第九楽章2節
木漏れ日が、足跡を柔らかく照らす。
その色彩に、思わず心が弾む。
囀りに共鳴する様に、小さな詩が、唇に溶ける。
触れたのは、瑞々しい花弁。
そっとなぞる蜜を、口へと運ぶ。
優しい甘味が、疲れた足を癒していく。
振り返ると、微笑む少女が立っていた。
「可愛いお花を見つけたの。」
そっと差し出す手には、可憐な花が揺れている。
「くれるの?」
チユは、溢れる笑顔に言葉を紡ぐ。
「うん。だから、また会いにきてね。」
「必ず、帰ってくるよ。たくさんのお土産を持ってくるからね。」
交わす約束が、揺るがぬ意志の糧となっていく。
絡めた指先が、心を繋いでいく。
チユは、見えなくなっていく影を、いつまでも見つめ続けた。
森に広がる小さな草むら。
揺れる光は、太陽に手を伸ばす。
その温もりに抱かれ、チユは静かに腕の装飾を解く。
それは、メルの祈りが込められた糸のブレスレット。
花を咲かせる魔法。
メルの最も得意な魔法であり、メルだけが奏でることのできる禁呪。
その欠片が、このブレスレットには込められていた。
共に居られずとも、いつも祈っている。
その想いが、チユを守ってくれる。
少女から贈られた一輪の花。
その茎に糸を絡ませていく。
それは柔らかく、永遠に咲き誇るように、花弁を揺らした。
旅に出て、初めての贈り物。
それを愛でるように、再び腕に巻く。
まるで、手を繋いだ温もりが蘇るように、花は彩られた。
「可愛い…。」
でも、それよりも、嬉しかった。
チユという存在が、確かに世界に存在している。
そして、そこへと歩んだのは、自らの足であり、意志。
与えられ、奪われてきた足跡の先に、チユは自らの手で、それに触れた。
それが、嬉しかった。
怪我をした見知らぬ少女に、治癒魔法を施す。
その小さな色彩が、腕に彩る花となって還ってきた。
そこに紡がれた想いが、チユにとって、何よりも大きかった。
「お姉ちゃんに話したいこと、また一つ増えちゃった。」
綻ぶ笑顔を上げ、ゆっくりと立ち上がる。
まだ、旅路は始まったばかり。
振り返る小道には、風に踊る落ち葉が、手を振っていた。
「行ってきます。」
もうすぐ抜ける森の先は、少女の村の外の世界。
その一歩から伸びる影が、森を手放す。
向かう先は、依然変わらず、白妙の都。
魔族であるチユが、そこに足を踏み入れるということ。
それが、どれほどの危険を孕んでいるのかは、充分に知っている。
戦争に巻き込まれ、仲間を失い、それでも立ち上がった。
そして、今、敵国と謳われた中心地へと足を運ぶ。
それは、旅路の終焉を彩る果てにもなり得る。
それでも、そこに姉が居るかもしれない。
既に、白妙の領土に入っているとはいえ、まだ此処は辺境の地。
自らの足に絡みつく現実に、チユは空を見つめる。
「私は、魔族であれ、人族であれ、あの村で触れ合えた。」
そして、帰る場所として、両手を広げてもらえた。
魔法を使うという、白妙の領地では禁忌とも言える旋律を奏でても尚、チユという存在を受け入れてくれた。
何れ、それが赦されない地へと足を踏み入れることになるだろう。
その時には、治癒魔法を使うことはできないかもしれない。
それでもいい。
治癒魔法が使えなくとも、できることは必ずある。
姉にしてあげたかった数々の後悔が、罪の意識となって、ここに花開く。
ただ、誰かの笑顔を見たい。
自らの贖罪という願望が、その願いへと、少しずつ塗り替えられていく。
それは、チユの知らぬ、心の奥に煌めく光。
「良い香り…。」
腕に、凛と誇る花の色彩に目を閉じる。
