第六楽章2節
チユには、その違いがわからなかった。
それでも、誰かを助けられる力が成長した。
そう認めてもらえたことが、壊れかけたチユの心を繋ぎ止めた。
私は、誰かの力になれる。
そう確信できた刹那、チユの瞳は幾つもの雫で滲んだ。
その嗚咽は、失い続けた大切な宝物を抱くように、温かく、そして柔らかく咲き続けた。
「ごめんなさい。あまり時間をかけてはいけませんね。そろそろ、行きます。」
チユは、余韻に引かれる意識を奮い起こし、立ち上がった。
ヴィオラとジェルベラ、そしてモーヴに手を振り、隠し通路へと駆け出した。
その小さな手に宿る大いなる光は、触れる者を、治し、癒す。
傷は塞ぎ、赤いせせらぎが止まり、苦痛が解けていく。
それは、失ったものが戻らずとも、再び歩む力を漲らせた。
だが、それは、治癒魔法の力だけに寄るものではない。
共に掛ける言葉、その音色、その彩り、その温もり、それらを紡ぐ慈愛が、触れられた者の心を震わせた。
最早、チユをチユと呼ぶ者は居ない。
その名に冠された、たった一つの言葉。
それは、チユの歩むべき旅路を示した瞬間でもあった。
いつか、この物語が幕を下ろす頃、歩み始める小さな足跡を、静かに詩うように。
「聖女様…。」
駆けていくチユの背を見つめ、その身に鉄を包む男達が囁いた、真実の言葉。
いつか、その小さな手が、世界を塗り替える事を予見するかのように。
無垢なる音色は、旋律へと羽ばたいた。
「負けてられんぞ。」
ジェルベラは、雄叫びを奏でながら、剣を掲げる。
「お前が振るう剣に、勝てる者など居るのか…。」
ヴィオラは、ため息を彩る。
「何を言うか、目の前に居るではないか。好敵手ヴィオラよ。」
「そうだな、訂正しよう。私以外では、居ないな。」
ヴィオラが目を伏せ、笑みを零す。
「これが終わったら、決闘だ。猛炎の姫よ。」
ジェルベラが、鋭い視線をヴィオラに突き刺した。
「自分で言い出したくせに…。」
ヴィオラは、再びため息を彩った。
「お二人は、仲良しなんですね。」
その彩りに、固くなっていたモーヴから、微笑みが芽生えた。
「勿論だ。好敵手だからな。」
「仲良くないわよ…。」
だが、二人の返答が重なることは、なかった。
強固たる盾、勇猛たる剣、静寂たる魔法。
それは、全てを覆そうと歩み出す。
その中に1人、砦の変わり果てた姿に震える者が居た。
花の国の剣が、シャルドン親衛隊を名乗るより以前、彼は既に守りの要として触れられていた。
その巨躯を以て立てば、何人も通すことはない。
彼の名は、アブリコ。
剣よりも針を扱う事に長けた、穏やかなる猛者。
彼が見つめるのは、崩壊した小屋。
そこは、テラと共に、メルへの誕生日の贈り物を作った場所。
ただの建物ではない。
テラがメルを想い、慣れない手で必死に鞄を紡いだ、慈愛の聖地。
それを、無惨にも破壊された。
震える拳を握り締め、赤いせせらぎが指を這う。
踵を返し、辿る足音は、静寂の轟音を奏でる。
その先にあるのは、花の庭園。
砦を落としにきたアブリコ達を迎え入れ、メルが茶でもてなしてくれた、安息の聖地。
そこに彩られていた旋律。
それは、花々が燃え、テーブルが潰れ、茶器が砕け散る。
アブリコは、穏やかな騎士だった。
シャルドンが唯一、剣を振るえずとも許を認めた男。
その咆哮が、空を劈いた。
「アブリコ、白妙だ。」
彼と組む漆黒の布が、荒ぐる音色で危機を伝える。
だが、アブリコは動こうとしない。
ただ、抑えきれぬ感情に震えている。
やがて、彼に触れようとした刃は、その眼前で止まった。
砕け散る白妙の剣。
それを握る手に、赤い花が滲む。
「いくつもの聖地を破壊したお前達に、同じ痛みを与えてやる。」
アブリコの静かな音色が、花の砦に爆ぜた。
それは、大岩の衝突。
その巨躯の重みが、全てを押し潰す。
その身に纏う漆黒の武具が、赤い花を滲ませる事さえ許さない。
盾を以て、剣と成す。
白妙の御旗は、刃の輝きを見る事さえなく、赤い花を咲き乱れさせた。
尽きかけていた花の国の灯火は、炎を芽吹き、黄色い花弁を咲き乱れさせる。
花の砦を貪り続けた白妙の御旗は、その炎に焼かれ、赤い花弁を咲き乱れされる。
空が薄紅藤に触れる頃、暁に見た夢は覆された。
だが、それは、序奏を終えたに過ぎない。
知られざる進軍。
白妙の切り札は、まだ残されている。
そして、それは、一つではない。
「何だ、あれは…。」
粛々と、残る白妙の剣を廃していく騎士の手が止まる。
そこに彩られたのは、揺るがぬ明日の旋律。
もう、花の国の騎士にも、漆黒の布にも、余力など微塵も残されていない。
故に、ただ立ち尽くし、それを眺めるしかなかった。
崩れ落ちる鉄の音は、いくつも連なり、やがて、静寂が花の砦を支配する。
チユは、それでも駆けた。
傷ついた者が居る限り、彼女の足は止まらない。
その詩は、静かに移ろう茜を抱き、一つ一つに寄り添う。
その光が、手放そうとする温もりを、柔らかく繋ぎ止める。
その微笑みが、失いかけた彩りを、穏やかに紡ぎ直す。
それが、そこに集う朽ちかけた灯火に、ひと時の安息を奏でる。
だが、それは脆く、そよぐ風に散っていった。
本当の津波は、これから押し寄せる。
白妙のグランドシンフォニー。
その名を轟かせる第三師団が、地平線を埋め尽くした。




