第一楽章10節
その日、白妙の裏切り者と呼ばれ、この地を追われた元勇者が、再び此処へ足跡を彩った。
それが齎す全ての旋律を、まだ、誰も知ることはない。
ただ、その音色は、この都を包み込むように、静かに奏でられ始めた。
その一つが、壮麗な刃となって、リュパンへと渡る。
「お前は恋をしたな。」
その微笑みは、深く粘つく不協和音となって、私の耳を劈く。
呼吸が、できない。
息の吸い方さえ、思い出せない。
そのことさえ、忘れてしまう。
私の心を満たすのは、たった一つの言葉。
何故。
私は、気づかれぬように振る舞ってきた。
傀儡と言い聞かせ、求められることを演じてきた。
全てが、音を立てて、崩れ落ちる。
「…ご主人様、何を……。」
ようやく紡げた細い音色は、足元に揺れる。
「何も恥じる事はない。記念に、これをやろう。」
飼い主が取り出したのは、壮麗なる彩りを奏でる短剣。
その歪な笑みを、私は見ることができない。
もう、私には、拒絶という言葉さえ、霞んでいる。
ただただ、彼を見ることができずにいた。
「先程、市場の商人から買ったものだ。美しいだろう。」
その刃に映る自らの瞳を見つめ、飼い主の濁った酔いの香りが、彼の吐息を奏でる。
「美しいお前に、相応しい。これも、錬金術といえるな。」
傲慢な旋律が笑い、私を撫で回した。
裾を握る私の腕を持ち上げ、その短剣を握らせる手。
それは、柄を離し、冷たい熱を帯びて、彼女の体を這う。
手のひらに包み込まされた柄が、重くのしかかる。
「その刃を、もっと美しくしてみせろ。」
それは、抗えない言葉。
それは、逃れられない枷。
それは、私の唯一の宝物を自ら壊す刃。
意識が、遠のく。
白妙の塔を望む窓を覆う様に、その男は、静かに紡いだ。
「お前の手で、お前が今、浮かべている者の手足を切り落とせ。」
「ルナ…。」
ルナちゃん、そう紡ぎかけて、それを呑み込む。
未だ、それが誰なのか、飼い主が気づいていないことに、縋っていたかった。
だが、もう遅い。
私は、私の守りたい宝物を、私の言葉で、捧げてしまった。
頬を伝い、零れ落ちた雫は、何よりも大切な名と共に、真紅の絨毯へと呑み込まれた。
その彩りは、誰の瞳にも奏でられる事はなく、突き付けられた運命だけが旋律となって、私を蝕んだ。
私は、鉄格子の中で、その短剣を見つめ続けた。
従えば、私がルナに取り返しのつかない傷を与える。
従わなければ、飼い主がルナに取り返しのつかない傷を与える。
瞳に届く光を、全て遮る。
瞼に映るルナ。
その更に奥。
私は、この館の全てを知っている。
それは、飼い主に尽くす為に施された知識。
彼を悦ばせるためだけに、私は此処に存在し続けてきた。
今は、違う。
私は、ルナの為だけに、存在している。
それは、私の為に私が存在しているに等しい。
故に、私は、全てを受け入れる。
ルナが苦しむこと、それ以外の全てを。
私に求められるのは、奉仕や給仕、そして快楽の為の道具。
その全てを受け入れてきた。
なのに、何故。
奪うなら、私を奪えばいい。
私の四肢なら、幾らでも捧げる。
そこに、ルナの微笑みがあるのなら、それは、何より価値がある。
でも、それは、許されない。
命じられたのは、ルナの四肢を奪うこと。
私は、考え続けた。
日々与えられる奉仕と、それを縫う様に命じられる給仕と、繰り返される悪夢の中で。
私の心は、あの刃が齎す答えの選択に満たされていた。
他に、何も考えることができない。
故に、何も感じることさえできない。
気づけば、私は、何も奏でなくなっていた。
ただ、月が彩られる頃に紡ぎ合う、ルナとの囁きだけが、私が生きていることを証し続けた。
「ステラちゃん、最近、ずっと元気がないね…。」
ルナの優しい音色に触れる度に、雫が抑えきれなくなる。
「何でもないよ…。」
私は、必死に笑顔を繕う。
「心配なの…。」
ルナの優しさが、心に溶け込んでいく。
「平気だよ…。ルナちゃんは、大丈夫かな。」
私は、ルナに問う。
「辛いこと、何でも言ってね。私、何でもするよ…。」
本当は、望んでいるのは、私。
ルナの幸せのために生きることを。
ルナの微笑みの糧になれることを。
ルナと共に生きることを。
その為に、ルナに全てを捧げることを。
でも、今は、今だけは、私の小さくて、何より大きな願望を叶えたい。
ルナに、触れたい。
私は、気づけば、鉄格子の外へと手を伸ばしていた。
そこに触れる温もり。
ルナは、私の手を待っていてくれた。
私の苦しみを包み込もうと、ずっと待っていてくれた。
私が、その優しさに包まれた時、その想いに気付いた時、私の答えが決まった。
暁に、飼い主の部屋へと呼び出される。
再び与えられた薄紗は、私の想いを包み込む様に煌めく。
そこに、飼い主は居ない。
私に命じられたのは、館全ての清掃。
最も簡易で安息の奉仕。
私は、何も発することなく、それを奏でる。
そこに、一つの願いを孕ませて。
埃塗れの倉庫。
多くの売られることのない商品が並べられている。
それは、誰の目にも価値を見出せないであろうもの。
だが、飼い主は知っている。
故に、そこに価値を育てている。
だが、そんなものは、私には関係ない。
ただ、それに麗しさを取り戻させることが、私のすべき事。
壁に貼り付けられた鍵庫。
飼い主が持つ全ての鍵の複製が、そこには並べられている。
その形が、私に忌々しい記憶を蘇らせる。
嗚咽を殺し、嘔吐く吐息を呑み込み、拭き上げる。
舞う誇りが、私の喉を貫く。
この雫は、埃によるもの。
故に、頬を伝おうとも、不思議ではない。
私は、崩れ落ちる肢体を、壁に委ねる。
此処で倒れれば、ここに眠る商品を傷つけかねない。
此処の全ては、私より価値がある。
故に、壁に這いずり、壁にかけられた鍵を握りしめた。
それでも、力は抜けていき、床へと沈んだ。
瞼を閉じ、そこに彩るルナに縋る。
「必ず、守るから…。」
そう囁く音色を、自らの糧にして、私は立ち上がった。




