女は笑いながらそう言う。地上に出ると既に、空気が夜に切り替わっていた。
「夢乃さんも最近沢山外に出ていますよね。」
「そうですね、箱庭計画のおかげで人との繋がりができたんです。」
「それは、良かったですね。」
彼女がどんな人と繋がったのかが、僕には少し気がかりだが、それはお互い様だと思う。ただ、こうしてお互いに疲労を感じながら、帰路に着く。この時間は箱庭計画を始める前には無かった。
「もうそろそろ大学は始まっちゃうんですか?」
「来週から始まりますね。」
彼女は「残念です。」と言う。でも結局大学が始まっても、夢乃さんが生活の中心にいることには変わり無い。
「て言うか思うんですけど。なんで僕たちってずっと敬語なんでしょうね。」
「それ私もたまに思います。でも、距離がある敬語じゃ無いですよね。なんていうか、お互いを丁寧に包み込むみたいな敬語ですよね。」
友達でもなく、恋人でもなく、心中相手でもなく。曖昧な関係性は、二人の敬語によってあやふやに包み込まれている。でも確かに、それが嫌だとは思わない。むしろ心地いいとも思う。
「私も君も、この関係性が壊れないように無意識にも丁寧に生きているんでしょうね。」
彼女のそんな言葉に、心の奥の方から虚しさがズンと込み上げ、僕は紙袋の取手を強く握る。触れるだけで壊れてしまいそうな関係性の中で、暮らしているんだと言うことを実感する。
「まあいいんです。僕らは命で繋がっているから。」
僕は詰まりそうな悲しさを紛らわす為に、坂井さんの言葉を口にした。すると彼女は少し驚いた顔をしたのち、「そうですね。」と呟いた。手を繋ぐこともない、二人の隙間を夜の風が後ろから通り過ぎてゆく。
駅前のロータリーまで歩くと、それぞれ足早に散ってゆくサラリーマンたちの横で、アコースティックギターを首から下げた路上ミュージシャンが自信満々に歌声を披露していた。
「ああ言う人たちの自分を表現する勇気ってどこからやって来るんでしょうね。」
彼女はボソッと漏らすように言う。
「あんな感じで目立つのは苦手ですか?」
「苦手です。だから、あれくらい目立つ仕事をしてたのが今となっては怖いくらいです。」
過去の客引きでの苦い経験を彼女は思い出し、真っ暗な空を見上げる。僕はその右手を繋いであげたくてたまらないけれど、ただ彼女の小さな掌に目をやるだけだった。
「それに比べて、今は幸せですね。」
「本当ですか?」
「うん、もちろん。終人くんのおかげで。」
「初めて、僕の名前を呼びましたね。」
名前を呼んでくれた嬉しさと、路上ミュージシャンの遠慮のない歌声が混ざり合う。
「君の名前の意味は、私の悲しみを終わらせた人っていうことにしましょう。」
僕は幸福感が体全体から溢れ出しそうで仕方がなかった。心の中で夢乃さんを抱きしめた。もう一生死にたいなんて言ってほしくないと思った。
翌日も、夢乃さんは朝から外出した。「どこに行くんですか?」と聞いても曖昧な答えしか渡してくれなかった。僕は食パンをトースターで焼いて一人で齧り付く。彼女が開放的になったのは良いことだけれど、この豊かに装飾された箱庭で一人きりでいる時間が訪れると複雑な気持ちになる。ここにある全てのモノ、アートフラワーも海外のポスターも空の水槽も、お洒落なマグカップだって、彼女の為に用意されたものだ。箱庭は僕が一人で生きるために作られた空間ではない。夢乃さんが生きやすくなるようにこれだけ鮮やかに彩られたのに、肝心の彼女が居ないとそれが全て意味のない物のように思える。僕はテーブルの上に置いてあるオルゴールを鳴らしてみた。
「どこに行ったんだろう。」
居場所のわからない彼女を思いながら、真っ白い天井に目掛けて言葉を浮かべた。そして僕は箱庭をカメラで撮影し、今日も変わらず、箱庭計画を進める。
「【9月14日】今日の箱庭はこんな感じです。本当に素晴らしい空間になったと思います。どんなに小さなモノでもそれぞれに皆さんの温かさがあって、僕らは幸せです。彼女は以前よりも開放的になり、最近よく外出するようになりました。」
一人で文章を打ち終えてそっとスマホを置く。最近は日記を投稿するとその瞬間に何人もの閲覧者が訪れて、コメントの通知も来るようになった。
