境界師③
それからの私は、まるで半透明の膜越しに世界を眺めているようだった。
起きているのか、眠っているのか。
夢なのか、現実なのか。
境界線を見失った思考は、もはや自力で止めることができなかった。
オフィスに出社し、デスクに座る。
キーボードを叩く自分の両手を眺めながら、私はついに「究極の疑問」に捉われていた。
(……一般的に『死』の境界とは、心臓の停止、呼吸の停止、脳機能の停止と言われている。
だが、それはあくまで客観的な基準だ。
ならば……主観における『意識的な死』の境界はどこにあるんだ?)
大脳の電気信号が途絶える瞬間か? 外部からの情報入力が途絶える瞬間か?
麻酔をかけられた時のように「数を数える思考が途切れた瞬間」が意識の死なのか?
それとも、二度と目覚めない無夢の眠りに入ったその『狭間』にこそ、明確な境界が存在するのか?
一度疑問を抱けば、境界師としての本能がそれを解明せずにはいられない。
他人が作った医学の定義など、もうどうでもよかった。
「……自分で、確かめるしかない」
主観における『意識の死の境界』を、この目で直接観測する。
その強迫観念に完全に支配された私は、自らの胸に手を当てた。
境界師として世界の概念を定義し続けた私の脳は、ついに自らの肉体に干渉し始めた。
私は自分の意志で、「心臓が動いている状態」から「心臓が止まっている状態」へと、強制的に境界線を引いたのだ。
ドクン、ドクンと鳴っていた胸の奥の拍動が急速に弱まり、不規則になっていく。
息が詰まり、脳への血流が途絶えていく感覚。視界の端から黒いモヤが広がり、世界の色彩がサーッと引いていった。
「……大丈夫ですか?」
不意に、すぐ横から同僚の声が聞こえた。
だが、そんなものはもう知覚の残像に過ぎない。私の意識は今、誰一人として観測したことのない「意識の死の境界線」の上を歩いているのだ。
聴覚が消える。視覚が消える。時間の感覚が崩壊していく。
テレビの電源を抜いた直後のように、私の脳内で神経ネットワークの灯りがひとつ、またひとつとグラデーションを描いて落ちていく。
(ああ……そうか。これが外部世界との遮断……『意識不明』の境目か)
自身の思考が、知覚が、ゆっくりとフェードアウトしていくプロセスを、私は狂烈なまでの冷静さで観測し続けていた。
だが、思考の記録が永久に途切れ、完全な「無」へと落ちていくその直前。
まどろみの奥底で、私の脳裏に最後の問いが浮かび上がった。
(意識の消失はここだ。……では、この思考すら消え去った先に訪れる『本当の死の境目』は……どこにある……?)
主観においては、死に到達した瞬間を観測する「自分」すら存在し得ないという完璧な矛盾。
その解けない最後の境界線を追い求めながら。
私の思考の糸はプツリと切れ、二度とこちら側へ戻ってくることはなかった。
「……完全に止まりましたね」
ピクリとも動かなくなった私の頭を、同僚のひとりがそっと持ち上げ、デスクの上に静かに伏せさせた。
「はぁ……これでこの部署、3人目ですよ」
向かいの席の同僚が、心底弱り切ったような溜め息をつきながら缶コーヒーのプルタブを開ける。
顔には疲弊の色も、悲しみすらも浮かんでいない。ただただ「面倒な事後処理が増えた」とでも言いたげな無表情だった。
「だから言ったろ。オンとオフを切り替えられなくなった奴から順番に壊れるって。境界について真面目に考え始めちゃう奴は、遅かれ早かれ『自分と世界の境界』すら見失うんだ」
先輩が私のデスクに置かれたままの端末を引き寄せ、手慣れた手つきで「欠員:1」の処理を入力していく。
「ねえ、リーダー。やっぱりこの『境界師』の部署、そろそろ廃止にしませんか?」
同僚が冷めた目で部屋の隅のシュレッダーを見つめながら言った。
「人間が世界の境界線を勝手に定義するなんて、ハナから脳のスペックを超えてるんですよ。
このままだと、新しい奴が入ってくるたびに同じことの繰り返しです」
リーダーと呼ばれた男は、しばらく黙って自分のモニターを見つめていたが、やがてゆっくりと首を振った。
「ダメだよ。世の中の境界線を引く奴がいなくなったら、世界中の概念が混ざり合って崩壊する。
誰かがこのリスクを背負って『線』を引き続けなきゃいけないんだ」
リーダーの指がキーボードを叩き、専用端末に新しい依頼を呼び出す。
「……よし、次の案件いくぞ」
冷え切ったオフィスの中に、いつもの淡々とした声が響く。
もしよろしければ、★評価やブックマークをお願いします!




