第三章 失敗の夜と雪華図説
少年の頃の記憶が消えると、再び凍えるような実験室の冷気が戻ってきた。
中谷は装置を調整しながら呟く。
「雪が降るのは、地上付近の温度が三度以下。雪ができるのは上空千五百メートル以上、八百五十ミリバール以下……」
調整が終わり、孫野がスイッチを入れる。
機械の中で、冷気が渦を巻いていった。
だが、結果は同じだった。中谷と孫野が中を覗いてみても、霜が積もるだけだった。
「だめか」
「霜ですね」
中谷はくしゃみをした。
「先生、今日はそろそろ」
孫野が伸び始めたヒゲに霜を散らした顔で言った。
「そうだな。風邪をひいちゃ話にならん」
中谷は、低温実験室の重い扉を開けた。孫野もそそくさとその後に続いた。
◇ ◇ ◇
二人は研究室に戻り、薪ストーブの前で湯気の立つそばをすすった。
「ふう、実験のあとはこれに限る」
「先生、アメリカみたいに、装置の中だけ低温にして、実験室を室温にできないのですか?」
孫野が音を立ててそばをすすりこみ、口の中にそばを残したまま訊ねた。
「そんな気の利いた実験室にする金がどこにある。軍から金を引き出すのだって苦労したんだぞ」
中谷が苦笑しながら応えた。
「そういえば、よく軍が金を出してくれましたね」
「飛行機を飛ばすのに必要だって説得したんだ。雪の結晶を見れば、上空の様子がわかるからな」
孫野が感心した顔でそばをすするのをやめた。
「……なるほど……それは思いつきもしませんでした」
中谷はそばを食べ終わると、ドンブリを机の上に置き、引き出しから一冊の古い和綴じ本を取り出した。
「この本を参考にしたのさ」
和綴じ本の表紙には「雪華図説」と書かれている。
「ずいぶん古い本ですね」
「江戸時代の本だからな。古河藩のお殿様、土井利位侯が書かれたものだ」
孫野が雪華図説の頁をめくる。
「おお、こんなにたくさんの雪の結晶が……」
「土井侯は、ただスケッチしただけではないぞ。空の温みと湿り気、今の言葉で言うなら気温と湿度だな。それによって雪の結晶の形が変わると述べている」
孫野がページをめくる音を聞きながら、中谷は薪ストーブから放射される赤外線の心地よい誘惑に誘われ、徐々に睡魔に取り憑かれてきていた。
「その土井侯の研究があったから、軍を説得できたのさ。これを人工的に作れれば、飛行機を飛ばす前に飛行に適した空かどうか判断できると言ってな……」
中谷の瞼は徐々に重くなり、やがてゆっくりと中谷は身体を長椅子に横たえていった。
中谷の意識は、快いまどろみに落ちていった。




