第五楽章8節
その旅路は、途方もない足跡を刻み続けた。
語りかける不協和音が、大地を覆う。
それは、魔力を持つものを誘惑する。
ただ、それは、その旋律を奏でる者の意識には無い。
あるのは、ただ一つ。
宝珠を生み出す二人の聖女。
「ステラ…ルナ…、ステラ…、…ルナ……。…居た。」
捉えたのは、遠くに揺れる煙。
焼き菓子の芳しさを纏う色彩を見つめ、リュパンは、歪んだ微笑みを奏でる。
それは、リュパンに間違いない。
それが彼であるならば、持つはずのない魔力を宝珠の奥へと潜ませる。
故に、誰にも気づかれずに、そこへ辿り着くことができる。
その浅はかな絵図は、そこから漏れる歪な魔力と、禍々しい影に崩れている。
だが、彼には、それを慮る必要などない。
宝珠に閉じ込められた終わり無き地獄から溢れ出る欲望の為に。
ただ、それだけの為に、その歩みを紡ぎ続けた。
それも、間も無く終末地へと辿り着く。
その予感は、遠く離れた地を駆け抜ける穏やかな魔獣を貫いた。
何故、リュパンの色彩を成す彼が、ステラとルナを求めるのか、それを知ることはない。
だが、それらが織り成す旋律だけは、その心に強く反響する。
「急がないと…。」
瞳には、幾つもの雫が溢れている。
その一つ一つが、ステラとルナが配らってくれたリボンに触れる。
そこに繋げられたリュテの矢が、その頬に触れる度に、心を強く保とうと首を振る。
荒く奏でられる吐息は、モフの目指す遠い地に歪む、影へと手を伸ばす。
守りたい。
ステラもルナも、リュパンに取り込まれた大切な友人も。
モフの願いは、それだけだった。
それを嘲笑うかの様に、不協和音が、空を覆った。
その歪つな魔力は、ロベリアで無くとも、魔族であれば感じることができる。
それは、リュパンの奏でる、歓喜のファンファーレ。
ここからどれだけ逃げようとも、捉える事ができるという確信。
もう、何もかも、隠す必要はない。
ただ欲望のままに、喰らい尽くす。
その悍ましい口が、ゆっくりと開かれた。
穏やかな子守唄が途絶え、ゆっくりと空を見つめるルナ。
「これは、なあに…。」
その震える音色に、私は顔を覗き込む。
「大丈夫…?」
「ステラちゃん…、逃げよう…。」
これまで、ルナは逃げようとしなかった。
どれだけ怖い魔獣を目の前にしても、友達になろうとした。
だからこそ、たくさんの家族ができた。
それは、ルナが無垢で天真爛漫で、誰もを虜にする女神で、世界一可愛くて可憐で愛おしい天使だからだと確信していたし、今も尚、それは変わらない。
ただ、ルナは、ちゃんとわかっていた。
それが、脅威なのか否かを。
私は、今になって、そのことに気づけた。
「ピヨちゃん、村のみんなを集めて。逃げる時が来たよ。」
私は、空に向かって叫ぶ。
「愚か者が。もう遅い。」
矢のように降り立つピヨは、鋭い瞳に二人を彩る。
「我が、お前たちより遅く気づくとでも思ったのか?」
そのため息は、わずかな猶予が残されていることを奏でている。
「お前たちも急げ。みんな禁足の森へと向かった。」
そこは、かつて神獣リリブランシェが生まれ、その子であるオルムブランシェが育った森。
今は亡き古の龍の棲家と対を成す、この地の聖域。
「だが、そこも、この魔力の保持者に理性がなければ、意味をなさないが…。」
森へと駆ける私たちと並走するように舞うピヨが、小さく紡ぐ。
「それでも、我々には、そこしかない。」
ピヨが、空高く舞い上がる。
その空の下に、ユニとコンが駆け寄ってくる。
「迎えだ、乗って駆け抜けろ。我は、少し用を済ましてくる。」
