第五楽章2節
リュパンを成す器。
その魂は、悲痛に溺れている。
その叫びは、喉の奥へと仕舞い込まれ、何も奏でない。
代わりに蠢くのは、リュパンが紡ぎ続ける欲望。
その果てに渇望するのは、一つの宝珠。
それは、ルナの雫のはずだった。
そして、それだけであるならば、彼は、凡ゆるものへと手を伸ばしていた。
彼が織り成した煉獄の園で芽生えた、もう一つの宝珠。
ステラの雫が、ルナの雫と混ざり合った時、他の全てが霞んで見えた。
リュパンにとって、彼女たちが彼女たちである必要は、もうない。
二人が寄り添い合っている事こそが、その宝珠の糧となる。
それを繋いだのは、一つの種。
それは、魔王の生み出した、慈しみの祈り。
その秘められた魔力を、命を司る魔法と呼ぶ。
それは禁呪であり、禁呪であるからこそ、ひとつの禁呪と共鳴する。
それは、レーヌが奏でた、砂塵の詩。
相反する禁呪のシンフォニーを宿した宝珠を、リュパンは呑み込んだ。
故に、宝珠は、リュパンの欲望を宿し、リュパンをその中へと抱いた。
それは、二度と出られぬ鳥籠。
砂塵と化した白妙の都の土に埋もれ、陽光さえも触れられずに、忘れ去られるはずの運命。
それが、リュパンの末路。
もし、彼が、誰よりも執着し、誰よりも欲に溺れる、リュパンでなければ。
そして、もし、世界から見向きもされなかった哀れな魔獣が、それに触れなければ。
その二つが反響し合い、やがて一つの旋律を成す。
今、荒野を独り歩むのは、リュパンの形を成す者。
彼を動かしているのは、世界に散らばった宝珠という糧を貪ろうとする欲望。
それは、禁呪そのものとなった宝珠の本能。
故に、リュパンは、存在が禁呪と成り果ていった。
彼は、それでも、歩き続けた。
ただ、ひたすらに、ステラとルナの灯火だけを見つめて。
もうすぐ、それに手が届く。
その予感に、歪な微笑みを浮かべながら。
ここは、白妙と漆黒の境。
花の国の領地と認められた、第一次ブランノワール戦争の戦場跡地。
人影の途絶えた静寂の地に、一つの歯車が動き出す。
それは、少しずつ、世界を飲み込んでいく。
だが、誰もまだ知らない。
リュパンが、ただの商人であったが故に。
そして、権力と財力だけが、リュパンの全てであったが故に。
彼という本当の存在を知っているのは、二人だけ。
それは、ステラとルナ。
「み…つけ…た……。」
見つめているのは、地平線の果ての見えぬ二つの光。
「私の…もの……。」
リュパンだけが感じ取れる、宝珠を生み出せる存在の旋律。
「私だけの…。」
彼は、誰にも渡さない。
人族にも、魔族にも、付き従う魔獣にさえも。
ただ一人、リュパンだけが、全てを取り込む。
それが、彼の存在の意味であり、唯一の望み。
その望みに手が届く。
それを、彼が知った刹那、宝珠に宿る澱みが、器へと反響する。
相容れないそれは、器から溢れ出し、空を覆いはじめた。
それに気づいたのは、幾つかの影。
その一つが、遠い森の傍らに佇む魔獣。
「いかなきゃ…。」
少しずつ言葉を紡げるようになった穏やかな彼女は、それよりも願うことがある。
それは、リュパンの器となった魔獣を抱きしめること。
君を知っているよと、伝えること。
モフは、遠い空を見つめ、離れることのなかった地に、小さな足跡を残した。
風がそよいでいる。
まるで、何もないかのように、穏やかな香りが荒野へと流れる。
それでも、モフは安らぎを見つけることはできない。
孤独の中で旅路を紡いできた彼が、悲痛な叫びを魔力へと奏でている。
