第八楽章4節
透き通るせせらぎが、疼く傷の熱を和らげる。
左手に掬う煌めきが、小さな口を麗しく濡らした。
「ごめんね…。」
小さく喉を鳴らすルナが、可憐な囀りを響かせた。
「どうしたの?」
私は思わず顔を上げた。
「全部、してもらってるの…。」
「私は、ルナちゃんに救われているのよ。」
再びせせらぎへと左手を伸ばし、私は喉を潤わせる。
「ルナちゃんが居なかったら、私は…、ずっと昔に全部を諦めていたもの。」
精一杯の微笑みを、ルナへ贈る。
「それは、私も同じなの。私にあったものは、もう無くなっちゃったから、ステラちゃんだけが、私の全部なの。」
寄り添い合う肩。
触れ合う温もりが、深い痛みの奥へと揺れる。
貴女を救いたかった。
でも、救えなかった。
交差する想いが、私たちの影を一つに紡ぐ。
それは、沈みゆく太陽が茜に詩うように、長く地の果てへと溶けていく。
もし願いが叶うのなら、ルナの手足を返してください。
芽吹き始めた星々に抱かれ、朧げな月へと捧ぐ。
頬を伝う想い。
それを彩る様に、幾つもの星が降り注ぐ。
その狭間に雲は流れ、月が微笑む。
静寂の喧騒が、微睡みへと沈みゆく私たちを、穏やかに包み込んだ。
鼓動が静かに共鳴する。
紡ぐのは、この体に溶け込んだ宝珠。
それは、月が眠る頃、色彩を手放した宵闇へと奏でられた。
小さな夢。
手を繋いだまま、指先の隙間さえ、離れることはない。
私にとってルナが全てであるように。
ルナにとって私が全てであるように。
それは、然るべき音色のように、紡がれていく。
やがて、陽光が世界を描く頃、私たちは、その色彩に声を上げた。
「手が…足が…、戻ってる……。」
失われたはずの自由。
それは、柔らかな音色の中に芽吹いていた。
それを叶えたのは何か。
私は、あの日から知っていた。
「そうだよ。私が還したんだよ。」
あの声が、絵本を見つめる私の心に深く落ちる。
「君が、欠片を見つけてくれる様に…。」
緩やかに溶けていく色彩。
「君の知らない色も、見せてあげる。」
開かれるページの隙間に、声が舞った。
それは、砂塵の地と化した白妙の都。
揺れる二つの影。
一つは、剣を振り翳すプロテア。
そして、持つ一つは、縋り付くリュパン。
瞳から流れる赤い花弁は、リュパンの驕りを壊していく。
それでも消えない不協和音。
それは、怒りと欲望。
全てを呪うように紡がれる言葉は、プロテアへ向けられた刃。
たがそれは、波紋となって、地の果てにまで広がっていく。
包み込んだのは、リュパンが飲み込んだ宝珠。
影さえも残さず消えていくプロテアの背を見つめながら、歪な音だけが砂の中へと響く。
黒く濁った悪意の塊は、小さな宝珠へと取り込まれていった。
「私は、何も選ばない。」
あの声が、震える私に触れる。
「全てを受け入れて、全てを還す。それだけだよ。」
崩れゆく視界。
ひび割れたのは、空と地を繋ぐ音色。
穿つ光は、祈りの旋律。
「あの悪意を閉じ込めることができるのは、私だけなんだ。」
微笑みが揺れる。
「あなたは…、宝珠……なの?」
私は、全てが混ざりゆく世界の中で、独り囁いた。
「ようやく辿り着いたね。私は、君が生み出した小さな短音に過ぎない。」
何かが私を抱きしめる。
「だから、君に助けてほしいんだ。」
感じる温もり。
それは、宝珠の創り出した願い。
「私は、深い眠りにつく。そうすれば、あの悪意が漏れ出す。そうすれば、世界は呑み込まれる。」
幾つもの声が、反響し始める。
「君が、繋ぎ止めるんだ。」
凡ゆる場所から響き渡る声が、私へと集まる。
「行くべき場所も、やるべき事も、もう分かっているはずだよ。」
私を囲む様に、声が舞う。
「君が生み出した宝珠なのだから…。」
一つへと収束していく声。
「期待しているよ。」
私の背を押す様に、風がそよいだ。
「さあ、いってらっしゃい。」
朽ちた教会に差し込む光。
私は、その光を掴み取る様に、ゆっくりと目を覚ました。