その言葉と共に、ピヨの影が空へと消えた。
代わりに彩られるのは、二匹の馬の魔獣。
「ユニちゃん、コンちゃん、ありがとう。」
私は、その鬣を撫で、ルナをユニへと乗せる。
「ステラちゃん、ありがとう。ステラちゃんも早く…。」
「うん。行こう。」
私は音色を紡ぎながら、コンに跨り、蹄の旋律を背に残す。
ただ、私は人族で、争いなんて知らずに生きてきた。
魔族と出会ったのも、ルナが初めて。
魔力に触れたのも、あの牢獄の色彩より前にはない。
この歪な感覚が、魔力によるものであるとさえ、私にはわからなかった。
「ルナちゃん、一体、何が起きてるの?」
激しく揺れる背にしがみ付きながら、私は問いを奏でる。
「わからないの…。でも、とても危険な気がするの…。」
「も、もしかして、魔王…?」
「魔王様にあったことはないけれど…、良い人と聞いているの。」
「その話は、本当だったのね…。どんな人なのかな。」
「噂だけれども、よく蜂に追いかけ回されてるそうなの。」
「…何だか、私たちみたいね………。」
「会ってみたいね。」
「会いに行っちゃう?」
「どこに居るのかしら…。」
「魔王なんだから、魔王城じゃないの?」
「ずっと昔に、家出したそうなの。」
「ますます、親近感が湧くわね…。」
「でも、今は、逃げなきゃ…。」
「…忘れていたわ。今日のルナちゃんは、とてもしっかり者ね。」
「ふふ、私は、いつもしっかり者なの。」
「うん。いつもしっかり者だよ。今日は特別とてもしっかり者だなって思ったの。」
「本当?嬉しいな。でも、ステラちゃんは、もっとしっかり者なの。」
「そんな事ないよ。いつも、ルナちゃんに支えてもらっているもの。」
「じゃあ、お互い様なんだね。」
「うん、お互い様。」
いつの間にか、森に着いていた。
木々の生い茂る薄暗い色彩の奥。
そこには、長く意思を持つものは立ち入っていない。
木漏れ日すら、そこには存在しない。
それは、この森に潜む全てを隠すように紡がれている。
全ては、リリブランシェが、我が子を護る為に施した自然の結界。
木々が放つ強大な魔力が、その中にある全てを包み込む。
故に、全てが溶け込み、全てを隠す。
「これなら、きっと安心なの。」
ため息と共に、ルナは奏でた。
「あれは、悪い魔力ということよね…。誰か悪い人が来たということなのかな…。」
私は、震えるように紡ぐ。
「わからないの…。ただ、でも、何もかもを食べ尽くしちゃいそうな…、そんな魔力だったの…。」
「食いしん坊の魔獣とかかしら…。」
「そうだと良いけど…。」
少しずつ、静寂へと堕ちていく深い緑闇。
小さな風が、草木を揺らす音色だけが、時の流れを詩う。
もう去ったのだろうか。
そう思うほどに、時の流れを感じた。
「まだ、隠れていた方が良いのかな…。」
小さく囁く私の音色。
それを切り裂くように、不協和音が鳴り響く。
「隠れても無駄だ。」
その声を、私たちは知っている。
「宝珠が私を繋いでいる。」
忘れることなんて、絶対にない。
「出てこい。」
蘇る、牢獄での地獄の色彩。
「ステラ、ルナ。」
私たちが逃げ続けた影。
「私の物。」
鼓動が、この身の中に爆ぜる。
全身の震えが、視界を揺らす。
手繰り寄せる指先に、ルナの存在を確かめる。
ルナもまた、私と同じであった。
いつもなら、安心する温もり。
それでも、冷たく、震えが止まらない。
「リュパン…。」
溢れ出す雫と、喉の奥へと繋ぎ止める嗚咽。
ようやく出た音色は、呪禁の如く、闇へと溶けた。




