第八楽章2節
触れ合う指先。
繋がる温もり。
共鳴する鼓動。
溶けてゆく心。
繰り返される悪夢が、私たちを蝕んでいく。
それでも、だからこそ、私たちは、お互いだけが全てになっていく。
静寂に月明かりが揺れる。
石造りの廊下に響くのは、鉄格子を叩く爪の音。
今日は、もう、誰も来ないよ。
そう告げる様に、私たちだけの楽園を知らせる様に、柔らかく反響する。
囁き合う微かな囀り。
そこに彩られるのは、無垢な微笑み。
小さな二つの鳥籠は、厚い壁に隔たれた監獄。
独り、手を伸ばしても、そこには届かない。
だから、私たちは、互いに求め合った。
求め合っている事を知り、贈り合った。
薄暗く惑う風は、リュパンの香りを孕む。
それは、いつだって恐怖と絶望を振り翳す。
でも、この時だけは、私たちを脅かすものなど、何も無い。
貴女が居る。
それだけが、この世界の真実。
繰り返される悪夢の狭間で、刹那に過ぎていく私たちの幸せ。
紡がれ続けた大切な色彩の中に、小さな光が静かに生まれる。
忘れる事なんてできない、一つのページ。
それは、ルナからの贈り物。
これまでも、たくさんの贈り物をもらってきた。
柔らかな温もり。
響き渡る爪と鉄格子の奏。
囁き合う穏やかな微笑み。
二人だけのひと時。
全部、何より大切な宝物。
それでも、この贈り物は、特別だった。
壁の向こうから聞こえる嗚咽。
その苦しそうな音色に、私は思わず悲鳴に似た音色を送った。
手なんて届かない。
どれだけ心配しても、私には声をかけることしかできない。
それでも、何もしないなんて、できない。
私は、必死にルナを呼び続ける。
何処か痛いの?
何か苦しいの?
辛いこと、私に分けてほしいの。
私が全部、受け止めたいの。
必死に伸ばす手。
届かないと分かっていても、私は震える指先を、更に奥へと伸ばす。
触れる鼓動。
嗚咽は、もう聞こえない。
代わりに奏でられたのは、私の手を包み込む柔らかな感覚。
それは、ルナの手。
私の愛しい、真実の温もり。
「何処にいても、私たちは一緒なの。」
可憐な詩声。
まるで、この鳥籠が花畑へと生まれ変わった様に感じる。
そこに舞い降りる、天使の羽。
それは、私の手の中に包み込まれた。
与えてくれたのは、ルナ。
そっと開く指の隙間から、純白の煌めきが舞う。
一つの宝珠。
ルナに贈ってもらった、特別な宝物。
「ありがとう…、ルナちゃん。」
私は、それを両手で抱きしめて、溢れ出す雫の中に微笑みを奏でた。
私も何か贈りたい。
でも、私は何も持っていない。
ゆっくりと月を見上げる。
いつか、貴女に寄り添える日が訪れます様に。
雫に滲む壮麗な世界に、私は祈りを捧げた。
それでも、この地獄が変わることはない。
月が太陽に呑み込まれる頃。
空が星々を蝕む頃。
私たちの悪夢は目を覚ます。
嘲笑う使用人たちの棘が、私たちを斬り刻んでいく。
訪れた客人たちの悍ましい手が、私たちを穢れた沼へ沈めていく。
リュパンの悦楽のために奏でられる不協和音が、私たちを虚無へと閉じ込めていく。
それでも、耐えられたのは、ルナがいるから。
握りしめた拳の中で煌めく真実だけが、私を支えてくれる。
だから、宝珠だけは奪われたくなかった。
眩い朝日が鳥籠を焼き付ける頃、二つの足音が私へと忍び寄る。
柔らかく包み込んだ手のひらに揺れる宝珠。
私は、それを瞳の全てへと刻んでいた。
縋る様に、ただただ、それだけを。
鍵の開かれる音。
また、悪夢が始まる。
でも、それよりも、宝珠を奪われる。
隠し忘れた宝物が、私を見つめる。
揺れる風。
揺るがぬ想い。
両手に包み込んだ宝珠が、柔らかく煌めく。
私は、その色彩を心の奥へと描く。
決して消えぬ絵の具を紡ぎ、深く強く塗っていく。
そして、私は、宝珠を飲み込んだ。
誰にも奪われない様に、私と一つになる様に。
………ルナと繋がる様に。
探し求めていたピースが繋がる感覚が、肢体の全てへと反響する。
「私は、この刹那に生まれたのよ。」
絵本の世界を包み込む様に仲間れる声。
それは、混ざりゆく色彩の中に紡がれた。
閉じていくページ。
取り残されたのは、私と声。
「でも、まだ芽吹いたばかりよ。」
声の主に触れようと、全てを見つめる。
「目覚めるのは、もう少し先…。」
