第六楽章1節
その扉を開く鍵。
それは、救えなかった絶望と、それでも救いたい希望。
そして、故に導いた一つの誓い。
独り、狭い通路を駆ける。
「私にしかできない事を、やり遂げないと…。」
それは、荒野の牙としての覚悟。
残された、最後の彩りを絶やさない為に。
ラシレの想いを、繋ぎ止める為に。
私たちは、ここに生きたよと、刻む為に。
燃え始めた花の砦に、ただ一つの祈りが、響き渡る。
この小さな窓の先は、鉄の雨が降る、赤の花畑。
チユは瞳に映る全てを遮り、深く吐息を奏でた。
瞼に映るのは、自らを鼓舞する詩。
血を分つ家族を失った、呪いの力。
新たに得た家族の笑顔を取り戻した、報いの力。
そして、メルが認め、その可能性を示してくれた、偉大な力。
それは、チユが持つ、たった一つの魔法。
それは、メルの施しにより、かつての名は脱ぎ捨てられた。
それは、誰も到達できなかった唯一の魔法。
それは、個々が持つ自己再生を促進させる治療魔法とは、似て非なるもの。
強制的に、凡ゆる傷を治す、禁断に触れた魔法。
その価値を、チユは、まだ知らない。
チユは、感じていた。
痛みに抱かれた者が集う場所を。
それが何故なのか、チユにはわからなかった。
しかし、そこに行かなくてはという想いだけが、彼女を駆けさせた。
チユは、ゆっくりと瞼を開き、その窓を静かに開ける。
その先に待つのが、救うべきものとは限らない。
白妙の剣が、既に切先を向けているかもしれない。
それでも、チユは、先へと進んだ。
その瞳に映った彩りに、チユは吐瀉物を飲み込む。
「みなさん…。」
辛うじて紡いだ音色は、小さく掠れている。
体が、動かない。
そう感じるより先に、その手が、傷に触れていく。
それは、瞬きに彩られた旋律。
そこに犇めき合っていた苦痛の吐息は、安らぎの音色を奏で始めた。
「チユちゃん、どうしてここに…。」
混濁した意識が、鮮明を掴む頃、彼らが次々に言葉を紡いだ。
「やるべき事を、やりに来ただけです。」
立ち上がる花の国の盾を背に、チユは狭き通路へと戻った。
「メルさんの言う通りに練習してきたら、前よりずっと治療の感覚が鮮明になった…。」
自らの手のひらを見つめ、チユは震えている。
「でも、失ったものは、取り戻せない…。手も、足も、…血も。」
それは、己の未熟さに押し潰された、無垢なる雫。
「ごめんね…。私、頑張るから…。」
その雫を握り締め、チユは再び、通路を駆け出した。
焦げる匂いが、場内にも漂い始める。
その根源を見つけ、一つ一つを静寂へと戻していく。
それは、漆黒の布が織り成す旋律。
その前に立つのは、漆黒の武具を纏いし魂、花の国の剣。
散らばる影の先陣を切るのは、ジェルベラ。
己の灯火など、何も惜しくないと笑う彼は、この旅路の終末地に、彼方に眠るシャルドンを描く。
故に、恐れるものは、何も無い。
「ヴィオラ殿、居れば、そこを示せ。」
その声は、砦中を揺るがすほどの雄叫び。
その声に、集まるのは、白妙の剣。
「お前らに用などないわ、鈍。」
もはや、それは戦いではない。
道を阻む雑草を薙ぎ倒すように、ジェルベラは、その足に地を響かせる。
その力は、これまでのジェルベラが奏でてきたものより、遥かに重い。
それは、消えゆく灯火の最後の彩りを奏でるように、急遽しく燃え盛る。
「ほら、私をシャルドン様の元へ、送ってみよ。」
振り翳す刃は、触れるものを赤い花へと散らせる。
その身を、白妙の剣が裂こうとも、その笑い声は、音色を変えることはない。
「ヴィオラ殿、居場所を示せ。」
再び、花の砦を揺るがす雄叫びが、石造りを穿つ。
ヴィオラは、思い足を引き摺り、そこへと駆けた。
