第八楽章5節
第八楽章5節
この温もりが、貴方に届きます様に。
星が降る空。
月が見守る大地。
詩う風に、花々が舞う。
その色彩を鮮明に描くのは、一つの炎。
大樹の麓で、幾つもの微笑みが共鳴する。
欠けた器に想いが溢れ、水面を揺らす。
仄かに冷たい香りが唇に触れる頃、頬を伝う雫が柔らかく爆ぜた。
それは、炎の弾ける音色。
決して、悲哀に溺れてなどいない。
高らかに宣言された静寂が、確かに生きていることを刻む。
全て、貴方が居てくれたから。
遠く散っていった、幾つもの赤い花弁へと手を伸ばす様に、祈りを捧げる。
そこには、数え切れない灯火の影が香る。
それでも、一つとして、忘れる事はない。
貴方が居てくれたら。
きっと、今を、奇跡と呼ぶだろう。
大樹の奥深くへと堕ちた、宝珠の欠片たち。
もしこれが、彼らを想う詩ならば、今ここに刻まれる。
人族と魔族。
その境界を脱ぎ捨てた、小さな交響。
それは、曖昧な色彩に縋る淡い願い。
かつて、魔王が奏でた夢。
話せば、嘲笑われる様な夢。
魔族と人族が手を取り合う世界。
今はもう、夢ではない。
今だけは、此処だけは、決して夢ではない。
だから、刻む。
貴方が生きた、静寂の墓標に。
弔いの宴。
彼らが酒を酌み交わし、肩を寄せ合い、語り合う。
そんな旋律が起こるなどと、誰も思ってなどいなかった。
暁と共に微睡む影達が、その刹那まで微笑みを紡ぎ続けたのは、その奇跡を届けたかったから。
この刹那を共に過ごしたかった貴方へと、この全てを贈りたかったから。
空が、青へと移ろいゆく。
吐息は、寝息へと沈んでいく。
残る影は、二つ。
それは、レーヌと、プロテア。
未だ、新たに酒を注ぐプロテアに、レーヌはため息の中へと微笑んだ。
「プロテア様、貴方は、この期に及んで、まださらに飲まれるのですね。」
その音色と共に、膝の上で眠る少女を見つめる。
「メル様もロベリア様も、最初の数口で眠ってしまわれたというのに…。」
ロベリアの柔らかな髪を撫でながら、レーヌは囁いた。
「俺は、戦場で浴びるほど飲んできたからな。この程度の量では、酔い始めに過ぎない。」
器の水面が、瞬く間に消える。
「どうだ、レーヌさん。まだ付き合ってくれるか?」
再び注がれる芳醇な香りに微笑み、プロテアは紡ぐ。
「永遠に酌み交わしても、私は平気ですよ。」
レーヌは、プロテアへと顔を上げ、柔らかく頷く。
私は、酔えませんから…。
その小さな旋律を、酒と共に飲み込みながら。
「そうか。ならば、俺の方が先に寝てしまうかもしれないな。」
紡がれる事のなかったレーヌの音色を掻き消す様に、プロテアは笑った。
囁き合う、二つの音色。
そこに紡がれる、一つの疑符。
戦いの中で、プロテアが抱き続けた想い。
「宝珠とは、一体、何なのだ。」
一度は、自らも取り込まれ、そして、灯火を賭して穿った。
それでも尚、その力は途絶える事なく蠢いている。
「あれは、私たちの居る世界から外れた存在です。」
レーヌは、穏やかに応える。
「神が創りしものには、私たちには触れる事のできないものも、多くあります。」
御伽話よりも遥か昔から生きるレーヌにさえ、手の届かないものは、数え切れないほどある。
「私が知るのは、魔族と人族が袂を分つ予兆より後。その時には既に、宝珠の存在は紡がれ続けていました。」
空の向こうを見つめるレーヌ。
「俺たちが壊したのは、そんな昔からあるものだったのか。天の園で、神様に怒られそうだな…。」
「その心配は要りません。あの宝珠を産んだのは、大樹に眠る聖女です。」
「そういえば、どうして、大樹の中に聖女が居るとわかるのだ。魔族にしかわからない魔力を感じるのか?」
プロテアは、大樹を見上げ、呟いた。
