第九楽章3節
たくさんの小さな雫が、屋根の上で踊っている。
窓を叩く詩が、シンフォニーを紡いでいる。
チユは、その色彩に瞳を煌めかせていた。
部屋から覗く演舞に、心は弾む。
やがて見える虹の下で、水たまりに飛び込む刹那の高揚。
そして、ふわりと漂う香りが、何より好きだった。
「何日か、大雨が続くみたいだ。しばらく泊まるといい。」
外を眺め、微笑むチユに、ヴァンダンジューズが穏やかに声をかける。
「ありがとうございます。でも…。」
振り向いたチユの影が、窓に揺れる。
ここで触れた温もりに、まだ浸っていられる。
その喜びの中に芽生える、一つの不安。
「魔族である私が、長く居ることで、村の方たちは不安になりませんか…?」
不安にならないはずがない。
チユも、人族に家族を奪われた。
人族の手によって、仲間が散っていった。
だから、人族が魔族へ向ける想いも、理解できる。
そして、ここは、人族が築いてきた、人族の村。
「魔族であれ何であれ、見知らぬ者が長く滞在すれば、不安にもなるだろうな。」
ヴァンダンジューズは、柔らかな音色の中に、強く詩う。
ただ、その微笑みは、何一つ変わらない。
「ならば、知ってもらえばいい。」
「知ってもらう…。」
「チユさんが、昨日、私にしてくれたこと。それを、伝えればいい。それだけでも、チユさんのことを少し知ることができる。」
窓の外では、窓を叩く音色が、未だ賑やかな旋律となって舞っている。
「この村のほとんどの者は、戦争の生き残りだ。彼らもまた、深い傷を負っている。どうだ。宿代と想って、誰か一人でも良い、接してはみないか?」
治癒魔法は、一日に何度も紡げるような魔法ではない。
だからこそ、続く大雨が、その旋律を奏でる猶予を与えてくれる。
チユは、微笑みの中で、強く頷いた。
私にできること。
私が役に立てること。
私の家族を壊した魔法が、私を彩る魔法へと変わっていく。
その想いが、チユを抱きしめる。
ヴァンダンジューズの家を訪ねる村の民が笑顔で帰っていく。
その色彩を見つめ、手を振りながら、チユは自らへと微笑んだ。
太陽が歌い、雲が舞う。
指折り数えた月の夢の果てに、星々は、その色彩に触れる。
長く続いた雨は、しばらく起きることはないだろう。
次の暁を見る頃には、この村から続く旅路に、足跡を紡いでいくことができる。
それは、希望であり、そして、もう一つの顔を孕んでいた。
「このまま、この村に住まないか?」
夕食を囲む三つの影が、蝋燭に揺れている。
その温もりを詩うように、ヴァンダンジューズが静かに紡いだ。
「みんな、チユさんを好いている。今日も、子供達と遊んでいただろう。みんな、チユさんを取り合いしているみたいだよ。」
チユにとって、これ以上ない宝物。
手放したくない。
でも…。
「私は…、姉を探しているのです…。ずっと昔に、離れ離れになってしまいました。………私のせいで…。」
俯き、静かに奏でる。
「今、お姉ちゃんが苦しんでいるかもしれなくて…、私、助けたいのです…。」
揺るがない意志が、チユに前を向かせた。
「何より、どうしても会いたいのです。」
失った日も、立ち止まった日々も、温もりに身を委ねる日々も、また歩き出そうと顔を上げた今も、全部、大切な旅路。
「でも、いつか…、お姉ちゃんと、この村に帰ってきます。みんなに会いに、みんなとの今を抱きしめるために…。」
ティーカップから揺れる香りが、三人の心へと深く染み込んでいった。
その日、チユは、コクリコとお茶を楽しんだ。
時計の針が、柔らかく響いている。
それは、もう既に頂を超え、暁を追い始めていた。
「チユちゃん。私には、兄が居たの。」
紅茶の香りが、優しく舞う。
小さなリビングを満たす柔らかな光は、眠る村を優しく灯す。
「ブランノワール戦争が始まる頃、兄は剣を握ったわ。」
もう、随分と昔のことのように感じる。
忘れられない絶望の色彩と、微かに揺れる光の残響。
「この村のみんなが、同じようにしたの。」
チユが手放せなかった光。
手放そうとしなかった光。
「帰ってきたのは、半分も居なかったのよ。」
チユは、それができた。
それをする事を赦された。
でも、そうではない人も居る。
「兄は………、帰ってこなかったの。」
どれだけ手を伸ばしても、もう触れることさえできない。
「どうして、追いかけなかったのかしらね。どうして、探しに行かなかったのかしらね…。」
零れ落ちる雫が、柔らかな旋律を紡ぐ。
「チユちゃん。貴女は、後悔しているかもしれない。」
チユに、想いを託すように。
叶わぬ願いを、祈りに変えて、捧げるように。
「でも、まだ追いかけることはできるわ。」
「はい…。」
「さようならと言うのは、とても寂しいけれど、私は、貴女の背中を押したいの。」
潤う瞳が、チユを彩る。
「だから、いってらっしゃい。」
降り注ぐ星が、窓から二人を包み込んだ。
雨上がりの優しい香り。
澄み渡る青が、旅路を彩っている。
振り返るチユに手を振るのは、村で触れ合った大切な人たち。
ここから、また一歩を踏み出す。
これは、大切な旅路。
でも、ここでの旋律も、掛け替えのない大切な旅路。
溢れ出る宝物を抱きしめながら、チユは、その一歩を奏でた。