何も無い色彩の中で、声だけが遠くに揺れていく。
その小さな一つが、次のページへと靡いた。
開かれたのは、灰色の旋律。
その冷たい鳥籠の中で、壁の向こうへと手を伸ばす。
触れ合った温もりだけを頼りに、私たちは生きるのとを繋ぎ止めていた。
その紡がれた微かな音色の中で、私たちの楽園は微笑む。
止まることのない悪夢に囚われた二つの人形の、刹那の安息。
どれだけ苦しみの中に閉じ込められても、どれだけ傷をつけられても、貴女が居る。
苦痛と屈辱と絶望に糜爛していく色彩の中で、貴女だけが私の世界。
研ぎ澄まされた切先を裸足で歩く様な虚無の淵で、私たちは互いを光に抱いた。
それは、月が見守り、星が寄り添う、ほんの僅かなひと時。
潜む影は、その刹那の安らぎさえも、嘲笑うかの様に見つめていた。
それは、全てを壊す声。
リュパンが吐き出す、歪な音色。
燭台に浮かぶ不快な笑みが、私に突き刺さる。
ルナの四肢を奪え。
渡された短剣。
震える手。
戻された鳥籠に蹲り、私は、それを見つめる。
これを、私の喉に突き立てたのなら、ルナを守る事が出来る。
そんなはずはない。
あれは、四肢を奪えと言った。
あれは、一度でも欲したものは、必ず奪う。
だから、あれは、私という傀儡を失えば、別を見つける。
そして、あれは、必ずルナの四肢を奪う。
「逃げよう。」
どこに。
どうやって。
リュパンは、白妙の全てを支配していると言っていた。
その商才と人脈で、全てを網羅していると言っていた。
目の前にあるのは、固く閉ざされた鉄格子。
…鍵の在処は知っている。
この屋敷の全てを、私は、独り、磨き上げてきた。
此処で笑い合う人たちの小さな一言にさえ、従ってきた。
何が何処にあるかなんて、知らないはずがない。
それは、この鉄格子の鍵も同じ。
だから、逃げる。
白妙の全てが、リュパンの手の中だとしても。
この鳥籠の果てまで。
私は、渡された短剣を捨てた。
リュパンが館に居ない。
理由は知っている。
王に会いに行くと、私へと振り翳す拳と共に笑っていた。
何れ、王さえも呑み込むと、その不協和音を轟かせていた。
あれは、今日は帰らない。
手にした幾つもの宝珠が、あれの影を大きくする。
鎖に繋がれた私は、その歪な色彩を見送った。
命じられたのは、屋敷の清掃。
暁に帰るあれを饗す為に、全てを美しく甦らせる。
数え切れない部屋と広間を、私は、独り駆け回った。
何も苦しくない。
何も辛くない。
浴びせられる罵声さえ、いつか聞いた子守唄の様に触れる。
私は、一つしか見ていなかった。
それは、宝庫に隠された鍵。
鳥籠を解き放つ、私たちの扉。
一切れの硬いパンと、濁った水だけが私たちの一日の食事。
駆け回る足は、少しずつ悲鳴を上げていく。
漸く宝庫に手をつけた頃には、立つ事さえ眩暈の中に揺らいでいた。
それでも、私は光の中に居る。
全ては貴女に帰着する。
それだけが、私を動かす糧。
手に取る鍵。
最早、どれが何をあげるのかさえわからぬほどに吊り下げられた中に、私は唯一の答えを見る。
それは、ずっと見つめてきたもの。
どれだけ似ていようとも、間違うことなどない。
与えられ続けた痛みが、今、道を照らす燭台に灯る。
歪なメイド服に繕った小さな穴。
そこに鍵を忍ばせ、変わらぬ悪夢に身を委ねた。
リュパンは居ない。
しかし、使用人という仮面を被った悦楽の亡者は、館に蔓延っている。
既に略奪され尽くした尊厳の残り火を、強要されるままに切り売りし、彼らへと奉仕を尽くす。
それは、ルナと共に生き延びる為の代償。
全ては、ルナを守る為。
愛するルナを、決して手放したりはしない為。
震える手を押さえ、汚濁を啜り、溢れ出る雫を拭い、咽返る吐瀉物を嚥下する。
漸くつかんだ、大きな光のために。
それが、ルナと私を照らしてくれている間に。
「逃げよう。」
月明かりが、私の影を彩る。
見上げるルナを瞳に刻み、私は手を差し伸べた。
この時間だけは、誰も起きてはいない。
安らぎを奏で続けた刹那の旋律は、この一歩に音色を変える。
それは、鳥籠から飛び立つ私たちの讃美歌。
私たちから奪い続けた静寂の中に、誰にも触れられない壮麗な詩が、確かに響き渡った。
私たちを慈しんでくれる様に、ただ穏やかに、いつまでも…。




