インド洋カッパ漁船
マグロ漁船と聞くと、過酷、長期、一進一退の命がけ——そんなイメージを抱く人が多いだろう。
では、「カッパ漁船」についてはどうだろうか?
カッパというと、日本の川や沼、池にひっそりと生息している妖怪だと考えている人も多いと思う。
だが、それは昔の話だ。日本の護岸工事によって住処を追われた彼らは、黒潮に乗って南下し、今は海——特にインド洋に大量生息しているのだ。
「ようこそ、第十八吉光丸へ!」
焼けた皮膚に白髪を混ぜた船長が、塩けたっぷりの笑顔で私の履歴書をひらひらと揺らした。
私の名前は中田ミユキ、30代の女性だ。
実家の小さな工房で「ヒト型カヌレ」や「ヒト型カステラ」を開発して売り出してみたのだが……悲しいかな結果は鳴かず飛ばず。あっという間に客足は途絶え、残ったのは甘い匂いと、500万円という目玉が飛び出るような額の借金だけだった。
「返済期日」の赤文字に追いつめられ、求人サイトの隅で見つけた《未経験歓迎・月給200万円以上・学歴年齢不問(雑務および給仕)》という怪しすぎる募集に飛びついた。詳しい仕事内容すらロクに確認せずに。
——その選択の重さを知るのに、時間はかからなかった。
カッパ漁船の甲板は、文字通りの地獄絵図だった。
インド洋に棲む『マハラジャ・カッパ』は体長2メートルを超える個体も多く、海から引き揚げられた瞬間、生捕りにされまいと太い腕を振り回して船員たちを攻撃し、そのまま海へ引きずり込もうとするのだ。
そんな過酷な日常の中、嵐が過ぎ去ったある夜の甲板で、船長がぽつりと漏らした。
「ミユキちゃん。俺さ、この航海を最後に船を降りるんだ。もう体もボロボロだしな。実家の方で、余生はゆっくり暮らすよ」
「船長が引退ですか? 寂しくなりますね」
「お前さんの500万の借金もこの航海で全部チャラだ。お互い、無事に陸に上がったら新しい人生だな」
船長は眩しそうに夜の海を見つめ、優しく笑っていた。
——悲劇が起きたのは、その翌日のことだった。
「上がったぞ! 網を巻けーっ!」
甲板に引き揚げられたのは、体長160センチほどのカッパだった。インド洋の個体としては小柄で、動きもどこか弱々しい。
「なんだ、小ぶりだな。これなら楽勝だ」
ベテランの船長が、ほんの一瞬だけ見せた「油断」だった。
次の瞬間、弱っていたはずのカッパの目がギラリと光った。巨体が信じられない速度で跳ね起き、船長の腰にガッシリと太い腕を絡めついたのだ。
「しまっ——!」
船長の叫び声も虚しく、二つの影は絡み合ったまま、勢いよく船縁を越えて海へと落ちた。
ドボンッ!と巨大な水柱が上がる。
「船長ーッ!」
私は叫びながら甲板を走り、必死の思いで救命用のロングポールを海面へ突き出した。
「船長! 掴まって! 早く!」
船長が一瞬、海面に顔を出した。ポールを目がけて必死に手を伸ばす。あと数十センチ——手が届く、そう思った瞬間。
ガバッ!と、水中から伸びた緑色の腕が船長の足首を強く掴み、力任せに海中へと引きずり込んだ。
「船長っ! 船長ーーーっ!!」
ポールの先は虚しく空を切り、波間に白い泡が弾けた。
ほんの数秒前まで嵐のように荒れ狂っていた海面は、嘘のように静まり返り、ただ深い紺碧の海が広がっているだけだった。船長が浮き上がってくることは、二度となかった。
一度の航海で高級車が買えるほどの高収入。
だが、その眩しい金額の裏には、文字通り命を丸ごと差し出すリスクが潜んでいる。
船長を失った第十八吉光丸は、重苦しい沈黙に包まれたまま、静かに日本への帰路についた。
口座に振り込まれた破格の報酬と、一瞬で消え去った500万円の借金を引き換えに、
私が手にしたのは二度と消えない海の冷たさと、あの静かすぎる海面の記憶だった。
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