第九楽章1節
今も漂う鉄の香り。
朽ちた街道には、幾つもの蹄の跡が残っている。
幾つもの正義が、信じる御旗を掲げて対峙してきた。
その双璧を成したのは、漆黒と白妙。
長い荊の果てに、漸く手を触れ合おうとしている。
それでも、ここに至るまでに奪われてきたものは、数え切れない。
それは、騎士でもなく、魔導士でもない。
小さな営みに生きる、無垢な灯火。
彼らが、まだ手を伸ばしてくれるのなら、それを振り払ったりはしない。
禁呪と詩われた魔法が、この手で奏でられるのなら、それを貴方に贈りたい。
その旅路の果てに、愛する人と再会できると信じているから。
揺れる雲が、小さな祈りを包み込む。
チユの心に触れたのは、遠い昔の残響。
ルナを最後に見た、静寂の月明かり。
一度も手放したことのない、大切な色彩。
そして、自らの贖罪への渇望。
家族と離れることを選んだ、重く深い罪の意識。
例え、それが、家族を守るためだったとしても。
チユにとって、家族を捨てたという想いだけが、心を閉じ込める様に刻まれていた。
それでも、歩むことは、やめない。
チユが見つめるのは、この道の先。
どこに辿り着こうとも、その一歩は消えたりはしない。
その連なりが、必ず、帰着点へと繋がっていく。
チユは、そう信じて、前を見つめ続けた。
深い罪の意識の奥で、小さくとも強く燃え上がる希望の光を抱きながら。
「あの…。」
可憐な声が、チユの耳に触れる。
駆け回る小さな足跡。
それを眺めていたチユは、微睡みの色彩に揺れていた。
現を掴む様に、可憐な声に、微笑みで応える。
「…ごめんね、ぼんやりしていたわ。どうしたの?まだ痛い?」
「もう痛くないよ。お礼を言いたかったの。ありがとう。」
笑顔が詩う。
私に与えられた、小さな魔法。
私の家族を引き裂いた、忌まわしき魔法。
でも、目の前の涙を止める、大切な魔法。
治癒魔法。
傷や病を治す、それだけの魔法。
他に使える魔法なんて、メルさんに教わった火の魔法くらい。
それも、魔法陣を描かなければ扱うことはできない。
私にできる事なんて、ほんの小さなことだけ。
それでも、この子が笑ってくれたのなら、私を包む世界は、煌めいている。
「どういたしまして。さあ、みんなといっぱい遊んでいらっしゃい。」
柔らかく溢れる想いを心に包み、チユは手を振った。
「こんな辺境の地にも、たくさんの人が居る。」
それは、大戦からさえも目を向けられなかった平穏。
「何だか、嬉しいな…。」
もしそれが、自らの家族の住まう地も、そうであったなら。
そう願うほどに、その色彩を愛しく見つめた。
茜色の空に、子供達の声が溶けていく。
そこに生まれた隙間を埋める様に、芳しい彩りが小さな村を包んでいく。
チユは、森で集めた木の実を広げた。
積み上げた小石の中に、火の魔法を奏でる。
その上に敷かれた葉は、永遠の潤いを持つ。
そこに、一つ一つ木の実を置いていく。
小さく弾ける音が、チユの耳を撫でた。
「いい香り…。」
手に持つのは、塩味になってしまったクッキー。
「きっと、これなら合うわね。」
どう食べようかと悩んでいたクッキーに、木の実を乗せる。
手のひらに収まる可憐なディナーに、微笑みが溢れた。
「いつも、ありがとう。」
空に捧げる様に手を伸ばし、静かに頬張る。
満たされていくお腹が、安らぎを詩いだす。
「今日も、いい日だったな。」
ほのかな温もりが、チユの心を癒した。
月が詩っている。
星が踊っている。
小さな火に照らされたチユの横顔が、その色彩に包まれている。
声をかけたのは、昼間の少女。
「もしかして、もうごはんを食べちゃった…?」
手に持っているのは、幾つものサンドイッチ。
「あら…、ご馳走がいっぱいだね。」
少女の頭を撫でながら、チユは微笑んだ。
「お母さんが作ってくれたの。一緒に食べたくて…。」
可憐な音色と共に、サンドイッチを差し出す。
「くれるの?嬉しいな。ちょうど、夜ご飯を食べようと思っていたところの。」
その一つを手に取り、チユは笑顔に包まれる。
「良かった。一緒に食べよう。」
「うん。ありがとう。」
柔らかな風の中に、二人の笑い声が反響した。
「お姉ちゃん、ここに住むの?」
サンドイッチの欠片を頬につけ、少女が見上げる。
「そうしたいけど、明日には旅立つの。大切な人に会いに行くのよ。」
肩を寄せ合い、囁き合う様に、チユが紡ぐ。
「じゃあ、また来てくれる?」
「もちろんよ。必ず、会いに帰ってくるよ。」
「約束ね。」
始まったばかりの旅路に、帰る場所が紡がれていく。
それは、悠久に語り継がれる御伽話のように、一つずつ道を彩っていく。
それを噛み締める様に、手を繋ぎ二人で歩く。
向かう先は、少女の家。
窓から漏れる温かい灯が、瞳に揺れる。
静かな幸せ。
きっと、そこには、両手に抱え切れないほどに溢れている。
その大切な音色が、いつまでも響き渡ります様に。
誰もが、明日も幸せだと、そう信じていられます様に。
チユは、手のひらに感じる温もりへと、静かに祈った。
見送る手のひら。
返す笑顔。
見上げる空に揺れる月。
チユが探し求める人。
その痕跡は、未だ見つからない。
聞いたのは、荒野を駆ける後ろ姿と、白妙の馬車に揺られる横顔。
それは、ここで得たものではない。
漆黒から随分と離れた小さな村に、その足跡があるかもしれない。
その期待は、容易く手に取れたりはしない。
それでも、一つずつ旅路を彩っていく。
チユにとって、それは、心に沈んだ空白を埋める幸せ。
その柔らかな安らぎを抱きながら、想いへと耽る。
体を包むのは、深く茂る草花。
共に寝ようと微笑む少女の想いを断ってしまったのは、明日の旅路を掴むためだった。
考えなければならないことが、たくさんある。
探さなければならないことが、たくさんある。
知らなければならないことが、たくさんある。
それを心に紡いでいく時間が、どうしてもほしかった。
でも、何より、共に過ごす時間が長くなるほど、離れ難くなる。
ここにずっと居たいと願ってしまう。
手のひらに残る温もりを、そっと胸に当て、チユは散らばった残響を手繰り寄せた。
星降る空が、詩っている。
そよぐ風が、チユの髪を優しく撫でた。