まだ気づかぬ、その光の香りが、チユの今日を幸福へと誘った。
舞う足跡。
それは、香りと共に空を見上げる。
太陽は、頂を超え、青く澄み渡るキャンバスを滑る。
それは、茜の音色を反響させるように、遠くへと漂う。
その共鳴が、少しずつ青と混ざりゆく。
そのグラデーションを追うように、チユは地平を見渡した。
遠くに揺れる煙。
人の営みが、小さく笑っている。
「今日は、あそこの隅で寝かせてもらおうかな。」
手を伸ばすように見つめる先へ、微笑みを囁く。
これまで、何度も野営をしてきた。
煌めく星が空を埋めているから、寂しくはなかった。
柔らかな月が大地を見守っているから、怖くはなかった。
荒野の影で、一人、暁を待つことは、何も特別なものではない。
それでも、心は集い営む色彩に手を伸ばしていた。
そこに留まることはなくとも、誰かに触れていたい。
その温もりに、ただただ触れていたかった。
チユの持つ小さな魔法で、そっと手を差し伸べる。
その祈りは、触れていたいという願いによって紡がれていく。
だから、傷が癒えた喜びを贈られた時、チユはいつだって感謝を言葉にのせていた。
そして、また、手を差し伸べたいと願う。
砂塵が、足跡に折り重なっていく。
散りばめられた想いが、その旅路を追いかけるように。
辿り着いた静寂の村で、チユは小さく息を吸う。
漂う芳しい音色が、空腹の香りを優しく撫でた。
「挨拶が終わったら、私も、夜ご飯を作ろうかな。」
村を見渡し、最も大きな屋敷へと歩む。
そこが、村長の家。
そう確信できたのは、大きさ故ではない。
これまでの旅路で見ていた、幾つもの色彩が、その佇まいに、答えを導いた。
村に広がる道。
小石が影を長く伸ばす。
小さく響く声は、広場で遊んでいた子供達の手を振る音色。
幾つもの視線が過ぎ去り、背中を追う。
まだ白妙の都は、遥か遠い。
それでも、この辺りまで来ると、魔族の往来は無くなる。
彼らにとって、チユという存在は、異質なのだろう。
見た目が変わらずとも、微かに漏れる魔力が、幾つもの好奇心を奏でた。
「こんばんは、お邪魔してます。」
チユの柔らかな音色が、過ぎゆく影になびく。
警戒されていることをわかっているが故に、一人一人へと、微笑みを紡いだ。
それでも、この村で休むことを拒まれたのなら、それは仕方ない。
ブランノワール戦争に身を投じたからこそ、そこに落とされた拭いきれない陰を知っている。
ただ、チユは見てきた。
テラとメルの旅路を。
花の国の色彩を。
魔族と人族が手を取り合う旋律を。
チユにとって、それは自身で成せることではないと理解している。
故に、それを叶えようとは動いたりしない。
ただただ、触れ合う温もりに、その指先を伸ばす。
それを紡ぐ音色が、治癒魔法ということだけ。
そっと、手首に彩られた一輪の花を見る。
少女から贈られた宝物。
「シャリテ…。」
閉じた瞼に彩られる、サンドイッチを共に食べた夜の香り。
彼女の名を紡いだ唇に、思わず微笑みが漏れる。
吐息が、揺れる。
手を伸ばしたのは、質素な扉。
弾む音が、三回。
「ごめんください。」
チユの声が、柔らかく溶けた。
出てきたのは、年老いた男性。
「珍しいね。魔族が、こんな村に何のようだ。」
少し怪訝な色が滲む。
「今夜、眠る場所を探しています。村の外れでも、お貸しいただきたくて…。」
チユは少し俯き、ゆっくりと老人を見つめた。
「旅人か。私は構わないが、魔族をよく思わない村民も居る。先の大戦で、家族を失った者が居るからね…。」
村に入ってから感じ続けた視線。
その不協和音の音源に、チユは触れた。