瞳に彩られるのは、心配そうに私を見つめるルナ。
ここは、大樹の中。
その柔らかな音色に、絵本から抜け出したことを知る。
「ごめんね、眠ってしまったの…。」
重い体を起こし、私は囁いた。
「私も、寝ていたので、一緒なの。」
ルナが、穏やかに微笑む。
「あのね、ルナちゃん。…私、行かなけゃいけないの。」
「どこに行くの?」
ルナが顔を覗かせる。
「宝珠を、直しに…。」
「夢を、見たの?」
「うん。どうして、わかったの?」
「私も、夢を見たから…。」
絡み合う指。
囁き合う瞳。
繋がる吐息。
繋がる温もり。
私たちは、同じ絵本の中に居た。
重なり合った祈りが、私の想いを固く紡ぐ。
「リュパンが、出てきちゃう。みんなを…、食べちゃうかもしれないの。」
空を穿つ大樹。
「それは、起こり得ません。」
その荘厳たる色を見つめ、レーヌは囁いた。
「つまり、宝珠と共に、リュパンも滅びると…。」
プラタヌが、レーヌの背に問う。
「宝珠が完全に崩壊したならば、そうなるでしょう。」
「レーヌ様でも、完全に壊すことができないということですか…。」
レーヌが、ゆっくりと振り返る。
「宝珠は、この世界の理から外れた存在です。」
地に咲く、小さな花。
それを愛でる様に、レーヌが囁く。
「私達は、この世界に生きる存在。どれだけ祈りを捧げようとも、封じる事さえ叶いません。」
そよぐ風が、花弁を揺らす。
「ですが、みなさんが、ここまで壊していただいたおかげで、私の力を以て封じる事 は可能です。」
その風は、既に消えた灯火の花弁を空へと舞わせた。
「それに、大樹の中に眠る聖女が、力を抑え込んでくれている様です。」
彼方へと消えていく、その色彩を見つめながら、レーヌは奏でる。
「あなたたちが成し遂げてくれた事、大樹の中の聖女が力を抑え込んでくれている事。その二つがあってこそ、私は、この宝珠の力を抑えることができるのです。」
小さな星が、月に寄り添う。
「ただ、宝珠は抗うでしょう。」
雲に包まれた空には、それだけが奏でられている。
「宝珠は、どの様なものであれ、自ら再生する事はできませんから、紡ぎし者への誘惑が始まります。」
その無垢なる色彩が、レーヌの瞳に揺れた。
「もし、聖女が、その欺く声を打ち破る事が出来なければ…。」
ゆっくりと瞼を閉じ、瞳に彩られた全てを決して失わないように、心へと深く刻む。
「今は、祈りましょう。この世界を織り成す光が途絶えぬ様に。そして、ここに散り、未来を紡いでくれた全て者への安らぎの為に…。」
柔らかな微笑みは、冷たい温もりと共に、レーヌの吐息へと溶けていった。
静寂の風が舞う。
森に身を委ねていた負傷兵達も集い、共に祈る。
柔らかな月明かりが煌めく大地に、花々が詩う。
その旋律を包み込む様に、星は慈愛の雫となって降り注いだ。
幾つもの雫が、奏でられる想いへと溶けていく。
唇の奥へと隠した叫びが、微かな吐息へと縋る。
戻る事のない残響だけが、触れる事のできる真実。
それを忘れる事のない様に。
決して手放す事のない様に。
ただただ深く刻み込みながら。
散っていった願いの欠片へと、祈りを捧げた。
「祈りの後は、宴だな。」
荘厳たる静寂を切り裂く様に、プロテアの重く軽躁な 声が、全ての雲を吹き飛ばした。
「宴はするだろうけど、今は静かにしてよ…。」
父を宥める様な音色を孕ませて、リュテはため息をつく。
それを振り払う様に、プロテアは奏でる。
「何を言う、リュテ。みんな、笑顔を得る為に戦い、散っていった。」
その音色と共に、高らかに笑った。
「我々が笑わずして、誰がその夢を叶えるのだ。」
集まる視線。
俯くリュテ。
空へと拳を掲げるプロテア。
そこに歩み寄るニゲラ。
「確かに、そうだな…、プロテア。弔いの宴を始めよう。みんなで笑顔を奏で、空に眠る灯火に届けよう。」
ゆっくりと見上げる空。
その色彩から目を離せる者など、ここには居ない。
遠く彼方に吹く風が、大樹の頂を厳かに揺らした。




