境界師ー言葉の境界を生み出すお仕事ー①
絶妙な境界。
私の仕事は少し風変わりだ。部署の人間からは「境界師」と呼ばれている。
雑居ビルの片隅にある小さなオフィス。
そこに集まるのは、私を含めてたった5人の同僚たちだ。私たちの元には、日々専用の端末を通じて、世の中のあらゆる「曖昧なもの」に関する依頼が送られてくる。
仕事内容はシンプルだ。送られてきたふたつの概念に対し、
「どこからがAで、どこからがBなのか」という明確な境界線を決定し、承認ボタンを押すこと。
最初はただの雑学クイズか、辞書の編纂作業のようなものだと思っていた。
だが、この仕事の面白いところは、私たちが境界線を引いた瞬間、それが世の中の「決定的な事実」としてしっくり馴染んでいく点だ。
デスクでコーヒーを飲みながら、私は隣の先輩に話しかけた。
「そういえば昨日、やたら境界が明確なやつの依頼があったんですよ。『「徒歩」と「走る」の境界』とか『「液体」と「気体」の境界』みたいな。
ああいうのは普通に辞書とか教科書に載ってるんだから、ちゃんと自分で調べてから依頼してほしいですよねー」
先輩は苦笑しながら言った。
「まあな。でもたまにそういう『分かりきった境界』が送られてくるときは、世間の誰かがその基本すら揺らぐような屁理屈をこね回してる証拠なんだよ。だから俺たちが改めて『ここが境界だ』って釘を刺してやる必要があるのさ」
「なるほど、再定義ってやつですね。……あ、今日の案件来ましたよ」
リーダーがモニターに新しい依頼を映し出す。
『「ぽっちゃり」と「肥満」の境界線』
「うーん、これは絶妙だな」と、先輩が腕を組む。「単なるBMIの数値だけじゃダメだ。見た目の印象と、本人がそれを愛嬌として受け入れられているかどうかの心理的境界も考慮しないと」
「じゃあ、『自分の腹をつまんで愛おしいと思えるか』の狭間に線を引きますか?」
「いいねえ、それで行こう」
私たちが議論を重ね、絶妙なラインで境界線を確定させて送信する。
すると、街中の人々の認識や空気感が、まるで最初からそうだったかのようにピタリと収まるのだ。
だが、次に画面に表示された案件で、オフィス内の空気は一変した。
『「遊び」と「浮気」の境界』
モニターを見つめたまま、同僚のひとりが口を開く。
「これは荒れるぞ……。どこに引く? 二人で食事に行った時点か?」
「甘いな」と別の同僚がデスクを叩く。「二人きりで会う約束を交わしたメッセージを打ち込んだ瞬間だろ。行動に移す前の企ての時点でアウトだ」
「いやいや、連絡を取るくらいなら仕事や友情の延長もあり得るだろ!」私は思わず身を乗り出した。「二人で会ったとしても、そこに身体的接触がなければ『ただの遊び』と言い張れるんじゃないですか?」
「甘い甘い!」後方の同僚が声を張り上げる。「身体じゃなくて心の位置だろ! パートナーに隠そうとした瞬間、つまり罪悪感が発生したところが絶対的な境界線だ!」
「じゃあ、罪悪感すら感じない悪びれない奴はどう線引きするんだよ!?」
「それを言ったら、嘘をついて外出理由を捏造した時点で『浮気』に分類されるべきだ!」
あーでもないこーでもないと、5人の議論は白熱し、一向にまとまる気配がない。その時、黙って話を聞いていた先輩がぽつりと呟いた。
「……相手に『堂々と言えるかどうか』を基準にするのはどうだ?」
オフィスが一瞬で静まり返る。
「連絡を取るのも、二人で食事に行くのも、その事実を自分のパートナーに隠さず、胸を張って『堂々と言える』なら遊び。少しでも言い淀んだり、濁したり、言えないならそこから先はすべて浮気だ」
「……それだ」
私と他の同僚たちは顔を見合わせた。感情の有無や複雑な状況に関わらず、一発で全員が納得できる、あまりにも完璧な境界線だった。
「決定だな。『パートナーに堂々と言えるか否か』で送信!」
リーダーが承認ボタンを押した瞬間、部屋の中に心地よい達成感が満ちた。
世界はこんなにも曖昧なもので溢れている。
そして、それを自分たちの手で綺麗に切り分け、整えていく快感。
私はすっかりこの仕事の魅力に取り憑かれていた。
どんなにややこしい概念であっても、私たちが線を引けば必ず境界は決まる。
この時の私は、そう高を括っていたのだ。
あんなにも美しく見えていた「境界線」という概念が、やがて自分自身の精神を切り刻んでいくとも知らずに。
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