第七楽章15節
歪な香りが、木々の間を漂う。
それは、大きな鍋から紡がれた悍ましい色彩。
それを嬉しそうに見つめるのは、リュテ。
「ね、ねえ…。これ、本当に大丈夫なの?毒じゃないの?」
心配そうに奏でるのは、プラム。
「これが最も効くんだよ。もうすぐ完成だ…。」
その音色を包み込む様に、リュテは微笑んだ。
「湧き出したら、火から鍋を下ろして、みんなに飲ませてほしいんだ。」
その囁きと共に差し出したのは、幾つもの小さなカップ。
「半分くらい注げば、充分だから。…プラム、お願いしてもいいかな?」
リュテは立ち上がりながら、柔らかく微笑んだ。
「わかったわ。リュテは、どうするの?」
表現し難い音を立てる鍋を見つめ、プラムはリュテへと問う。
「僕は、プロテアのところへ行くよ。力になれるかもしれない。」
「…危険だよ。戦っているのは、みんな訓練をしてきた人たちだよ。私たちが行っても……。」
「プロテアは、僕の父さんだ。血は繋がっていないけど、たくさん教えてもらって、色んなことを贈ってもらってきた。」
プラムの声を遮る様に、リュテは紡ぐ。
「もし、此処で何もせずに待ち続けて、プロテアが帰ってこなかったら、僕は、ずっと後悔する。」
「でも…。」
プラムの音色が不安気に揺れる。
「大丈夫。近づき過ぎたりはしないよ。僕は、弓士だから。自分の身を守ることを最優先するって、プロテアとも約束したんだ。逃げることだって大切だと、ちゃんとわかってる。」
リュテは、奏でる言葉と共に強く頷き、その足を戦場へと向けた。
「リュテくん。僕は、止めないよ。君の気持ちがよく分かるから。」
その背を包む様に、ユズリハが奏でる。
「僕だって、今すぐにでも行きたい。パシフロールが心配なんだ。」
振り向くリュテに、ユズリハは柔らかく紡いだ。
「でも、僕にはやるべきことがある。彼らの補助具を作れるのは、この場に於いて僕だけだから…。此処が、僕の戦場だと、確信している。だから…。」
ユズリハは、その穏やかな旋律と共に、大きな包みを取り出した。
「僕の代わりに、この子を連れて行ってほしい。」
それは、麗しくも強靭に紡がれた大きな弓。
そして、触れるだけで全てを斬り裂く様に研ぎ澄まされた、数本の煌めく矢。
「いつか、君に渡したいと夢見て作った弓なんだ。本当に渡せるなんて、思っていなかったけどね。…でも、旅をする楽しみとして、お守りにしていたんだ。」
懐かしい。
その感覚が、リュテの手に触れた。
初めて手にするはずなのに、まるで共に過ごした家族の様に、馴染んでいく。
小さな頃、父と母に繋いでもらった手の様に、暖かく包み込んでいく。
「鍛冶屋としての僕の、最後の作品だよ。大人でさえ扱うのが難しいほどに強力だから、持っていくだけでいい。それでも、共に歩んでほしいんだ。」
「そこまで言われると、使いたくなるよ。ありがとう。」
リュテにとって、それは、まだ重い。
だが、それさえも愛おしく感じるほどに、その色彩は、リュテの心へと折り重なっていった。
「行ってくるよ。……プロテアのことだから、きっと今夜は宴だ。その時に、ゆっくり話そう。」
「楽しみにしているよ。」
交わされる言葉と握手。
その温もりが、足跡を紡ぐ糧となる。
例え、何があろうとも、必ず帰る。
みんなと、共に。
その意志が、次の一歩を彩った。
リュテの知らない世界を彩る地獄。
森の先に広がるのは、揺るがない事実。
その覚悟は、できている。
強く握りしめた拳は、自らの震えを抑え込む。
「これは、僕の戦いだ。僕にも守るべきものがある。それは、これから大きくなる。その一歩なんだ。絶対に、退かないよ。例え逃げることを選ぶとしても、退いたりはしない。例え負けることになったとしても、退いたりはしない。この一矢に意味を見出す…。」
自らを鼓舞する様に、一つ一つ増えていく足跡へと紡いでいく。
後一歩で瞳に刻まれるであろう色彩から、目を逸らさないために。
散りゆく、赤い花弁。
崩れゆく、砂の傀儡。
それを覆い尽くす、悲痛な叫びと怒号。
その先に彩られるプロテアと宝珠。
誰よりも眼が良いと褒められたリュテの瞳に刻まれたのは、一つの不協和音。
それは、リュパンの足掻き。
「子虫が…、許さない…。」
ニゲラに欺かれ、プラタヌの魔法とパシフロールの魔力を纏ったプロテアの剣によって、その全てを貫かれた宝珠。
崩れ落ちる欠片を繋ぎ止める様に、粘つく黒液が一つ一つを掴む。
「もう要らん。全て壊してやる。」
重なることのない宝珠の欠片たちを埋める様に、黒液が肥大していく。
それを斬り裂こうと一閃を放つのは、ニゲラとプロテアの剣。
だが、黒液は、それを絡みとり、蠢きの奥へと掴み取る。
「退くぞ。」
プロテアの怒号。
それは、剣を手放すということ。
そうしなければ、二人とも呑み込まれてしまう。
二つの影が低く跳び、プラタヌの元へと戻る。
