動物用保健室の先生
私の仕事は動物用「保健室の先生」だ。
28歳で前の会社を辞め、無職だった私は、山あいにある小さな牧場の求人欄でこの仕事を見つけた。
仕事内容は、毎日牧場の動物たちの横に座り、ただ優しく語りかけ、彼らの仕草や鳴き声にじっくり耳を傾けること。
「ストレス軽減とメンタルケアをする保健室の先生のように振る舞って欲しい」と牧場主の老人に説明されたが、もちろん動物が人間の言葉を話せるわけがない。最初はただの気休めバイトだと思っていた。
だが、毎日牛や馬の隣に座り、彼らの瞳を見つめているうちに、不思議な変化が起きた。
耳の傾き、息の吹き出し方、足踏みのリズム——言葉はなくとも、彼らが今何を感じているのか、感覚的に「理解」できるようになっていったのだ。特に、老馬のタロウは私にすっかり心を開いてくれていた。
ある晴れた日の午後だった。
牧場はいつも通り穏やかで、他のスタッフたちものんびりと作業をしていた。
だが、タロウだけが違った。
タロウは暴れるでも、大声を出すでもなく、誰にも気づかれないように静かに私へ近づいてきた。そして、私の服の裾をそっと口で食むと、じっと私の目を覗き込んできたのだ。
その瞳の奥には、見たこともないほどの深い恐怖が宿っていた。
タロウは私の足元で、トントンと規則正しく前脚を鳴らす。普段は見せない、特殊な足踏みのリズム。
(逃げろ。底が割れる。今すぐ高いところへ——)
言葉ではない。けれど、毎日彼と向き合ってきた私には、それがタロウから自分だけに送られている明確な「警告」だと分かった。
私は青ざめ、すぐに牧場主のもとへ駆け込んだ。
「社長、地震がきます! 今すぐ全員で高台に逃げてください!」
スタッフたちは「何言ってるんだ」と呆れ顔だったが、牧場主だけは私の顔色を見ると、即座に動物を含め全員の避難指示を出した。
半信半疑で高台へ避難し、全員が足を止めた直後のことだった。
地鳴りのような重低音が響き、大地が激しく揺れた。大規模な地震だった。山の一部が崩れ、私たちが先ほどまでいた場所を土砂が飲み込んでいく。
間一髪だった。事前の避難のおかげで、人間も動物も奇跡的に全員が無事だった。
呆然と崩れた山を見下ろす私に、牧場主が静かに歩み寄ってきた。
「助かったよ、ユウキさん。」
「……社長。どうして私の言ったことを信じてくれたんですか?」
牧場主は寂しそうに首を振った。
「動物はパニックになると人間を警戒する。
それには例外があり、日頃から利害関係なく信頼関係を築いたパートナーがいれば大騒ぎせずそのパートナーにだけそっと異常を知らせてくれる」
そこでふと疑問が湧き、私は尋ねた。
「でも……私なんかより、ずっと長くここにいる社長の方が、動物たちとの信頼関係はあるんじゃないですか?」
すると、牧場主は小さく苦笑いし、視線を落とした。
「ダメダメ。私たちはどこまでいっても、彼らを商品として出荷してしまう立場だからね。どうしても、最後の最後で本当の信頼関係は築ききれないんだよ。彼らもそれをちゃんと分かっている。」
背筋に冷たいものが走った。
「だから、利害関係の全くない、純粋に彼らと向き合ってくれる『保健室の先生』が必要だったんだ。
この地域は昔からこうして、動物からの密かな合図を受け取って震災を生き延びてきたんだよ」
牧場主はそこまで言うと、ポケットから一通の封筒を取り出し、私の手に押し付けた。厚みのある給料袋だった。
「そして君は、立派に役目を全うしてくれた。……だからこそ、今日でお仕事は終わりだ」
「え……? 解雇、ですか……?」
予想もしなかった言葉に、私は息をのんだ。牧場主は静かに首を振る。
「動物が命を預けるのは『自分たちを救ってくれる仲間』だけだ。君は今日、彼らを救った。
だが、一度この『奇跡』を体験してしまった人間は、もう無垢な『保健室の先生』ではいられない」
牧場主の瞳には、どこか諦念に似た色が浮かんでいた。
「明日からの君は、彼らの些細な仕草に『また警告ではないか』と期待し、観察し、利用しようとしてしまうだろう。下心や身構えがある人間に、彼らは二度と心を開かない。……この仕事はね、一生に一度、一度の災害で使い捨てにするしかないんだよ」
背筋に、氷を押し当てられたような冷たさが走った。
私が築いてきたと思っていた信頼は、この過酷な伝統を成立させるための、最初から計算された「仕組み」に過ぎなかったのだ。
「すまないね」
牧場主が去っていくと、いつの間にか泥で汚れたタロウが、そっと私の隣に顔を寄せてきた。
タロウは私の顔をじっと見つめると、鼻先で優しく私の腕を小突いた。
その瞳には、恐怖も、警告も、もう何もない。
ただ澄んだ、深い愛おしさだけが宿っていた。
タロウは知っていたのだ。自分が合図を出せば、私がどうなるのかも。それでも私を選び、命を託してくれたのだ。
私は溢れそうになる涙を必死にこらえながら、震える手でタロウのぬくもりを抱きしめた。
二度と訪れない「保健室の先生」としての最後の時間を、ただ静かに噛み締めながら。
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