第二楽章6節
ヴィオラの拠点は、ここから近い。
息遣いの形跡を感じさせぬ佇まいは、私ですら気付かぬほどだった。
「ここは、メルと通った道…。全く気づかなかったよ。」
木々に溶け込む気配が、僅かに揺れる。
「今は、日毎に場所を変えているので、尚更でしょう。私たちも、追われる身でもあります。」
ヴィオラの紡ぐ吐息が、その詩を覆すような旋律を、高々と奏でる。
「それもそうだね。アコニは、何処にいるのかな。」
彼は、特別に気配を消すのが上手い。
故に、偵察や潜入を主に担っていた。
そして、精鋭部隊を、特殊な組織に育て上げたのも、彼だ。
「夫なら、もう目の前に。」
木陰に揺れる旋律。
小動物の息遣いに思えたそれは、私の幼馴染の面影だった。
「久しぶりだね。」
私は、荷を下ろすような微笑みを、静かに奏でた。
「テラ、会いたかったよ。」
懐かしい音色が、私の耳を撫でた。
私は、腕を広げ、彼との抱擁に身を預ける。
いや、預けようとした。
「この、裏切り者め。」
彼の背を包む私の腕と、私の首を絞める彼の手。
「何故、僕たちを置いて行った。僕が騎士団に入った理由を忘れたのか。」
彼は、本気だ。
いつだって、何をする時だって、常に、本気だ。
「ご、…ごめん…ね。」
葉を回せて駆け寄ったメルが、アコニを引き離そうと押している。
だが、揺らぎすら与えることなどできない。
「よし、許そう。そもそも、僕は反対だったんだ。テラが勇者だなんて、向いているはずもない。君は、川のせせらぎに身を委ねながら、拾った果実でも齧っている方が似合っている。」
彼の手が、ようやく私の背を包んだ。
その手が、私の背を離れようとも、その温もりは、私を包む。
「あれは、拾ったのではないよ。果実園で、こっそり貰ってきたんだ。」
私は、メルを撫でながら、アコニを見つめる。
「わかっているよ。だから、たんこぶが二つもできたんだ。」
遥か遠い記憶が、淡い灯火となって、私たちに咲いた。
私たちは、魔王城の最後を聞いた。
それは、レーヌが紡いでくれた、私たちへの想い。
崩れゆく瓦礫、そこに至る刹那を知ることはない。
だが、最後の玉座の前に立つレーヌを知るのは、もう彼らだけなのだ。
「あなたたちは、留まってくれるのですね。そう囁くレーヌさんの言葉は、温かい氷の様でした。」
その声を、…レーヌの声を、もう一度、聞きたい。
それは、私以上に、メルが抱く願い。
「私たちには、戦意などありませんでしたが、それでも、彼女の前に立つのは、大勢の敵意の行進。」
ヴィオラの瞳に映るのは、あの日の彩り。
揺るがぬ意志を思い出した、あの瞬間の温もり。
「レーヌさんは、静かに、そして、穏やかに、私たちの帰り道を示してくれました。」
崩れゆく石造りを背に、ヴィオラは、誓ったのだ。
その想いと、レーヌの示した道が、私たちの元へと繋いでくれた。
メルの奏でる雫が、その旋律を空へ染めていく。
心の奥で反響し続けていた慟哭が、その殻を塗って溢れ出す。
私は、その繊細な温もりを、ただ抱きしめることしかできなかった。
何よりも深く、何よりも蒼い、波の届かぬ底で。
「花の丘には、来ないのか。」
理由も、アコニたちの気持ちも、分かる。
今は、まだ、その時ではない。
剣を持ち込めば、それは支配になりかねない。
そうでなくても、私の家族は、剣によって奪われた子たちなのだ。
彼らが近くに居ることで、平穏は崩れるだろう。
だけど、この様な生活を続けさせるわけにはいかない。
「花の丘を挟んで、集落を作らないか。」
そこが、私の家族に入り込まず、かつ交流を保てる臨界。
「わかりました。テラ様の家族を守れる防壁となるべく、強固な石造りを築きましょう。」
ヴィオラの瞳が、森林を焼き尽くす勢いを奏でている。
「いや…、花の丘が、どちらの国からも触れられずにいたのは、何も無い地だったからだ。そこに城砦が建てば、侵攻の対象になる。」
私は、せせらぎを紡ぐように、ヴィオラを見つめた。
「そういえば、テラは知らなかったね。今、どちらの国も互いを落とそうと犇めき合っている。その波が、ここに至らないとは限らない。」
アコニは、いつも静かに彩りを観察する。
私よりずっと、勇者の素質がある男だ。
だが…
「波が至るかもしれないのと、波を呼ぶのとでは、あまりに違う。」
私は、争いたいのではない。
守りたいのだ。
「テラ様、心配は無用です。貴方も貴方の大切なものも、壊そうというものは、私が蹴散らしますよ。」
その言葉は、必ず果たされるだろう。
「そうではないんだ…。私は、花の丘に鉄の味を彩りたくない。」
私は、目を伏せてしまった。
「テラ、僕は君の夢見る横顔が好きだった。それは、ずっと変わらない。でも、今は、突き付けられているものに、触れなければならない。」
アコニが、私の手を握る。
「波が到達してからでは、遅いんだ。僕たちは、防波堤を作ろうとしているだけだよ。」
いつだって、そうだ。
果樹園で、果実をもらいに行くと、いつも、最後まで僕を止めようとしてくれた。
私の大切な、思い出。
勇者としての謁見に向かう朝、喝采の中で、君だけが、僕を引き留めようとしてくれた。
私の大切な、友。
「そうだね。アコニ、君は、いつも正しい。」
私は、アコニとヴィオラの手を握る。
「あの…、もし、お城を作るなら、そこにお花を咲かせに行ってもいいですか…。花園を作りたくて…。」
メルの小さな音色が、張りつめた旋律に、波紋を彩る。
「もちろんだよ。」
初めて、3人の意見が一致した。
精鋭隊は、剣だけでなく、建築にも長けている。
彼らは、その身だけを頼りに戦場に赴き、いくつもの拠点を築いてきた。
アコニの言う防波堤は、鉄の波を止める強固な城塞。
私が思うよりずっと強固に、しかし、慎ましく彩られていく。
花の丘を彩るアルストロメリアが、その影を優しく包んだ。
それにより、私の家族は、平穏のままに、今日を彩ることができる。
メルと私は、その二つの家を、毎日、行き来した。
好きなところへ行く魔法を使わなかったのは、その道が、二人の時間だったから。
少しずつ大きくなるメルのお腹を撫で、黄色の色彩に身を委ねる。
「花園も、もう完成間近だね。」
私は、メルの横顔を見つめながら囁いた。
「うん。私たちの家族みんなで、あそこでお茶をするのが、私の夢なの。」
メルの微笑みが、そよぐ花に優しく揺れた。