「では、私は、居ない方が良さそうですね…。」
ゆっくりと頭を下げ、チユは踵を返す。
「若い者は、結論に急ぐ。人族も魔族も変わらないものなのだな。」
ため息に混ざる声が、チユの背中を追う。
「お嬢さん、話は最後まで聞きなさい。」
柔らかな笑みが、手を差しべる。
「この家に泊まりなさい。少女が野宿など、放ってはおけない。」
大きな温もりが、チユの心を包み込む。
「でも、魔族を泊めたら…。」
「誰かの想いが、みんなの想いとは限らないよ。君が旅人であるように。」
穏やかに交う視線。
それを崩すかのように、扉の奥から声が響く。
「開口一番に魔族がなんて言っていたのに、よく言うわよ…。」
出てきたのは、男性よりも幾分と若い女性。
「人族さえも立ち寄らぬ村だ。こんな所に魔族が来たのだから、警戒して当然だろう…。」
振り返り、ため息を紡ぐ。
「それで、警戒は解けたの?」
「当たり前だろう。私の目は何でも見抜く。何せ数多の戦場で…。」
「騎士団にいた頃の話なら、要らないわよ。こんなの聞いてたら夜が明けてしまうわ。」
「…そうか……。そうだ、遅くなってしまったが、私は村長を務めているヴァンダンジューズ。こっちは、娘のコクリコだ。」
紡がれた気品に、笑みが頷く。
「私は、チユといいます。」
目の前で繰り広げられていた穏やかな言葉の触れ合いに微笑んでいたチユは、その温もりを手放さないように、ゆっくりと、自らの音色を溶かしていった。
揺れる木々が、窓の外の月明かりを彩る。
柔らかな音色が、部屋を包み、空腹に触れる。
チユは、コクリコと共に、台所に立っていた。
小さな鶏肉と、いくつもの根野菜。
小麦のスープには、羊のミルクが渦を描く。
籠に並べられたパンの一つを手に取り、切り取っていく。
振り返ると、ヴァンダンジューズがテーブルを拭いていた。
暖炉の光が部屋を揺らし、三つの影が微笑みを紡ぐ。
交わしたのは、それぞれの旅路の詩。
懐かしみ、馳せる想いは、今ここに立つ刹那に触れる。
眺めているのは、未来。
チユは、会いたい人への願いを紡いだ。
星が踊っている。
小さな村に彩られた、幾つもの煙突からは、今夜のご馳走が交う。
静寂の大地に、微笑みが奏でられる頃、月は眠りゆく空を見守った。
それは、揺籠のように、また始まる夢の続きを描く。
窓の外を眺め、チユは微笑んだ。
この世界が、旅路を赦してくれているようで、ただただ嬉しかった。
それを噛み締めるように、ゆっくりと頷く。
「ありがとうね…。」
小さなベッドに横たわるヴァンダンジューズ。
捲り上げた服から、傷に溢れた背中が覗く。
チユは、温かく濡らした布で、優しく拭いた。
「私の魔法が役に立てるのなら、嬉しいです。」
彼が背負い続けた痛み。
戦争の残響。
それを覆う讃美歌のように、治癒魔法が淡い光を紡いだ。
「とても古い傷で…、私の力もまだ未熟なので、傷を消すことはできません…。」
花弁に触れるように、魔法を背中へと流していく。
「ですが、これで、痛みが和らぐはずです。」
慈しむように、愛おしむように。
「チユさんのお陰で、長年の悩みから解放されそうだよ。本当にありがとう。」
その優しさを抱きしめ、還すように、ヴァンダンジューズは穏やかに応えた。
ベッドの横で揺れる蝋燭が、柔らかな色彩を紡いでいる。
ただ静寂だけが、そのひと時を詩っていた。
まだ、たくさんの人族が、魔族を受け入れられずにいる。
そして、たくさんの魔族が、人族を受け入れられずにいる。
でも、ここだけは、今だけは、人族も魔族もない。
そんな小さな波紋が、また一つ紡がれた。




