第一楽章5節
「ねぇ、ママ…。」
微睡みの中の旋律。
それは、メルとレーヌの紡ぐ詩。
朽ちようとも歩む、勇ましい者への讃美歌。
「魔王様、私は、貴女の母ではありません。」
「じゃあ、ママは、どこに行ったの。」
「パパと一緒に、遠くに向かわれました。」
「どうして。私も行きたい。」
「悪い人族に、………食べられたのです。」
「私も、食べられちゃうのかな。」
「私が必ずお守りいたします。」
「貴女も、貴女の大切なものも。」
静かな吐息を奏でるメルの頬に、指先を添える。
その温もりが、私を奮い立たせた。
「行ってくるね。」
その安らかな微笑みを、失わない様に。
私は、静かに立ち上がる。
静寂に、鼓動だけが響く。
月明かりは、雲を貫き、朧げに道を揺らした。
「待っているわ。」
耳を撫でる風が、メルの声に聞こえた。
子供達が残された集落。
そこに香る魔力の残穢。
私は、その後を手繰り寄せる。
それを拒む旋律。
その威圧が、私の足を重くする。
私は、命にしがみついている。
だが、それは、私の想いを凌駕する事はない。
その想いこそが、私の生きるという事なのだ。
その空洞は、漆黒を彩る。
中に潜む魔力は、何一つ隠そうとしない。
王であると誇示する様な旋律が、私の体を軋ませる。
私は、聖剣を握りしめた。
「我が友よ…。」
生きて還る。
私には、意思がある。
私には、還る場所がある。
私には、待つ者がある。
私には、約束がある。
私には、メルが居る。
足取りは軽くはない。
だが、纏わりつく楔は消えている。
それでも、のしかかる魔力が、身を貫く。
確かに、この魔力に覚えはない。
だが、この旋律は、聞き覚えがある。
「リリ…ブランシェ…。」
触れるものを抉る爪、金剛石ですら噛み砕く牙、刃を通さぬ肉、王の威厳に輝く毛並み、そして、それを包む翼。
その翼が開かれた時、かつての人間は魅了され、それは詩となり、やがて信仰となった。
「なぜ、母の名を知っている。」
ゆっくりと顕れる瞳は、金色の煌めきを彩る。
「そうか…、彼女は、あれほどの病に蝕まれながらも、命を紡いでいたのだな…。」
唯一、守ることのできた魔獣との対峙。
その記憶が、心を鮮明に描く。
「知った口を聞くな、人間よ。その母を奪ったのは、お前たちだ。」
「リリは…亡くなったのか…。」
信じたくない疑問が、事実となって私の口から零れ落ちる。
「違う。命を尊ぶ妾の母は、お前たちのくだらぬ名誉の刃に穢されたのだ。」
その言葉を紡ぎ終えるより先に、空間が切り裂かれる。
その気配に気づいていなければ、私は今、旅路を終えていただろう。
「すまない…。」
私は、彼女の目を見据え、思いのままに吐露する。
「ならば、なぜ避けた。」
冷たい視線が突き刺さる。
「私は、まだ…死ぬわけにはいかぬのだ…。」
彼女の掠れた笑い声が薄暗い壁に反響する。
「お前がすべき事は、贖罪であって、赦しを得る事ではない。」
再び、爪が空を切る。
私は、思わず剣を抜いてしまった。
「これを止めるのか。罪に抗おうというのだな。」
刃から伝わる圧倒的な差に、身が千切れる感覚を噛み締める。
「ただ、謝罪を伝えたい…。」
私は、剣を引いた。
「戯言を。他の人間と同じ様に、素直に命を乞うがいい。」
震える声、それが私の心を揺らす。
それを噛み締めるより先に、再び、爪が舞う。
「妾が、全て切り刻んでやろう。」
私の腕を深く抉る爪。
鮮やか赤が、薄暗闇に彩られる。
この痛みは、彼女が与えられた痛み。
いや、これ以上に、彼女は…。
「本当に…、すまない…。」
頬を伝う雫が、赤を消してゆく。
「私にできることを全て賭して、償いたい…。」
骨が軋む。
だが、それより深く爪が進む事はなかった。
「なぜ、剣ではなく腕で受けた。」
「あなたの痛みを、少しでも知りたかった…。」
こんなものではないと、知りながらも…。
「お前は、何を持つ…。」
「私は、…何も持たない。」
ただ与えられているだけだ。
彼女の黄金の瞳が僅かに揺らぐ
「人間よ、名を名乗れ。」
私は、彼女の目を見据える。
そこには、もう揺らぎはない。
「テラ…、人族に生まれた、元勇者だ…。」
刹那の静寂、だが、瞳は私を捕らえている。
「お前たちは、未だ、勇者の加護などという滑稽な呪いに縋っているのか。」
縋る事に、何も疑問を抱いてこなかった。
私も、世界も…。
メルに会うまでは…。
「聖剣を墓標に立てたとき、共に捨てた…。」
それが、枷にしかならないことを、私は知ってしまったから。
「そうであろうな。お前には、何も残っていない。」
そんな事は、わかっている。
「だが、この足が止まらぬのだ、この手が止まらぬのだ。この心が止まらぬのだ。私の中で、今も燻り続けているのだ。」
薄暗闇に、ただ一雫だけが、舞う。
「愚かな…、傀儡に成り果てたいのか。」
その雫が、洞窟を揺らす。
「それでも、私は守りたい。」
波紋が、二つの想いを包む様に広がった。
「もうよい。人間の都合など、妾の知るところではない。」
それは、刹那の旋律を齎す。
「虚無の器よ、妾の呪いで満たしてやろう。」
咆哮が、その全てを切り裂く。
牙の閃光が私を捕え、開かれた口が視界を闇へと包もうと迫る。
私の胸に光る、小さな純白。
そこに咲くのは、一輪の黄色いアルストロメリア。
それを包む様に、白い薔薇が咲き乱れる。
世界が、その花びらに覆われた。




