第一楽章3節
土に残る足跡は、私たちの目指す丘を奏でる。
メルが焼いた黄金の滋味が、木の実と蜜の香りを彩り、風に咲いた。
その彩りに誘われて、鈍く裂いた音色が纒わる。
「蜂…。」
この音色を紡ぐより早く、メルは私の裾を握る。
「魔王様でも、怖いものがあるんだね…。」
メルを腕に寄せ、風を仰ぎ、去るように乞う。
「昔、綺麗な花を見つけたの。」
目を伏せ、奏でる吐息は、淡い灯火に漂う。
「その香りの誘惑に負けて、蜜を分けてもらおうと、花に尋ねたわ…。」
私を見上げる瞳は、静かに波を奏でた。
「でも、先に蜂と約束していたようで、怒らせてしまったのよ…。」
メルの瞳を彩る波は、雫となり、一つの波紋を彩る。
「あんなに走ったのは、あの一度きりよ。」
それを隠すように、伏せる目。
「あの子には、申し訳ないことをしてしまったわ…。」
静かに吐息を漏らすメルが、弦を弾くように顔を上げる。
「この傷、あの時、転んでできた傷なの。」
掻き上げた前髪から覗く、額の隅の微かな傷跡。
その追憶に、私の心に過ぎる彩り。
「レーヌの怒る顔が浮かんでしまったよ…。」
彩られた波紋を打ち消すように、いくつもの雫が零れる。
「ええ…、月が沈むまで怒られたわ…。」
「泣くほど、怖い思い出なんだね…。」
陽光が、その雫を彩り、煌めいている。
だが、その光が彩るのは、それだけではない。
そこには、影も生じる。
私は人族で、ここは魔族の国。
それは、ここを歩むだけで、不安を彩る。
招かれざる者の足跡は、それだけで恐怖を奏でるのだ。
それは、争いを知らぬ者にとっての悪夢。
そして、この地に足を踏み入れた人族は、私だけではない。
背後に感じる気配は、その旋律を隠すことなく忍び寄る。
私は、メルを先に立たせ、身構える。
だが、土を踏む音色は、私たちより随分と短い。
私は、その影に身を任せる事にした。
その刹那、奪い取られたのは小さな袋。
メルの焼いた、甘美に彩られた木の実と蜜の焼き菓子。
「持っていっちゃったわね。」
メルが、穏やかな笑みを奏でる。
遠ざかる小さな影に、私は、大きな焦燥を抱いた。
「追いかけよう。」
「クッキーなら、また焼くわよ。」
「あの子が欲しているのは、恐らく、クッキーじゃない…。」
私は、メルの手に想いを乗せて、駆け出した。
無垢な足跡ほど、その音色は強く残る。
小さな影に気づかれぬよう、その旋律を辿った。
行き着いた先は、荒廃した集落。
僅かに息遣いを感じるが、潰える灯火の揺らめきを彩る。
私は、崖を飛び降りた。
擽る赤鉄の香り、そのせせらぎを染めるのは、奪われた者の叫び。
これは、魔獣によるものではない。
飛び散ったかけらから、魔力も感じない。
それは、私が招いた影。
鼓動が、私の身を切り裂く。
それを吹き飛ばすほどの音色が、果てのない彩りに反響する。
「怪我や病を患っておられる方は居られますか。」
崖を滑り降りながら叫ぶメルの声に、私は現を取り戻した。
少しずつ増え始める視線に、あの子の姿もある。
「魔王様…。」
青年から紡がれた音色が伝播し、集落に潜んでいた息遣いに彩りが芽生え始める。
呼吸さえ奏でられぬほどに乱れながらも、駆け寄るメルに、村人が集まる。
「魔王様、そのお怪我は…。」
メルを囲む中で、一つ前に立つ老人。
メルを包む可憐な布は、いくつも破れ、その純白は赤く彩られている。
その先に隠れるメルの繊細な肌の痛みに、老人は雫を拭う。
「滑り台で転んだだけです…。そんな事より、怪我や病を患っておられる方は…。」
その頬に伝う雫さえ気付かずに、メルは見回す。
「この中で、最も酷い怪我をされているのは、魔王様です…。」
その言葉に、メルに微笑みが彩られる。
「よかったです…。では、どこか土が広がる場所へ案内してください。」
メルの柔らかな音色に、老人は治癒魔法をかけ、問いかける。
「それは勿論ですが、なぜ…。」
「私は、どんな花でも産むことができます。ただ、魔法ですので、空腹は待たせても、栄養は期待できませんが…。」
メルの言葉に、村人たちの声が黄色く彩られた。
先ほどの青年が、メルを案内して行く。
残された私と、老人、そして村人たち。
私は、首を垂れるほか無かった。
「すまない。」
どの様な報復であれ、それを与えられる事が、今の私の至福。
しかし、私に触れたのは温もりであった。
「あなたの事も聞いています、勇者さん。」
その温もりに、私は顔を上げた。
「それに、魔王様が信じておられるなら、貴方はそういう人なのでしょう。」
私のような者にさえ、慈悲を与えてくれるというのか。
メルが紡いだ国というのは、これ程までに美しいものだったのか。