残された剣は、一本の大剣。
プラタヌも、パシフロールも、魔力は残っていない。
だが、まだ希望は残っている。
「リュパンからは、もう魔力を感じない。」
プラタヌが呟く。
「魔力も、呑み込んだ魔獣の灯火も、底をついた様だ。」
それでも、不協和音は消えない。
「あれは、宝珠の足掻きだ。宝珠そのものが、全てを壊そうとしている。」
そこに、悪意はない。
宝珠は、ただ身を守るだけ。
その旋律に黒い色を塗るのは、リュパンの意志。
「だが、後一歩だ。もう一度、刃と魔法を叩け込めば、あれを止めることができる。」
それは、予想ではなく、確信。
それ程までに、宝珠は弱り、そして、足掻いている。
「どうやって、叩き込む?残る大剣は、一本。それも、宝珠を貫いた剣だ。既に形を保つだけで限界だ。あれに届くより先に折れる。」
プロテアは、自らの手で握る柄を見つめる。
「わかっている。何より、刃と共に紡ぐ魔力がない。」
その色彩に頷き、プラタヌを見つめるニゲラ。
「砂の兵と戦う騎士たちの元へ、剣を借りに行くか?」
プロテアが囁く。
「その時間を与えてくれるとは、思えない。」
紡ぐ音色は、自らの瞳を彩る影を示す。
そのプラタヌの旋律に、ニゲラとプロテアは構えた。
迫り来る黒液の手。
既にそれは、リュパンの形を生み出していた。
「ニゲラ、お前は剣を取りに行け。こいつは、俺が止める。」
ニゲラを制し、プロテアが飛び掛かる。
「わ、私も戦えるわよ。魔獣は力持ちなの。」
それにカノンする様に、パシフロールが跳んだ。
迫る手を裂き、リュパンへと切先を彩る。
それは閃光の如き突きとなり、リュパンへと迫る。
「そんなに喰われたいのか。」
リュパンの形を作った黒液が、巨大な口となって開かれる。
「さ、させないわよ。」
それを抑え込んだのは、パシフロール。
「大きいだけの愚物が…。」
灯火を尽くし、不協和音を止めようとするパシフロールを、幾つもの小さな棘が貫く。
「う、ぐ…、プラタヌは、可憐と言ってくれたわ…。私は、愚物なんかじゃない。」
痛みよりも、重いものが、パシフロールにはある。
「貴方なんかの言葉は、誰にも届かない。私の心を彩るのは、愛に紡がれた詩だけよ。」
パシフロールの叫びが、リュパンを形作る黒液を揺らす。
そして、その旋律に触れたプラタヌは、少し顔を赤くした。
未だ舞い続ける、残された聖光の粒。
粉雪の如く煌めく舞は、最後の一欠片を探している。
「見つけたぞ。良いものがあるじゃないか。」
それを剣に絡め取り、空高く振り翳すプロテア。
「穿てぬとも、抗える。」
その笑い声と共に、リュパンを斬り裂いた。
「ならば、散れ。」
一つの眼。
そして、二つの剣。
リュパンの奥へと埋められた、ニゲラとプロテアの剣。
それが、プロテアを貫いた。
流れる赤。
そのせせらぎは、灯火を運ぶ。
ただ、それに手を伸ばすことを、プロテアは決してしない。
「お前も連れて行ってやるよ。寂しがり屋だろう?」
プロテアを見つめ続ける、リュパンの瞳。
残されたプロテアの剣は、その瞳を貫いた。
纏うのは、聖光の奏。
響き渡る歪な叫び声。
パシフロールとプロテアを手放し、のたうち回る。
それは、リュパンを焼く痛み。
そこから止めどなく流れ続ける怒り。
その臨界が、暴発に触れた。
「全て、消え………。」
それが奏でられたなら、この荒野は消える。
宝珠そのものの力の枯渇と引き換えに、全てを奪い去る。
それは、宝珠の長い眠りを促すだろう。
ただ、宝珠を除く、ここに居る全ては、二度と目覚めることはない。
それが、奏でられたならば。
一つの、麗しい矢。
纏うのは、禁呪。
「……私から逃げたお前たちが、私を捕まえようというのか…。」
歪むリュパンの囁き。
「私の愛を踏み躙った人形如きが…。」
それは、此処に立つ誰に向けられたものでもない。
「私の、……愛おしい…。」
ただ静かに、その奥へと紡がれていく。
「な、何を言っている…。」
不可解。
それだけが、プラタヌの頭を支配している。
「何か、仕掛ける気か…?」
だが、その覇気さえ感じることはない。
ただ、矢から芽吹いた花々が、宝珠の全てを包んでいく。
紡いだのは、メルの奏でた旋律。
花を咲かせる魔法。
それを繋げたのは、ユズリハの矢。
そして、それをリュパンへと届けたのは、リュテ。
目に見えぬ程の遠い先で、小さな手が、それを成した。
大人でさえ扱い難い弓。
それでも成すことができたのは、数え切れない想いと祈りが織り成した奇跡。
その中心で煌めくのは、愛。
聖光の奏が探し求めた、最後の一欠片。
舞い踊る粉雪の如き煌めきは、花々を纏う一つへと収束していく。
それは、宝珠の力と共鳴し、淡く溶けていく。
大地に触れ、大樹に繋がれた宝珠は、芽吹いた花に身を委ねた。
静寂の中に潜む様に、ゆっくりと、全てを閉ざしながら。




