序奏-1-
時の流れさえ、虚無に溶け込む遠い昔。
神は、孤独の中で、空を描き、そこに光を産んだ。
それは、無数の星となり、月に寄り添う。
緩やかな流れの中で、眺める為の大地を創り、海の旋律に身を委ねる。
そして、その彩りを語らい合う為に、草木を育て始めた。
そこに芽生え始める小さな命たち。
幾星霜の果て、神は、孤独を忘れゆく。
満たされた楽園と共に、最果ての地で、悠久を謳歌した。
取り残された大地と海は、神の手を離れた数多の命と共に、自由へと放たれる。
命は絡み合い、次々と芽吹いていく。
そこに、知恵を持つ者が生まれた。
その二つの種族は、糧を分かち合い、支え合い、守り合った。
やがて、その知恵が、草木の影から向けられる脅威を凌駕し、支配する側へと生まれ変わっていく。
かつて、人族と呼び、魔族と呼び合った彼らは、自らが王となるべく、歪みを紡ぎ始める。
それは、終幕の知らない演劇の様に繰り返された。
故に、勇者は魔王を討ち、魔王は勇者を討たなければならない。
この世界に生きる者なら、誰もが知る御伽話。
幼い頃から聞かされた、私の使命。
産声を上げた日に、与えられた加護を知り、生きる意味が決まる。
魔王を討つ。
それが、勇者の加護を継いだ者に架せられた運命。
ならば、その道を歩む以外に、選択肢はない。
終末地は、魔王の住まう城。
ここに辿り着くまでに、足跡を共にした仲間は朽ち果てた。
残された聖剣は、今は木の葉すら切る事も難しい。
その刃は、決して枯れることはない。
ただ、私の心は、もう何も咲かせる事はないのだ。
聳え立つ壮麗の城。
神聖さすら感じる佇まいは、かつての私なら感動を覚えたであろう。
空を隠す石造りは、ただ静かに私を中へ誘う。
絢爛の廊下には、息遣いは感じない。
私の足跡だけが反響し、黄泉が近い事を悟る。
強く握りしめた柄から、小さな悲鳴が霞む。
まるで、架せられた運命を全うせよと、囁く様に。
荘厳な扉の前に立ち、深く息を吐く。
閉じた瞼に映るのは、私の育った村。
穏やかな営みの中で、零れる笑みは、いつか業火に焼かれるだろう。
それだけは、止めなければ。
それだけが、私の足を突き動かす願い。
そうであると言い聞かせて、ここまで辿り着いたのだ。
私が私でなくならぬ様、縋るように。
刹那の安息を、最後の晩餐に、私は扉を開けた。
少しずつ漏れる光。
それが、ゆっくりと私の全てを包み込む。
その先に広がるのは、私の知らぬ彩りだった。
色とりどりの花が整然と咲き誇り、水のせせらぎに時が揺らめく。
その奥に座す者から感じる、身を溶かすほどの魔力。
間違いなく、彼女が魔王だ。
静寂の中、小さな吐息が音色の様に響く。
漆黒とは思えぬ煌めきを帯びて、静かに揺れる長い髪。
透き通る肌が、ステンドグラスから差し込む極彩色を彩る。
そして、溢れ出る魔力は、ただ穏やかに全てを包む。
気づけば、私は、眠る彼女の元で跪いていた。
静かに瞼を開けた彼女は、慌てた様に身を整える。
私が勇者であるかの問いに、言葉を紡ぐ事を失った。
その耳を撫でる囁きは、これまでの旅路を慈しむ讃美歌に感じたのだ。
私と共に旅路を歩んだ聖剣を掲げ、彼女に柄を預ける。
もしこれが、一輪の薔薇であるならばと、私は願ってしまった。
私を守り続けた刃を持つ、貴女の手で、私の旅路の終焉を迎える事ができるのなら、私は生きた価値を見出せる。
眼差しに想いをのせて、私は彼女を見つめた。
しかし、彼女が触れたのは、柄ではなく、私の手であった。
その温もりは、私が人であった事を思い出させてくれた。
玉座から崩れ落ちる様に、私のそばに寄る彼女の吐息が、柔らかく耳に触れる。
布の擦れる音が、私の体を優しく撫でる。
その華奢な体で、私を優しく包み込んでくれた。
言葉のない言葉。
その報いに、頬を伝う雫の名前を思い出した。
「こちらへ。」
そう囁く声は、新緑を歌う小鳥の囀りの様で、鼓動が体に反響する。
彼女の白く細い指に触れ、この花園の奥へと足を踏み入れた。
この城で初めて出会う、魔王以外の魔族。
彼女は目を伏せ、私たちを小さなテーブルへと誘う。
そこに配された二客のティーカップ。
まるで、私が来る事を知っていたかの様に、甘美に香り立つ。
彼女が座すのを待ち、私もまた、背もたれに手をかけた。
対面する彼女の眼差しは、私を癒す慈しみと共に、私の瞳の奥を覗き込んでいる。
心を触れられる様な感覚に、私の全てを見透かされている様に感じた。
交差する視線に、耳を撫でる音が遠く霞んでいく。
彼女は、何を想い、こうしているのだろうか。
私の中に、彼女への問いかけが芽生え始めた時、彼女は目を伏せて微笑んだ。
「まずは、お茶を楽しみましょう。」
彼女の口元に触れるティーカップの淵を見つめ、私は、その言葉に従う。
優しい香りが、昨日までの絶望を洗い流していく。
「このまま、こうしていたい。」
吐息と共に漏れた本音。
テーブルに投げたままの私の手先に優しく触れながら、彼女は静かに頷いた。
「では、叶えましょう…私と共に。」
口に残る紅茶の熱を帯びて囁く吐息に、私は目を奪われてしまい、その言葉の意味を掴めずにいた。
それを察するかの様に、彼女は続ける。
「魔族と人族が手を取り合う世界…。口にすれば嘲笑われる夢を、私は見ているのです。」
それは、空虚な旅路に差し込んだ光。
この道の先が荊であろうとも、揺らぐことのない花が咲いた。