「いえ、彼女達には魔力はありません。ただ宝珠を産み、そして、砕くことができるだけです。」
レーヌが、穏やかに首を振った。
「達…、一人ではないのか。」
「力の小さな宝珠であれば、一人でも叶うでしょう。ですが、あれは神話に紡がれた宝珠と同じ…、それも、幾つかの逸話を凌ぐのは力を持っています。」
大樹に微笑みかける様に、レーヌが囁く。
「番いの宝珠。それを見るのは、私も初めてです。」
「番い…。」
「はい。遠く離れた運命に流れる二つの血脈が、広大な世界へと惑う。こうして彩られる果てしないせせらぎの果てに、想いが重なった時、それは繋がれる。」
レーヌの吐息が、詩となり、空を駆る。
「その想いとは、愛です。」
それは、大樹の葉を揺らし、荘厳たる色彩へと還っていく。
「大樹の中で、夫婦が眠っているということか。」
「いえ、ここに眠るのは、恐らく…、二人の少女。リュテさんやユズリハさんのように、幼く、無垢なる灯火。」
プロテアを見つめ、その冷たく華奢な手で、砂を掬う。
「いつか、聖女は目覚めるでしょう。彼女達が生み出した宝珠は、数え切れませんから…。」
遠い未来を見つめるように、それを憂い、そして慈しむように、レーヌは囁いた。
「とは言え、平穏は取り戻せました。皆さんが灯火を賭して繋いでくれたお陰です。私達は、この大切な宝物を守り抜きましょう。」
レーヌの笑顔が、風に舞う。
「そうだな。宴は、笑ってこそ、価値がある。」
それに呼応する様に、プロテアの笑い声が、空高く響き渡った。
緩やかな雲が、澄み渡る青に泳ぐ。
その隙間から差し込む白は、天に触れる架け橋を描く。
その色彩に器を掲げ、プロテアとレーヌは、酒を酌み交わした。
一つの風が、頬を撫でる。
熱を帯びた頬が、その心地よさに身を委ねる。
「今だけは、赦してくれよ。共に楽しめなかった、俺の罪を…。」
そっと頬に手を当て、プロテアは空を見た。
煌めく陽光が、露を白く染める。
小さな雫が、砂塵を流れていく。
その柔らかな冷たさに、指先が触れた。
「いつの間にか、眠っていたみたいだな…。」
プラタヌがゆっくりと起き上がる。
傍には、パシフロールが穏やかに寝息を奏でる。
その柔らかな毛並みに包まれる様に、ユズリハとプラム、そして、リュテが身を寄せ合って夢を泳ぐ。
その愛しいほどの旋律を、一欠片さえも崩さぬ様に、プラタヌは優しく見つめた。
「おはよう。みんな、豪快に飲んで、豪快に潰れていったぞ。」
背を伸ばし、穏やかな風を身に纏いながら、プロテアは笑う。
「おはよう。…早いな。みんな、まだ寝てるというのに。」
「いや、先ほどまで飲んでいた。レーヌさんが付き合ってくれてな。久しぶりに楽しい酒だったよ。」
「寝ていないのか…。それで、レーヌ様は…。」
プラタヌは立ち上がり、プロテアへと歩み寄る。
「魔力の痕跡を辿るといって、辺りを見て周りに行ったぞ。」
「………、つまり、レーヌ様も寝ておられないということか…。」
プラタヌのため息が、風に揺れる。
「まあ、そう言うことになるな。」
その風を吹き飛ばす様に、プロテアの笑い声が響いた。
「お二人とも、我々を遥かに凌ぐ飲み方をしておられたというのに…。」
「何だ、褒めてくれるのか?」
「…………呆れているという方が近いかな…。」
「そうか。だが、それも、戦士の誉だ。」
プロテアは、笑う事を手放したりはしない。
せめて、ここに居る間は、決して微笑みを消したりはしない。
高らかに、そう宣言する様に、豪快な笑い声が反響した。
その音色に動き始める灯火達が、夢の終わりを知る。
彼らの戦いは、ここから始まる。
リュパンとの対峙で傷を負った全ての色彩へ、一つ一つ手を伸ばす。
元に戻らずとも、その煌めきを取り戻す。
その一歩を踏み出す為に、現を掴み取り、彼らは立ち上がった。




