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夜想曲『花の国』  作者: ことは
Secondo movimento『月の詩』
109/116

第一楽章9節

放り投げられたのは、破れた布。

「私に、恥をかかせるな。」

悪夢を終え、嗚咽を続ける私に、醜い音が突き刺さる。

「…はい。」

私は、その音のなる醜物に目を向けることもなく音を紡ぎ、布を手繰り寄せる。

これの意味はわかっている。

これの隣で、今の私が街を歩けば、これに向けられる視線が堕ちる。

私に、選択する権利などない。

だが、それは、私にとっても、救い。

ほんの少しでも、ルナのための私を、穢れから守れる。

これが発する罵声も嘲りも、私に届く事はない。

ただそれが耳に触れるのを感じながら、布が傷に擦れる痛みに耐えながら、それを着た。

「立て。」

歪つな微笑みを浮かべたそれが、私に命ずる。

「…はい。」

私は、疲労と苦痛で震える肢体に耐えて、立ち上がった。

「薄紗は、どうした。」

給仕に奪われた。

そして、あれらが吐き出していた言葉を考えると、売り飛ばされた。

ただ、それを伝えると、あれらへと罰が下される。

その罰の苦痛と屈辱は、私がよく知っている。

その辛さを、私は、よく知っている。

故に、言葉が出なかった。

「ステラが、金欲しさに売りました。」

それを発したのは、私から薄紗を奪った二人。

「我々が、ここに連れてくる最中、目を離した隙に…。」

彼らが、そう言うのなら、それが、彼らの真実なのだろう。

私は、何も奏でる必要はない。

それが、どこにも届かないことを知っている。

ただ、ルナにさえ届けば、それでいい。

「そうか。お前達には、罰を与えねばならんな。」

「どうしてですか…。」

「お前達は、目を離したのだろう。あの布の価値も知らずに。」

重く響く音に、給仕達が沈みゆく。

私は、それを見つめ、心が押し潰されていく。

「申し訳ございません。全て、私が…。」

私が、そこへ沈めば、彼らは助かる。

私は、知っている。

その先に待つ、罰という地獄の底を。

故に、私は、囁いていた。

心が動くより先に、この口が、動いていた。

「ステラ、人形如きが口を挟むな。お前には、後で聞くことがある。」

私の音を遮る飼い主の音が、静寂を生む。

飼い主が先んじて此処に来る際に連れていた護衛。

彼らが、給仕を掴み、扉へと消えていった。


私は、鎖に繋がれたまま、馬車へと乗せられる。

飼い主の館までは、馬車ならば、すぐに着く。

故に、景色はゆっくりと流れた。

外を彩るのは、優しい光と、穏やかな音色と、柔らかな営み。

私が、人でなければ、そこを歩けるのだろうか。

淡い夢を過らせ、それを、横目に眺める。


瞼を閉じ、そこに映るルナに縋る。

この雫が、願いを叶えてくれたら、嬉しいのに。

ルナと手を絡め合い、この彩りを歩く。

それだけで、私は、世界一の幸せ者になれる。


あの日、鉄格子を叩く爪の音が返ってきた。

そうだった。

あの瞬間、私は、感じていたのだ。

あの時は、まだ、それの名前を忘れていた。

でも、今なら、わかる。

私は、その音を贈られた刹那から、幸せに触れていた。


馬車の外に流れ消える全ての美しい彩りは、私のものではない。

渇望してしまう、その全ての旋律に、私は触れることはできない。


でも…。


ルナの優しい音色が、私の心に反響する。

ルナの可笑しな言葉が、私の心を癒してくれる。

ルナと触れた温もりが、私が生きていることを思い出させてくれる。

ルナという存在が、私の生きる意味を与えてくれる。

だから、ルナと共に生きたい。

だから、ルナに幸せになってほしい。

それだけが、私の幸せ。


ルナ、会いたいよ。


頬を伝う雫が、私の心の在処に溶けた。

「幸せになれる宝珠なの。私が名前をつけたの。」

耳を撫でる優しい音色は、あの日の反響。

私は、記憶に漂う大切な一つを握りしめ、彩られぬ微笑みを奏でた。

ただ、その握りしめた手のひらを、胸に添え、その温もりを感じるように。



やがて、壮麗な館が馬車を迎える。

降りるのは、飼い主と、一人の護衛と、破れた布を纏う人形。

他に、影はない。

それが、扉に立つ給仕を震えさせた。


もう、誰も、あの二人を見ることはない。

私が、この館を出るまでの色彩を、彼らは見ていた。

故に、その先を知ることとなった。

それは、見ずともわかる彩り。

あの二人の行く末を感じ、それが彼らの身にも降り掛かることに怯えている。


給仕室で、私の耳を劈いてきた音色の数々が、今の彼らの想いを教えてくれる。

だが、私には、何をすることもできない。

ただ俯き、飼い主の後ろを歩く他、私にできることは、何もない。


真紅の絨毯が、私の肌に触れる。

石畳に傷ついた足底を、その柔らかな糸が、優しく包み込む。

故に、その痛みを噛み締めた。


私は、飼い主の言葉を待ち、立ち続ける。

未だ、私は、飼い主を見ることができずにいた。

その意味を、私は知っている。

それを、奏でてはいけないことも、知っている。

それでも、私は奏でた。

私の心が、そうする事を選んだ。


それは、拒絶。

この屋敷の全てへの、拒絶。

私が、傀儡であることへの拒絶。


ただ、私には、ルナだけが存在した。

その事実が、私の幸せである事を、私はもう知っている。

故に、私は、拒絶以外を奏でない。

ルナを守りたい。

それこそが、私を守ること。

私が何を受けようとも、何を奪われようとも、ルナの微笑みに帰着する。

ルナさえ居てくれれば、私の幸せは、そこに在る。


他に、何も要りません。

だから、ルナだけは、守らせてください。

その願いを、贈ってもらった宝珠へと祈る。



「ステラ、お前は恋をしたな…。」

私の心臓が跳ね動いた。

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