第九楽章6節
「あのね、このお花の蜜が、一番美味しいのよ。」
大切な人の声。
「それでね、たくさん集まった果実にかけて…、ほら、ご馳走の出来上がりだよ。」
この日の事も、鮮明に覚えている。
「早く持って帰ろう。パパもママも、きっと喜ぶの。」
遠い昔、チユとルナが過ごした森の色彩。
「お姉ちゃん、少しだけ味見してもいいかな?」
輝く瞳が、花へと手を伸ばす。
「もちろんよ。驚かないでね。世界一、美味しいもの。」
誇らしげな音色に触れながら、チユは蜜を舐めた。
「酸っぱい…。」
あの日、舐めたものは一体何だったのだろうか。
その答えを、終ぞ知ることはなかった。
覚えているのは、慌てふためくルナの旋律と、隣に咲いた甘い蜜の花。
揺れる木漏れ日が遠くに消えてゆく。
夢の終わりの静寂の詩。
それを突き刺すように弾ける、口の痺れ。
「酸っぱい…。」
思い出したくなかった味に、チユは目を覚ました。
「すまない。本当は寝かせてやりたかったが、いつ魔獣が襲ってくるかもわからない。」
瞼を開いた先に彩られたのは,ロスマーリンの顔と、いつか見た酸っぱい蜜の花。
「この花の蜜は、気づけ薬に用いられる物だ。害はない。そこは、安心してくれ。」
ロスマーリンに抱えられ、馬へと乗せられる。
「起きたばかりで申し訳ないが…。万が一の時は、馬に身を任せて逃げるんだ。だから、振り落とされないように、気だけは保っていてくれ。」
チユは、ゆっくりと辺りを見渡す。
崩された積み藁の傍で身を寄せ合う子供たちと、彼らを守るように立つジニア。
その隣では、三人の子供が眠っている。
「間に合わなかったのですね…。」
あの子たちは、もう目覚めることはない。
灯火に刻まれた魔法が、その旋律を否応無しに掴み取る。
チユにとって、それは、魔力が枯渇していることよりも苦しかった。
「………間に合ったからこそ、彼らの命は繋がれた。チユ、君がいてくれたから成せたことだ。」
チユを見る事もなく、その背中に想いを乗せて、震える声を響かせる。
ロスマーリンにとって、それが精一杯であった。
「バーベナが今、調査隊の救援を呼びに行っている。生き延びた子達を保護し、付近の村へ避難させる。暫くは、ここで待機することになる。」
口早に紡がれていく言葉。
悲哀にも似た焦燥の音色が、チユの鼓動を揺り動かす。
「もし、今、魔獣が襲ってきたら…。」
チユは、自らに問うように囁いた。
「その時は、抗う他ない。だが、守れる灯火には、限りがある。」
故に、見捨てなければならない灯火がある。
「あの子たちは………。」
見失った言葉を探すように、ロスマーリンは大地を睨みつけた。
「あの子たちを、まずは守りましょう。」
見つからない言葉を、代わりに拾い集めるように、チユは力強く紡いだ。
「私は、魔力が枯渇していても、逃げることだけは自信があります。」
穏やかな嘘が、揺れる陽光に溶けていく。
その光に目を細め、チユは思わず目を逸らした。
その背に伸びるのは、冷たい影。
だが、チユは振り返らない。
「その時は、ロスマーリンさん…、みんなを守ってください。」
ゆっくりと馬を降りるチユ。
「もしもの時のために、馬に乗せてくれて、ありがとうございます。」
チユは、静寂の旋律に、微笑みを紡ぐ。
「少しだけ、子供たちと話します。」
揺れる足跡が、自らの弱さを詩う。
「安心してください。辺りに魔力は感じません。魔獣は遠くに居るのでしょう。」
それは、確信故の言葉ではない。
ただ、想いに反して奏でられる足の重さを悟られたくはなかった。
だからこそ、チユは、その微笑みを途切れさせることはない。
「もう、魔獣が戻ってこない理由を探しましょう。」
それは、ただの願い。
せめて、調査隊の援助が到達するまでの平穏。
それだけを想い、子供達へ向ける声に、祈りを捧げた。
揺れる木漏れ日が、雫を滲ませる。
その微かな温もりが、想いに爆ぜ、地に沈んでいく。
ただ、それだけを見つめるように、子供たちは身を寄せ合っていた。
チユは、理解している。
理解していると、深く強く言い聞かせている。
ただただ、自らを奮い立たせる為に。
子供たちが見たのは、共に生きた村の民が消えていく様。
最後まで身を寄せ合った友が、醒めぬ夢へと溺れていく様。
その旋律を前に、短音さえも紡げぬままに、時に流された無力感と罪悪感。
その深い傷は、治癒魔法では癒せない。
例え、どれ程の魔力を持っていたとしても。
禁呪に最も近い魔法でありながら、チユの救いたい大切なものは、治せない。
ごめんね。
言葉にはできない。
もし、それを紡いでしまったら、子供たちに、耐え難き全てを突きつけることになってしまう。
それでも、伝えなければならない事がある。
どうしても、聞かなければならない事がある。
ただ、何を言えばいいのか。
何から伝えればいいのか。
聞く事で、子供たちの心がどうなってしまうのか。
答えの出ない思考の渦が、チユの視界を歪ませる。
思わず零れ落ちる雫。
木漏れ日に揺れる煌めきが、何故だか苦しい。
意志だけが、足を進ませ、チユは子供たちの前に立った。
だが、言葉を紡ぐ事ができない。
その吐息さえ、吐き方を思い出せない。
チユが抱く苦しみよりも、子供たちが背負わされた苦しみの方が、重い。
それは、比べるまでもないほどの深淵。
それを想うだけで、チユは崩れ落ちそうになっていた。
だが、そこに手を差し伸べたのは、子供たちであった。
「お姉ちゃん、助けてくれて、ありがとう。」
子供たちの柔らかな微笑みに、チユの想いが溢れ出た。
澄み渡る空の温もりに、泣き喚く声だけが、優しく反響していく。
白く霞む淡い月が、陽光の隅で、静かに見守っていた。