「良かったですね。部屋を装飾するのも勿論大事ですが、外出することはもっと大事なのかも知れないですね。」
彼女の行動をポジティブに捉えてくれる人がいる。
「自分が送った本が丁寧に置かれていて嬉しい。読んでくれましたか?」
このコメントは坂井さんのものだと言うことが分かる。振り返ると箱庭計画を始めて三日目くらいの日記から坂井さんはコメントを寄せてくれていた。
僕は無心で集まるコメントを読み漁って、その度に幸せを吸収する。夢乃さんが明日も生きようと思える箱庭を、僕はちゃんと完成させたいと思う。でも、同時にこの箱庭日記も終わってしまえば生活に物足りなさが募ってしまう気がする。
そんなことを考えていて、オルゴールから奏でられたカノンが静かに止んだ時。スマホをスクロールする指先に力が入り、思わず固まった。
「やっぱり有料日記の内容はこの人には見れないんだろうか。」
「彼氏さんがやっていることが正しいはずなのに、むしろ逆効果になっていることが、なんか悲しい。絶対に正しいはずなんだけども。」
こんなコメントを目にして、僕はひどく動揺する。息が詰まりそうになる。忘れかけていた、でも心の奥底でずっと不安感が宿っていた、有料日記の内容のこと。逆効果とはどう言う意味なんだろうか。彼女は毎日どんな言葉を記しているのか。心が震えてきて、どうにかして有料日記を確認したかったけれど、それは彼女が管理しているので僕のアカウントからは見れない。だからすぐに新しいアカウントを作り、月額五百円の料金ボタンを押した。これから僕は何を知ることになるのか、得体の知れない恐怖で汗が滲み出てくる。
「【8月4日】箱庭計画というものが始まった。ここでは嘘をつくべきではないと思うので、正直な気持ちを綴ると、不安感が拭えない。何もない部屋ってそんなにおかしい事なの?私自身がこの方が心地良いと思ったから、あえて無機質な空間を作り上げたのに。
花は枯れるからこそ綺麗。繰り返す旋律は頭の中にへばりついて離れない。やっぱり私は繰り返すモノ、変化しないモノが苦手だ。でも私のために時間を使ってくれているのだから、一度は全てを受け入れようと思う。」
「【8月11日】死にたい日には、何を食べても同じような味がしていた。何を匂っても、何に触れても、それに付随して感情が動くこともなかった。でもそれで良かった。死のうとするその瞬間に、漂う香りとか、音色とかそんなものが懐かしく感じたら私はきっと躊躇してしまうと思うから。この部屋は私の五感の全てを支配してくる。死の直前で躊躇させる為のものばかりだ。」
「【8月13日】他人の匂いが染みついたぬいぐるみが部屋に堂々と置かれる。なんだか燃やしてしまいたい。他人の生き方なんてやっぱり参考にならない。ぬいぐるみを置けば死にたい気持ちを抑えられるなんて、そんな甘いもんじゃない。」
「【8月14日】どうして、部屋が装飾されていくことを喜べないんだろうか。私の生活空間に、他人の想いが乗ったモノが蓄積していくのが嫌でたまらない。もう放っておいてくれって思う。でも、こんなことを思っていることは彼には絶対に伝えたくない。それはこの箱庭が完成した時に、私自身も自分がどんな感情になるのか知りたいから。もしかしたら、「なんて幸せな空間なんだ」って思えるようになって、生まれ変わったように死にたい気持ちも沈静するかも知れないから。食わず嫌いはしません。とにかく私はそんな奇跡のような結果を期待して眠ります。彼はまだ一人で部屋に何かを装飾しているみたい。」
彼女が寝た後に、喜ぶだろうなと思って洒落た海外のポスターを壁に貼り付けた夜を思い出す。
「【8月18日】沢山の本を送ってくれた方、有難うございます。これほど大きな優しさに触れたのはおそらく人生で初めてです。その優しさ自体には感謝というよりも尊敬します。でも、この本のおかげで死にたくても死ねなくなりました。私が死んでしまったら送り主の気遣いが全て無駄になってしまうと思うと生き続けるしかない。過大な愛は時に重く、そして迷惑。」
「【8月31日】箱庭計画が始まり、一ヶ月が経ちました。私の部屋はもはや他人の部屋のようです。私は不思議です、どうして皆さんが見知らぬ人間の生死にそれほど関心が持てるのかが。私がこの世界から消えることで、皆さんの生活に影響の一つでもあるのでしょうか?
