第九楽章5節
蹄の音色が、軽快に砂を踊らせる。
揺れる桃色の髪が、優しい香りを振り撒く。
小さな手は、巨躯を守る鋼の煌めきを包み込んでいる。
その温もりが、穏やかに心へと溶け込んでいく。
故に、ロスマーリンは、微笑みの中で手綱を握っていた。
それを見つめるのは、二頭の馬に揺られる屈強な騎士。
「恋だな…。」
「何故、わかる。」
「ロスマーリンの、あんな笑顔を見た事があるか?」
「あるぞ。」
「何だと…。それは、いつだ。」
「彼は、部屋にたくさんのぬいぐるみを隠し持っている。お気に入りは、恐らく、桃色のうさぎだ。何度か頭を撫でながら、あの笑顔を溢していた。」
「そうなのか………。」
「チユさんは、あのうさぎのぬいぐるみに、どこか似ている。そういう事だろう。」
「いや、俺が恋だと感じたのは、そんな事ではない。考えてもみろ。可憐でありながら意志が強く、我が身の危険を顧みず手を差し伸べた。これは、惚れても仕方あるまい。」
「まるで、お前が恋をしているみたいだな…。」
「な、何を言っている。………絶対に、チユさんに言うなよ。」
背中に感じる騒がしい旋律。
「聞こえているよ…。」
チユは、振り向けないままに、頬に籠る熱を溜め息へと逃した。
「……お姉さんの居場所は、分かりそうなのか?」
当然のように聞き耳を立てていたロスマーリンは、誤魔化すようにチユに声をかける。
「いえ…。人族の馬車に乗せられて、白妙の方角へと向かったと聞いただけなのです。攫われたように見えたと…。」
向かった先が白妙なのか、そもそも、本当に人族によるのかさえ、わからない。
ただ、チユにとって、それは、唯一の手掛かり。
霞の中に消えそうなほどに揺らぐ道標、チユには、まだ、それしかない。
「もしかしたら、魔族かもしれません…。」
だからこそ、その一つから得られる凡ゆる可能性を捨てるわけにはいかない。
「でも、探しに行く価値はあると想ったのです。」
チユは、縋るように、地平を見つめた。
「白妙の都には、何人もの富豪がいる。中には表に出せないようなことをしている者も多い…。」
背に伝わる雫を包むように、ロスマーリンは言葉を紡ぐ。
「白妙の都は崩壊したが、ほとんどの富豪は新都へと移り住んだ。だが行方不明となっている一人、リュパンは、最も後ろ暗い男だ…。彼の手によるものなのかは、わからない。全く違う答えがあるのかもしれない。だが、私も探ってみよう。」
ロスマーリンの秘めたる想い。
それは、調査隊の騎士たちを救ってもらったからだけではない。
チユに笑顔でいてもらいたい。
この手で、チユを笑顔にしたい。
その願いが、揺るがぬ意志を芽生えさせた。
背後に舞う賑やかな音色。
それが途絶えたのは、崩れた村が見えた頃。
調査隊が魔獣と相対した場所。
そこには灯火などあるはずがない。
そう確信させるほどに、全てが崩れ落ちていた。
そして、その魔獣は、今もどこかに潜んでいる。
ロスマーリンは、静かに柄を確認した。
いつ襲われたとしても、チユの逃げ道だけは必ず紡ぐ。
その意志に、手綱を持つ手が強く響いた。
逞しくも、守る為に恐れを手放そうとはしない、誠実な背中。
その旋律に抱かれ、チユは周りを覗き込んだ。
静寂を切り裂くように張り詰められた、無音の糸。
それに触れたら、全てが壊れてしまう気さえした。
だが、チユが見ていたのは、魔獣ではなかった。
「聞こえる…。」
囀りのような、可憐な囁き。
そのチユの音色に、ロスマーリンは馬を止めた。
「魔獣か…?」
声を抑え、辺りを見渡す。
だが、何も感じない。
強張るロスマーリンの背に触れたまま、チユは一つを見つめる。
「誰かが、苦しんでいます…。ちょっと、行ってきます。」
馬を飛び降りるチユ。
それを追うように、ロスマーリンは、叫んだ。
「我々も行く。馬を繋ぐまで待ってくれ。」
この辺りに、魔獣が居ないとは限らない。
何の気配もないとはいえ、それは何もないということにはならない。
急ぎ馬を繋ぎ、ロスマーリンは剣を抜いて駆け出した。
それにカノンするように、ジニアとバーベナも駆ける。
すぐに追いつけるはずだった。
だが、チユの足は、ロスマーリンが見た、どの色彩よりも軽かった。
それは、ただ速いのではない。
凡ゆる障壁を飛び越え、潜り、避けていく。
彼女が過酷な旅路を生き抜いてきたのは、戦えるからではなかった。
きっと、生き延びるという点においては、彼女に肩を並べることのできる者は多くはない。
少なくとも、グランシンフォニー調査隊の中には、居ない。
「す、凄まじいな…。」
ようやく追いつく事ができたのは、チユが、その地に座り込んでいたからだった。
「ごめんなさい。急がないと、間に合わないかもしれないと想ってしまって…。」
振り向くチユの腕で、少女が眠っている。
「いや…、あまりの速さに驚いただけだ…。それより、その子は無事なのか?」
小さく首を振りながら、ロスマーリンはチユを見つめた。
「はい。間に合いました。今は眠っています。」
安堵のため息の中に、チユの微笑みが優しく舞い上がった。
崩れ落ちた家屋、荒れた畑、動物たちが逃げ出した牧場。
小さな村に、営みの跡が傷に嘆いている。
ジニアとバーベナは、その一つ一つを拾い集めるように、耐え凌ぐ息を探した。
ここで魔獣と対峙した時、もう既に灯火を失った器だけが散らばっていた。
まだ手を伸ばせる者を探したが、一人として見つけることはできなかった。
だが、チユは、遠くに潜む声に触れた。
あの時は、限りある時間の中で探すしかなかった。
まだ、見落としているかもしれない。
それは、どれだけ願っても、触れることのできない希望。
そうなる事も、充分に理解している。
それでも、チユが紡いだ架け橋が、二人の足を進ませた。
絶望の色彩の奥で、微かに揺れる光。
崩壊しかけた積み藁の中で身を寄せ合う小さな光。
途絶えそうな灯火を、互いに抱きしめ合う大切な光。
追い求めた、希望の光。
「子供たちが居る。酷い怪我だ。チユさん、助けてくれ。」
バーベナが叫ぶ。
その旋律に、子供たちは小さく反応した。
だが、声を紡げる者は、一人として居ない。
瞼を開く者さえも。
一刻を争う。
バーベナの声を聞いて駆け付けたのは、すぐ近くに居たジニア。
二人は、子供たちを柔らかい草の上に寝かせ、怪我を確認した。
何人かの息は、もう聞こえてこない。
だが、微かにでも、握りしめ続ける灯火が、そこにはある。
見上げる空。
祈るのは、偶像。
縋る想いが、虚空に手を伸ばす。
それを掴み取ったのは、可憐な詩。
「治癒魔法。」
上がる息と共に奏でられた旋律は、淡い光を降らせる。
その刹那、何かが転がる音が響いた。
振り返ったのは、バーベナとジニア。
その先で倒れるチユ。
魔力の枯渇。
薄れゆく意識の中で、チユは、小さく微笑む。
草に眠る子供たちの鼓動を、確かに見つけた。
その安堵が、微睡みへと身を委ねる子守唄となった。