私は立ち上がり、数刻の猶予を乞う。
私にできる事は、数え切れぬほどある。
そう信じてきたからこそ、あの唯一の温もりに辿り着けたのだ。
私は、独り森へ入った。
かつて、呪われた旋律により与えられた旅路。
それが、教えてくれたもの。
長い旅路に於いて、最も我が身を穿つものは、牙ではなく飢え。
故に、狩ることには長けている。
無駄に奪わぬよう、味も毒も覚えている。
それに、私には焼くことしかできなくとも、メルには、それを甘美に変える力がある。
危惧するのは、彼らに巡らせることのできぬ不足。
私は、息を潜め、木々の隙間を駆け巡る。
空が宵の移ろいを彩る頃、私は頂いた数頭の命を抱えて戻った。
それでも足りぬ事は知っていたが、今は、満たす事より凌ぐことを得たい。
集落から、仄かな灯火が見える。
木の実の芳しい香りの中に、メルの生んだ花の果実の甘美が彩られる。
その香りに、初めて、私も飢えた一人であることに気づいた。
だが、それ以上に、駆け寄るメルの音色が、私を包んだ。
「一人で行かないで…。心配で、心が張り裂けそうだったのよ…。」
私を包むメルの温もりが、私の全てを溶かす。
「すまない…。メルも、レーヌと同じことを言うんだね…。」
メルの純白に、薄紅が彩られる。
「確か、レーヌは、怒った後は褒めてくれるんだったよね…。」
私は、赦されたかのような音色に堕ち、思わず微笑んでいた。
「テラ、あなたは、何より素敵だわ…。」
遠くに感じる眼差しは、私たちに温もりを運んでくれる。
ただ、二つの鼓動が絡み合う世界に、それが反響する術はなかった。
空に色彩が響くように賑やかな宴を見たのは、霞むほどの遠い記憶。
私は、それを見るだけで、飢えが満たされていく。
配された皿に盛り付けた、メルの生んだ果実。
それを頬張る瞬間こそが、何よりの至福に感じる。
それは、隣にメルが居るから。
もう私は、その事に気づいていた。
「花を咲かせる魔法の生む果実では、栄養を満たさないわよ…。」
メルが、崩れそうな彩りの瞳で、覗き込む。
「メルこそ、肉や木の実を食べないの?」
私は、微笑みながら囁く。
「私は、この果実が好きだから、いいの。」
目を伏せるメルの頬は、静かな旋律を奏でる灯火に照らされていた。
集落が微睡を彩り始める頃、老人が私を訪ねてきた。
メルを起こさない様に、そっと腕を離し、立ち上がる。
オルタンシア、初めて名乗ってくれた、老人の名。
それを噛み締めながら、後を付いて行った。
「この村は、鍛治で生活を営んでいました。」
崩れた家屋は、小さくとも荘厳であった事を物語る。
「あの日、人族の鉄が、全てを奪いました。」
私は、震える手を握り締め、オルタンシアの瞳に想いを注ぐ。
「残されたのは、この小さなナイフと、一振りの剣だけです。」
私は、差し出された柄に、優しく触れた。
そこに感じる、荒くも細やかな息遣い、そして希望を紡ぐ旋律が、確かに宿っている。
「猛々しくも、繊細な刀身…、まるで剣聖が、その名を冠した瞬間の彩りに溢れている…。」
私は、手のひらに感じる旋律に載せ、吐息に音色を紡いだ。
「この様な宝剣を守り抜かれた事に、尊敬を禁じ得ません…。」
オルタンシアは、その剣を胸に抱き、雫に濡らす。
「テラ殿、これはその様な素晴らしいものではございません。」
オルタンシアの小さなため息が、静寂を彩る。
「我が孫が、初めて打った一振りです。」
土を濡らす無数の雫が、空を彩る星に応える。
「拙い鈍だと、あの兵士たちに投げ捨てられた、価値無き剣…、ですが、そのおかげで、孫の遺した宝を奪われずに済みました。」
オルタンシアの悲哀に満ちた旋律に、私は、思わず言葉を紡いでしまった。
「それは、その兵士に、その宝剣を扱えるほどの技量がないからに過ぎません。」
伏せられたオルタンシアの瞳が、私を捕える。
「そして、このナイフは、孫の最後の一振り。見向きもされませんでしたが、私の懐に隠していました。」
掲げられた、二つの柄。
「テラ殿、見たところ、貴方は丸腰の様ですね…。」
私は、その続きを受け止める覚悟が、まだできていない。
「どうか、孫の遺した魂に、貴方の手で花を咲かせてください…。」
畏れ多い。
この穢れた手の私で、その宝剣を握れというのか…。
その赦しを与えると言うのか…。
私は、掲げられた手に跪き、言葉を見失う。
布の擦れる音色。
私の腰に感じる重み。
それは、今まで携えた何よりも尊い旋律。
「今の私にできる、最大の返礼です。どうか、テラ殿の大切なものを守る為に、振るってください。」
私は、真の聖剣を手にしたのだ。