そして、その声に耳を傾ける、もう一つの影。
「人族というのは、阿呆なのか…。暗躍できるはずのものを、態々、己の存在を示すとは…。」
プラタヌが、深いため息を奏で、花の砦に、静寂に紛れた蜘蛛の巣を張り巡らせる。
「…だが、嫌いではない。」
プラタヌの笑みが、その静寂に溶け込んだ。
花の国の剣と漆黒の布が紡ぐ旋律は、もう既に決まっていた。
それは、魔族の国の森に於ける戦いと同じ。
故に、瞬きの音色を交わすだけで通ずる。
これは、人族と魔族が争い続けてきた歴史の中で、奏でられたことない旋律。
故に、白妙の剣は、翻弄されていく。
その剣が意識を惹きつけ、その魔法が肢体を焼く。
それだけで、勝機は充分にあった。
そして、加わるのは、最後の欠片、花の国の盾。
「ヴィオラ、我が好敵手よ。やっと会えたな。」
「友になった覚えはない…。だが、助かった。」
その再会に、微かな笑顔が零れるが、その余韻に浸る時ではない。
光が灯されたとはいえ、数では圧倒的な差を埋めることができずにいた。
「何だ、お前。満身創痍ではないか。だから、萎らしいのか。」
ジェルベラに背を叩かれ、ヴィオラは蹌踉めく。
「少し、眠いだけだ。まだ戦える。」
ヴィオラは、目を伏せ、吐息を漏らしたが、その燃える瞳を、再びジェルベラへと向けた。
「そうだよな。猛炎の姫ヴィオラは、燃え尽きるまで暴れるやつだ。」
ジェルベラも既に、漆黒の武具に赤を咲かせている。
それでも、ここで散る事こそが、騎士の夢と、その瞳は詩っている。
「お前と居ると、嫌でも起こされる。」
ヴィオラは、再び柄を強く握り締めた。
「…ごめんなさい……。」
思わぬ音色に、二人は振り返る。
「チユちゃん、何故ここに…。」
天井に近い小さな穴から顔を出すチユに、ヴィオラは言葉を失った。
そして、ジェルベラと組む漆黒の布もまた、ようやく追いついた先の、思わぬ彩りに、三人を見渡す。
ただ、ジェルベラだけが、戦場に似合わぬ彩りに、笑顔を紡いでいる。
「私にできる事を、やりにきました。」
チユは、傷つく二人に、強く柔らかな魔法を施しながら、震える音色を奏でる。
それは、出過ぎた事であると、自覚しているが故。
それでも、止められなかった自分に、後悔など、してはいない。
「そうか。さすが、荒野の牙の騎士だな。」
ヴィオラが、チユの頭を撫でる。
「だが、姿は見せるな。常に潜み、治療魔法を施して回ってくれ。」
そう微笑みながら、チユを隠し通路へと誘う。
「それと、一つ頼みを聞いてほしい。散らばる花の国の盾に、一人ずつ援軍に付くように伝えてくれ。」
それは、完全なる彩り。
盾で守り、剣で引き付け、魔法で燃やす。
それを為せば、この津波を退くことができる。
手繰り寄せた小さな光を、決して逃すことはしない。
ヴィオラは、チユの手を強く握った。
「さあ、行け。」
「待ってください…。」
それを止めるように紡ぐ、漆黒の布。
チユは立ち止まり、自らに向けられた瞳を見つめる。
「はい。えっと…、貴女は…。」
「モーヴと言います。チユさん…、でしたね。貴女の使う魔法は…。」
チユの心に過ぎる、追憶の反響。
この魔法は、呪い。
チユは、全身の全てを吸い取られるような感覚に、眩暈を起こした。
「この魔法は、治療魔法ではありません。」
静かに紡がれる音色。
「チユさん、貴女の使う魔法は、魔王ですら到達できなかった極地。禁断に触れた、究極の癒し。」
モーヴは、一度は伏せた目を強く開き、その瞳をチユへと向ける。
そこに彩られたのは、その大いなる存在。
「これは…、治癒魔法です。」
家族に別れを告げた日に止まった、チユを磷てきた歯車が、軋む音を奏で、小さく動き出した。