でも、誰しもの期待通りに生きていけないことが私自身も辛いです。「本を送ってもらった。ああ幸せ。死にたいなんて思うのやめた。」と感情が上手い具合に転換していけば良かったのに。皆さんの優しさは伝わります。でもそれを喜べない私はなんて世界からずれているんだろうと思うんです。きっと私にとって優しさとはただ放置されることだったのかも知れません。こんな私の感情を理解してくれる方に私は出会いたいです。9月になったらもっと外へ出ます。皆さんの優しさが並べられた箱庭から少し逃げると思います。」
僕は日付が段々と今日へ近づいてゆく有料日記が怖くて堪らなかったけれど、もう震える指先はスマホの画面から離れていかない。ただ涙も出ない瞳は、夢乃さんの正直な思いを受け止め続ける。
「【9月4日】嗅ぎ飽きたアロマストーンの香りがなんだか嫌で箱庭から逃げ出した。外の世界はどこか新鮮だった。でも熱を帯びたアスファルトやすれ違う人の香水の香り、繁華街の喧騒に、吐き出される排気ガス。この世界自体も、誰しもの手で作られた大きな箱庭だと思う。逆に言えば、私たちは自分の部屋に小さな世界を作り上げていたのかも知れない。」
「【9月6日】私みたいに、死にたい気持ちを抱えたままで、それでも生き続けている人は多いのですね。9月だと言うのに死ぬほど暑いですが、新たな出会いを見つけたので今日も外へ出ます。」
「【9月13日】私の自殺願望を止めることなく、自然なことだと捉えてくれる人に出会ってしまいました。その人は私にとっては救世主のように思えました。箱庭計画があっても死にたい気持ちを消滅させることができない私には、もうどんな方法も残されていないのかも知れませんね。はっきりと言います、私は皆さんの優しさを無駄にしています。だから私のことはもう、放っておいてください。それこそが私には特別な優しさに見えるのです。」
今日は九月十四日。僕の手からスマホが滑り落ちる。それすらも握っている力が入らなかった。静かな箱庭では、観葉植物の葉が空調の風でそよぐ。こんなにも虚しいことはないと強く思う。この箱庭計画を僕は心から素晴らしいと思い、全力で取り組み、多幸感に溢れていた。でも、夢乃さんには幸福感の一つも与えなかった。彼女にとって唯一良かった部分といえば、箱庭が嫌で外の世界に飛び出した時に、分かち合える人間に出会えた事だろう。自殺願望から切り離す為に、集められた全ての人間の優しさは今まさに砕け散る音がした。
有料日記には正直な気持ちを書いてほしいと言ったけれど、あまりに愚直だったことを知る。同時に自分自身の日記の能天気さが恥ずかしかった。
そう思っていた時に、僕は夢乃さんが今、何処で誰と何をしているのかが猛烈に気がかりになる。だから床に落下したスマホをもう一度拾い上げて、彼女の連絡先を探す。深呼吸しても落ち着くことない鼓動で苦しみながら、僕は電話をかけた。
コール音が何度リフレインしようとも、彼女が出てくれるまで切るつもりも無かった。僕は祈るような気持ちで、彼女の声を切望した。
「もしもし。」
多少の物音と共に、いつもと変わりない夢乃さんの声がスマホ越しに届く。それに対して素直に安心した。
「あの、、、何処にいるんですか。誰と何を、、」
「え?」
昂った感情で、散らかった僕の言葉に彼女は少し動揺したようだった。
「有料日記見ちゃいました。もう夢乃さんが何をしているか怖いんですよ。」
「ああ、そういう事でしたか。」
彼女は特に焦る様子も見せない。堂々と有料日記に正直な感情を書いていたのだから、そのうち僕が目にすることも想定内だったんだろう。
「今日の夜にちゃんと正直な気持ちを直接伝えます。最近好きになった中華屋さんがあるんです。だからそこで会いましょう。」
「とりあえず話せるなら、、分かりました。」
僕は電話を切った。そして硬い床に転がり込む。この悲しさについて、僕に悪い部分があったのかも知れないとふと思う。それは箱庭計画に寄せられる大量のコメントで少なからず自分の承認欲求が満たされていたことだ。本来は夢乃さんのため、夢乃さんが生きやすくなるために始めたものなのに、僕の方が熱中するようになって日記に対する参加者の反応に快感を覚えていた。それはもう、インスタグラムに写真を載せているのと大差なかったと思う。
途轍もなく虚しく、悲しい。でも彼女のことを不思議と責める気持ちにはならない。僕自身がもっと違う方法があったんじゃないかとばかり思う。こんなことになるのなら、箱庭計画なんて実行するんじゃなかった。
この世界自体が大きな箱庭。そしてこの部屋は小さな世界。そこから逃げ出そうとする彼女。僕はこの世界に一人取り残されている。いずれ消滅する世界。「生きやすい世界って何?」独り言を、箱庭にそっと置く。