それを確かに、彼女は、この空に見た。
「待っててね。」
彼との再会が、彼らに何をもたらすかはわからない。
望まぬ未来を描くかもしれない。
そんな事は、モフにとって些細なこと。
彼が森を去った時、モフは気づかなかったのだから。
そうなる前に、抱きしめることができなかったのだから。
ただ、会いたい。
それさえできれば、きっと、伝えることができる。
揺らめく雲が、少しずつ形を変えていく。
その行き着く先は、漆黒の森。
その奥に聳えるのは、かつて神王を名乗り、魔族の王を冠した者の住まう塔。
ロベリアは、その雲に纏う魔力を見つめる。
それは、リュパンを取り込んだ宝珠の歪みを奏でる魔獣の叫び。
「何だ、この禍々しい魔力は…。」
それが、魔獣によるものである事は、見当はつく。
だが、それを奏でることのできる魔獣を知らない。
「プラタヌ、聖域に行き、レーヌに伝えてくれ。」
空を見つめたまま、ロベリアは囁いた。
だが、返事はない。
「プラタヌ、どうした…。」
ロベリアは、ゆっくりと振り向く。
その瞳を彩った、一つの影。
それは、モーヴだった。
「え、あ、私ですか?」
モーヴが、慌てたように答える。
「プラタヌは、何処へ行ったの…。」
ロベリアが、呆れたように呟く。
「えっと…、お花を摘みに…。」
「そうか…。」
小さな沈黙が、お互いの微笑みを寂しく包み込む。
「まあいいや、モーヴ、行ってもらってもいい?異常な魔力を持つ魔獣が居るかもしれないって、伝えてほしいの。」
ロベリアは、ため息と共に紡いだ。
「はい。今すぐに。」
モーヴが深く頭を下げ、この空気から逃げるように、佐敷の庭へと駆け降りて行った。
「何も無ければ、良いけど…。何もないなんて事は、無さそうね…。」
ロベリアの瞳を埋め尽くす空は、静寂を奏でていた。
「あれ?モーヴは、何処へ…。」
空を睨むロベリアの背に奏でられる音色に、小さなため息が風に舞う。
「…君がお花を摘んでいる間に、大切な任務を遂行しにいったよ。」
ゆっくりと振り向くロベリア。
「私も、これから、花の国へ行く。おそらく、メルも気になっているだろうから。今後の話をしたい。」
穏やかに紡ぎながら、プラタヌの肩に触れる。
「君は、モーヴに頼もうと思っていた塔の管理と、みんなの統率を頼むよ。そのうち、この魔力に気づいた者たちが、騒ぎ出すだろうから…。」
少しずつ育つ挿し木は、そこに四季を纏わない。
穏やかな風に新緑が揺れ、悠久を語る。
その奥に潜む扉を開くのは、メルから与えられた指輪だけ。
その小さな鍵は、聖域の大樹と繋がり、そして、点在する挿し木へと繋がる。
まるで、メルが愛する地への想いが巡るように。
故に、メルは、挿し木の彩られる庭で、お茶を嗜むのが好きだった。
花の丘。
その中央に広がる小さな庭園は、黄色のアルストロメリアの海に浮かぶ、大樹の島。
それは、テラとメルが、ここに辿り着くより遥か昔から存在している。
その大樹の傍に植えられた挿し木は、寄り添うように小さな花を紡いでいた。
「ねえ、テラ。」
「どうしたの、メル。」
穏やかな音色が、その島を包む。
「今日も平和ね。」
「そうだね。このまま、穏やかな日々が続くと良いね。」
カップが、ソーサーへと響く。
「うん。最初はぎこちなかった花の国の子達も、今は誰が魔族で誰が人族か、すっかりわからなくなったわ。」
「いつか、彼らが、家族となって、子供を産んで、そんな子たちが、また家族となって、子供を産んで、気づけば、境は無くなるよ。」
テラは、カップの縁へと口付けをしながら囁く。
