序奏-2-
力による言葉は、火種を生む。
故に、私たちの想いは、届かない。
向けられた刃を身に刻んで初めて、夢は報われるのだ。
穏やかな日々が、私を微睡みへと誘う。
勇者の加護とは、魂の不滅。
何もしなければ、この楽園を謳歌することもできる。
それこそが、私の望む終末地ではないのか。
「テラ…。」
かつて、王宮の間に響いた言葉は、咲き誇る可憐な彩りの中で、私を呼ぶ音色となった。
ゆっくりと振り向く先には、漆黒を身に纏った純潔の天使が微笑んでいる。
寝転ぶ私に、音を立てず歩み寄り、その繊細な温もりで頬を撫でた。
その柔らかさだけで、私の全てが満たされる。
「メル…。」
名を囁き合うだけで、幾星霜の中で言葉を交わしたかのように、想いが溢れ出る。
絡み合う指が、私たちの望む世界を収束させ、いつか芽吹く事を予感させた。
だが、この姿を見た者たちは、何を抱くのであろうか。
それを探らずとも、忍び寄る影は、私たちを蝕み始めていた。
帰らなければ。
私が生きている事を明かせさえすれば、平穏へと戻る。
そう信じて、私は再び旅路に足を踏み入れた。
遥か遠い、旅立ちの街。
王都には、凱旋を待ち侘びる声が響く。
それは、月日と共に静寂を纏い始め、囁き声へと移ろいだ。
帰らぬ英雄の影に、少しずつ疑念が落ち始める。
それは真実として蔓延し、絶望へと呑み込み始めた。
やがて、民は、新たな刃を研ぎ、報復という名の正義が、御旗を靡かせる。
挙兵の前日、それを打ち破る様に門が開かれた。
月に照らされた星々が眩い旋律を奏でる瞬間を、空は静かに包む。
魔王城で安らぎを得て、力が漲っていたはずの体は、長い旅路で朧げに揺れていた。
それでも、私の中には、光が満ちている。
私には、成すべき事があるのだ。
それが、何をもたらすのか。
知る術は、私には無い。
それでも、これは私の選んだ道だ。
休息のひと時さえ得ず、王宮に召された。
だがそれは、私の望みでもある。
謁見の場に、私の想いが静かに響き始めた。
この国の民が、人族なる者が、渇望した結末への物語。
だが、これは、御伽話ではない。
私が紡いできた旅路だ。
多くの仲間と共に、壮麗な門を抜け、陽光を浴びる。
あの煌めきは、足跡と共に翳りを纏い始めた。
癒えぬ傷が幾重に乱れ、やがて道標は墓標となった。
ひとつひとつ消えてゆく足跡を振り返る事すら、もう残されてなどいない。
ついに私は孤独を知り、聖剣だけが勇者である事を証かす。
枯渇した器。
勇者の加護だけが、私を動かす。
報いなどない操り人形は、朽ち果てる事すら許されないのだ。
でも、それでも、この世界に光を齎すため。
私は扉を開いたのだ。
そこが、私の旅路の終焉であると知りながら。
しかし、私は、ここに居る。
あの日、交わされたのは、剣でなく言葉。
朽ち果てる刹那、魔王が与えたのは、慈愛。
我が王よ。
私には、魔王は討てない。
彼女は、私たちの及ぶ存在ではないのだ。
故に、手を取り合う未来を選ぶ事も、救いの道ではないのか。
どうか、慈悲を。
この世界が光で満たされる為に、その御心で。
陽光が差し込む整然たる広間に、音が消えた。
裏切り者。
静かに紡がれる言葉に、全てが定まった。
私の言葉が、彼らの求める答えではない事など、初めからわかっていた。
それでも、私は、手を離す事などできはしない。
魔王は、まだ生きている。
その事実だけが、脆くとも均衡を保っていた歯車を動かす。
挙兵の準備は、既に整えられている。
彼らは、ひたすらに、矛先を向ける意味を探していたのだ。
連なる咆哮が、寝息を奏で始めた王都に響く。
早く戻らなければ。
その焦燥だけが、私を保つ。
捨てられた布を纏い、月影を駆けた。
壮麗な門を避け、星々の隙間を縫う様に、荒野に這い出る。
宵闇の中、ようやく私は、この世界が糜爛している事に気づいた。
抗えば、容易く断ち切る事ができるだろう。
しかし、それは、メルの望むものではない。
私達が歩むべき先は、手を取り合う世界。
かつての仲間達が眠る旅路。
最後の墓標は、未だ、この手にある。
故に、私は、聖剣を突き立てた。
さらば、傀儡の英雄よ。
道無き道を彷徨い、朦朧とする意識の中で、国境の果てに立つ。
ここは、私の知る場所ではない。
心身の疲弊故に、道を誤ったのか、或いは、黄泉に足を踏み入れたのか。
そこは、広大な丘。
その全てを埋め尽くす様に咲き乱れた、アルストロメリア。
月の純白を黄色に染め、その輝きは星々を覆う。
風に重なり合う花弁の奏でる音色は、ただ穏やかに世界を彩る。
これこそが、あるべき姿なのだと、荘厳たる旋律となって空に響き渡る。
どこか懐かしささえ感じる彩りに、私は崩れ落ちた。
私を撫でる様に囁く香り。
震える手で、その一本を撫でた。
指を伝う瑞々しさは、心の渇きを癒す。
私は何も持たない。
故に、愛する人に贈るものさえ無い。
だから、せめて、この彩りを貴女へ。
優しく手折った一輪を胸に抱き、私は立ち上がった。
しかし、心が満たされようとも、それを支える器は、既に朽ち始めている。
混濁の意識の奥で、身を溶かすほどの気配を感じる。
故に、遠くに感じていた穏やかな魔力を見失い、私は歩むべき方向さえ途絶えた。
やがて、歩む足は動く事を拒み、旅路の終焉を悟る。
「メル、もう一度、君に…。」
小さな願い。
だが、私の大切な願い。
それを紡ぐ吐息さえ、もう残されていない。
「おかえりなさい。」
夢か、幻覚か。
それは、そのどちらでもない。
ただただ愛おしい貴女が、私を優しく抱きしめてくれる。
朽ちかけた灯火を、再び灯す様に。
花弁は未だ風に揺れて唄い、待ち望んだ再会を彩る。
私は、あの日の様に跪き、花を捧げた。
ただ一輪の、アルストロメリアを。




