第五楽章10節
もうすぐ、星が降る。
故に、アブリコは焦燥に触れ始めていた。
宵闇に紛れることは、奇襲を容易くする。
それは、花の国の盾にとって、好都合だった。
だが、それは、魔獣にとっても、同じ。
黒き色彩に棲まうものにとって、闇こそが狩場。
本来ならば、その地へと赴かなければ済むこと。
ただ、魔獣の集いし戦場に、恐らくそれらも居る。
ただ願うのは、無垢なる灯火が、それに触れぬこと。
人族であれ、魔族であれ、獣であれ…、魔獣であれ。
平穏の道に足跡を残せるのなら、それが最も望ましい。
これは、アブリコが剣を握るよりも、ずっと前から抱き続けた祈り。
故に、剣を握ることとなった、誓い。
だが、その魔獣でさえ、既に呑み込まれていた。
捕食者に名はない。
故に、御伽話に擬えて、一つの音色を紡ぐ。
「魔神。」
アブリコたちへと向かう蹄の連なりが、叫ぶ。
「魔神が出た。逃げろ。」
それは、かつて、白妙が誇った最高戦力、グランディオーソの御旗。
「我々は、花の国の騎士団だ。魔神とはなんだ。」
アブリコが、迫り来る旋律を穿つように奏でる。
魔神という存在は、知っている。
何度も読んだ御伽話に出てくる。
だが、そんなものが、本当に存在するなど、聞いたことがない。
それに近いもの、神獣は、先の大戦で灯火を手放した。
「わからん。ただ、禍々しい魔力だけは響いてくる。最早、人の手に負えぬ。逃げよ。」
やがて重なり合う色彩に、荒げた吐息に奏でるのは、グランディオーソ副騎士団長イキシア。
「ならば、尚のこと、放っては置けない。ここで、食い止める。」
アブリコは、その剣を盾として構える。
「勝算は?」
イキシアの旋律が、荒野に響く。
「我々だけでは、全く無い。だが、元勇者テラが、ここに向かっている。」
アブリコは、高らかに奏で、魔神へと蹄を奏で始めた。
「待て。無闇に墓標を立てることは、名誉とは言わん。」それにカノンするように、イキシアは叫ぶ。
「ならば、問う。騎士団長は、どこに行った?」
それは、一つの答えを紡いでいた。
皆を守り、導くことだけを考えて、ここまで駆けてきた。
グロリオサは、殿を務めていると、疑いもしなかった。
だが、それは、思い込みに過ぎない。
イキシアは、この刹那に、全てを知った。
グロリオサの想いを。
グロリオサが成そうとしていることを。
そして今、グロリオサが何処で、何をしているかを。
「我々も行く。着いてこい。花の国が誇る盾たちよ。」
故に、魔神へと立ち向かうことに、迷いはなくなっていた。
その瞳へと描かれるのは、グロリオサ。
既に抜いた剣を掲げ、イキシアは、駆け抜ける。
その先に立つ、二つの影。
振り翳される、巨大な手。
構える剣が、それを映し出す。
そこにあるのは、数多の魔獣だったものと、魔神と呼ばれる影。
そして、グロリオサのみ。
プロテアの姿は、終ぞ見つけることはできずにいた。
「お前が、呑み込んだのか。」
ゆっくりと紡がれる旋律。
その震えは、恐怖ではない。
「お前が、食ったのだな。」
それは、怒り。
「その腹を裂いて、助け出す。」
グロリオサが奏でるのは、美しき剣の舞。
それと対峙して、無事でいられるものなど、ほとんど居ない。
「私のもの…。」
魔神から漏れる音色。
そこに色はない。
そこから伸びる無数の手が、グロリオサの腕ごと、その剣を噛みちぎった。
「そうか、お前は魔神だったな。魔神というのは、何でも食らうのだな。」
残された手で、転がる剣を握りしめる。
蛇の如く畝る無数の手を、少しずつ切り落としていく。
だが、それは、初めからなかったかのように、新たな色彩を育む。
その争いの行く末は、儚く揺れる。
ただ静かに、それを赤く染めて。
今も尚、立ち続ける影。
そして、地を這う、もう一つの影。
グロリオサは、既に両腕を失い、うまく立ち上がれずにいる。
それを見下ろし、その口を、巨大な洞窟のように開く。
魔神に食われる。
もう、それに抗う術を持っていない。
「時間稼ぎができただけでも、良しとしよう。」
虚な色彩の中で、夢と現の狭間に手を伸ばす。
グロリオサは、ゆっくりと視界に瞼を添えた。
故に、その風を切り裂く音が何か、すぐに理解できた。
「次だ。」
アブリコの咆哮と共に、再び矢の雨が降る。
「次。」
繰り返される雨。
土を貫く雨音が、戦場を包む。
それが止んだのは、魔神がグロリオサを手放した刹那。
駆け出したのは、イキシアと、アブリコ。
グロリオサを抱くより早く、アブリコは剣を構え、自らを盾と成す。
「グロリオサ…、親友よ…。」
それは、腕の中で、微かな吐息を奏でる。
まるで、可憐な花を抱くように、イキシアは彼を包み込んだ。
「戻ってきたのか、イキシア…。」
グロリオサは、囁くように紡ぐ。
「お前に、頼みがある。」
それは、グロリオサが抱き続けた夢。
「自由の街…。白妙の都跡地に、それを築いてくれ…。」
そよぐ風よりも儚く、ゆっくりと紡がれていく。
「人族も、魔族も、魔獣さえもない。自由の街だ…。」
霞ゆく瞳で、イキシアを掴む。
「お前に託す…、イキシア………。」
途切れ始める詩。
「約束しよう、グロリオサ。願わくば、共に、それを見よう。」
イキシアは、雫を隠すように微笑んだ。
「そう…だな……。ありが…とう……。」
消えゆく灯火は、降り注ぐ星と混ざり合い、月に抱かれて、永遠に触れた。
「彼を、安全な場所へ。」
魔神から距離を取り、騎士団員へと、グロリオサを託す。
「いいのか?もう会えないかもしれない。」
アブリコは、小さく奏でた。
「構わないさ。そうなれば、別の世界で再会できる。」
握る剣に、迷いはない。
「テラが来た時、成すべきことがないと思わせてやろう。」
あるのは、秘めた怒り。
かつて争った二つの国の騎士団が、手を取り合い、魔神と対峙する。
余韻さえも、触れる間も無く溶け落ちる荒野で、その色彩は、幕を開けた。