「いつか見た、語れば嘲笑われる夢が、手に届くところまで来たのね。」
メルは、それに呼応するように、香りを楽しみ、微笑んだ。
「しっかりと掴めるように、私たちも最後まで力を尽くそう。」
テラの微笑みが、メルを包み込む。
静かな風が、島を流れた。
「メル。」
それを劈く叫び声が、花の丘に響き渡る。
その旋律に、飛び散る紅茶。
慌てて立ち上がったテラとメルの足元には、椅子が倒れる。
「…何してるの?」
挿し木から現れたロベリアが、この惨劇を呆然と見つめる。
「え…、驚いたから…。」
重なる二つの音色が、小さく揺れた。
「もしかして、空を覆う魔力に驚いたの?」
ロベリアは、真剣な眼差しで、二人へと紡ぐ。
「魔力…?あ、本当だ…。何だか不思議な魔力ね…。」
メルが空を見つめ、囁く。
「も、もしかして、気づいてなかったの?」
「ごめんね、ロベリアちゃん。今、気づいたの…。」
「そう…。」
魔王たる者、これくらい大きく構えていないといけないのかもしれない。
そう感じたロベリアは、少し頬を染めた。
「ロベリアちゃんは、いつも敏感で凄いね。」
柔らかな微笑みを彩るメル。
メルは、ただ鈍感なだけであった。
「とにかく、最近の多くの魔獣の動きとも関係があるかもしれないわ。花の国の領地にも及んでいる。テラ、動くべき時ではないかしら?」
ロベリアは、何事もなかったかのように、席につき、メルの焼いたクッキーに手を伸ばす。
「そうだね。花の国の領地であれば、白妙を刺激することもない。私たちのすべき事を、進めよう。」
もう既に準備はしてある。
それを遂行するために、情報を整理していく。
三人は、花の砦へと向かった。
花の砦、弔いの庭に揺れる挿し木。
第一次ブランノワール戦争により、その灯火を失った者たちが眠る聖域。
そこは、砦が戦火に飲み込まれても尚、傷一つ彩ることはなかった。
それは、メルが何重にも張り巡らせた結界の齎すもの。
全ては、ここに眠る者たちを守るため。
その眠る一人が、ラシレ。
荒野の民を率いた幼き女傑。
彼女と共に歩んだのは、チユ。
彼女は、毎日、欠かさず弔いの庭へと赴いていた。
「最近は、治癒魔法が安定してきたんだよ。たくさん使っても、倒れたりしなくなった。」
小さな墓標に、チユは微笑みかける。
「あの時、この力があったのなら、ラシレ、君を助けることができたのかな…。」
悔いても戻らぬ残響。
わかっていても、紡いでしまう。
その静かな詩は、いつだって泣き叫びたい想いを唇へと仕舞う。
「次は、無いよ。私が、この目に彩った傷は、必ず治すんだ。見ててね。」
ゆっくりと立ち上がる。
見上げる空には、雲が消えていた。
きっと、想いは届くだろう。
あの向こうに、ラシレが居る気がして、チユは優しく笑いかけた。
その刹那、背後に現れた巨大な魔力。
「チユちゃんじゃないか。会いたかったよ。君に会う為に、ここに来たんだ。」
肩を跳ね上げるチユに、陽光のような旋律が響き渡る。
「ロベリアさん…、驚かさないでください…。」
ゆっくりと振り向くチユに、ロベリアは駆け寄り、両手を包み込む。
「ごめんね。メルと大切な話があって来たんだけど、私が出向いたのは、チユちゃんに会うためだったんだ。まさか、来てすぐに会えると思ってなくて。嬉しいよ。」
急ぐように奏でるロベリア。
「そ、そうですか。何か用ですか?」
目の前に立つのは、魔族を束ねる者。
魔族であるチユにとっても、本来ならば、畏れ多き者。
だが、チユにとって魔族は、家族を奪った者。
