境界師②
「境界師」としての仕事に没頭するようになってから、数ヶ月が過ぎた頃だった。
私は日常のあらゆるものに対して、無意識に「境界線」を探してしまうようになっていた。
歩道を歩いている時。『ここからが「路地」で、ここからが「大通り」か?』
カフェでコーヒーを飲んでいる時。『どこまでが「あたたかい」で、どこからが「ぬるい」なのか?』
世界を綺麗に切り分ける快感を知ってしまった私の脳は、起きている間中、あらゆる事象の定義を休むことなく検索し続けていた。
だが、私以外の同僚は違っていた。
毎日どれほどややこしい案件を処理しても、彼らは定時になれば「おつかれー」と軽い調子で帰り、翌朝にはすっきりした顔で出社してくる。まったく疲れが見えないのだ。
ある日の休憩中、缶コーヒーを飲む先輩に思わず尋ねた。
「先輩たちって、なんでそんなに疲れないんですか? 街を歩いてても境界線のことばかり考えちゃいませんか?」
先輩は缶コーヒーを口から離し、苦笑いしながら首を振った。
「ダメだよ、君。この仕事はね、仕事が終わったら頭の中でパチッと『オンとオフ』の境界線を切り替えないと。
境界について考え始めると、果てがないから止まらなくなるんだよ。どこかで線を引き直さないと、自分が壊れるぞ」
「オンとオフの切り替え……」
「そう。オフィスを出たら『境界師』の自分は終了。そこから先は何も深く考えない。それがこの仕事を長く続けるコツさ」
同僚たちは笑っていたが、私にはその「切り替える」という行為自体が、もう難しくなっていた。オンとオフの境目はどこにある? 事務所のドアをくぐった瞬間か? 電車に乗った瞬間か?
その夜、ベッドに入ってから、先輩の警告が恐ろしい形で現実となった。
部屋の灯りを消し、目を閉じる。
普段ならそのまま意識が遠のくはずだった。だが、私の脳は暗闇の中で冷たく冴え渡っていた。
『どこからが「起きている状態」で、どこからが「寝ている状態」なのか?』
考え始めると、本当に止まらなくなった。
目を閉じているだけの時間は、まだ起きているのか?
頭の中で雑念が巡っている間は、起きているのか?
「あ、今自分はまどろんでいるな」と自覚している瞬間は、起きて過ごしているのか、それとももう夢の中にいるのか?
考えれば考えるほど、覚醒と睡眠を隔てるはずの「境界線」が、砂のように崩れて消えていく。
意識を失う直前の「あの一瞬」を捕捉しようとすればするほど、覚醒の側へ引き戻される。
だが、全身の重い倦怠感は間違いなく睡眠の領域へ私を引っ張り込もうとしていた。
起きているのか、寝ているのか分からない曖昧な状態のまま、時計の針の音だけが脳内に響く。
気づけば朝になっていた。
窓から差し込む日光を浴びながら、私は自分の手を見つめた。
体が重い。頭も重い。だが、私は昨夜「眠った」のだろうか?
それとも、一晩中「眠っている夢」を見ていただけなのだろうか?
オフィスに出社しても、状態は変わらなかった。
パソコンの画面に向かい、キーボードに指を置く。文字が入力される。同僚たちは相変わらず爽やかな顔で雑談している。
(……今の私は、現実のオフィスでキーボードを叩いているのか? それとも、ベッドの中で仕事をしている夢を見ているのか?)
「おい、大丈夫か?」
隣から先輩の声が聞こえた。その声は、水底から響いてくるように遠く、膜を隔てたように不鮮明だった。
「……先輩」
私はかすれた声で呟いた。
「私、今……起きてますかね?」
先輩は一瞬あっけにとられたような顔をし、それからどこか冷ややかな、引きつった笑いを浮かべた。
「だから言ったろ。オンとオフを切り替えろって。……境目を探し始めたら、もう戻ってこれなくなるぞ」
視界が歪む。キーボードのキーの境界線が、画面上の文字の境界線が、そして目の前にいる同僚たちと空気の境界線が、ゆらゆらと溶け始めていた。
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