故に、その頂点に立つロベリアもまた、全てを晒け出せるほど、近づく事はできずにいた。
「チユちゃん、少し二人で話したいの。いいかな?」
それを知りながらも、ロベリアは我が子のように接する。
ロベリアにとって、チユは守るべき者であり、そして、償えぬ罪を抱く存在でもある。
首を傾げるメルとテラを背に、ロベリアは庭の隅へとチユを誘った。
「チユちゃん、少し辛い話になるかもしれない…。いいかな?」
ロベリアは、少し俯きながら囁く。
「辛い話?」
チユの瞳が、少し揺れる。
「そう。君の…、家族のことだよ。」
ロベリアは、知らなかった。
チユの一族が、魔力を持たぬ事を。
そして、それ故に、ブランノワール開戦時に、迫害を受けた事を。
それは、チユが治療魔法を扱えることが露呈し、その稀なる力を欲する魔族から逃れるために、家族と袂を分ってから、幾分も経ってからのこと。
その顛末は、チユさえも知らずにいた。
だからこそ、チユは、不安と罪悪感の中で生きてきた。
「私の家族が、どうしたの…?」
辛い話。
それだけで、答えがわかった気がした。
お父さんと、お母さん。
そして、ルナお姉ちゃん。
きっと、三人は、もうこの世界には居ない。
そう覚悟して、チユは、瞳にロベリアを刻む。
「まず、お父さんとお母さんの居場所は、わかったよ。…随分と探したよ。小さな集落があってね。そこは、僅かな魔力を持つ魔族が、寄り添いあって生きているんだ。」
ロベリアが、ゆっくりと奏で始める。
「そこに、二つの小さな墓標があった。…君の………お父さんと、お母さんの眠る地だよ…。」
ロベリアは、深く頭を下げながら紡ぐ。
「ごめんね。全部、私のせいだ。私が、戦争を始めなければ…、こんなことには…。」
違う。
ロベリアのせいじゃない。
そんなことは、チユはわかっている。
それでも、それを口へと奏でることはできずにいた。
「ごめんなさい。本当に…。…その場所は、改めて教えるよ。出来れば、会いにいってほしい……。」
深く頭を下げたまま、ゆっくりと紡ぎ続ける。
「ロベリアさん。ルナお姉ちゃんは…。」
ロベリアの言葉へ応えるのを避けるように、チユは紡ぐ。
「ルナさんは…、まだ足取りを掴めていない…。荒野へと駆けて行ったのを見たと聞いた。でも、その先は…。今も、探してはいるよ。ただ、何の手がかりも見つからない…。」
「そうですか…。わかりました。」
チユは、静かに頭を下げ、弔いの庭を後にする。
「ありがとうございます。では、また。」
小さな扉を開けながら、頭を下げたまま動かないロベリアへと、静かに紡ぐ。
その深く沈んだ音色を残して、チユは扉の向こうへと溶けていった。
「ロベリアちゃん…。」
メルが、優しく背中を撫でる。
その温もりに、ロベリアは瞳に彩る雫を飲み込んだ。
「平気…。それよりも、これからの話をしなきゃね。花の国の盾と剣の騎士団長は、集まっているの?」
繕う微笑みを奏でながら、ロベリアは囁く。
「もう、集めてあるよ。でも、少し休んでからの方がいいと思うよ。」
テラは、穏やかに奏でた。
「ありがとう。でも、平気だよ。私の個人的な問題だから。行こう。」
ロベリアは、俯く顔を再び上げ、揺るがぬ瞳で奏でた。
今、すべきことはひとつ。
不穏に奏でられた魔力が、世界を貪り始めるより早く、それを鎮める。
その為に与えられた時間は、多くはない。
王として、ロベリアは、ゆっくりと立ち上がった。
遠い空で、魔力が歪んでいる。
それは、ステラとルナを見つめるように、ゆっくりと流れていった。




