第一楽章8節
その日、私を迎えに来たのは、飼い主ではなかった。
見覚えのある二人の給仕。
彼らは、飼い主の客人も饗すために、給仕室で働いていた。
「リュパン様が、お呼びだ。」
その冷たい旋律が、私を包む。
「はい…。」
私は、薄紗のまま、ゆっくりと立ち上がり、歪な給仕服を手に持つ。
飼い主が、どちらの服を選ぶかわからない。
故に、どちらも持って行かなければ、何をされるかわからない。
持って行ったところで、そこに待つのは悪夢。
それでも、少しでも痛みがない事を祈り、それに縋る。
「抵抗するなら、何をしても良いと言われた。抵抗するつもりだな。」
嘲る音色が、私を貫く。
その視線が、薄紗を超え、私に纏わりつく。
私は、ただ俯き、小さく音色を奏でることしかできない。
「いえ…。」
「否定したな。抵抗と見做す。」
彼らの手が、私を掴む。
「…。」
何度もあった。
もう、これから何が起こるかは、知っている。
だからこそ、私は音を消した。
「鳴き方を覚えたのではなかったのか、人形。」
薄紗は、最も容易く奪われる。
その視線、その吐息、その手、その全てが、私の肢体に不快感を齎す。
「…。」
それでも、私は音を奏でることを拒む。
ただ俯き、時の流れだけを数える。
最初に来るのは、痛み。
それは、拳によるものか、靴底によるものか、私には、関係ない。
ただ、それが迫る恐怖と、直後に支配する痛みだけが、真実。
私は、石造りに叩きつけられる。
これは、彼らの怨嗟の色彩なのだろう。
私は、彼らの憧れである花形を奪ってしまった。
私は、彼らを傷つけてしまった。
命令に抗えない、それは、彼らには関係ない。
私が、傷つけてしまったことには、変わりない。
雫が零れ落ちそうになるのを、耐える。
その痛みが、それを加速させる。
「…。」
それでも、私は、音を出すことはできない。
やがて、私を打ち付ける手は、粘り着く不快感と共に、柔らかくなる。
その這いずり回る温もりが、私の心を砕いていく。
その嘲る笑顔が、私の瞳には歪な獣に映る。
彼らを満たすための傀儡。
白濁に塗れた吐瀉物を呑み込み、肢体の中を抉る蚯蚓の毒に溺れる。
意識が、思考を劈く警報を反響させ、耐え切れぬ雫が石造りを海へと変えた。
そこに混ざる穢れは、私を塗り潰す。
「…。」
それでも、音だけは、消し続ける。
ルナにだけは、聞かせたくない。
それだけが、私の光。
これが終わることだけを祈り、私は傀儡であると言い聞かせる。
ただ、私の心だけが、叫び続けていた。
助けて。
それは、零れ落ちる雫となって、消える。
遠い意識を手繰り寄せ、悪夢の終わりに触れる。
それが、次に待つ悪夢への道であると知りながら。
彼らが穢した彼らを拭き取り、正装へと奉仕する。
「早くしろ、人形。」
私は、何も答えず、腐臭に塗れた肢体を水に晒す。
どれだけ水を浴びても消えぬ穢れ。
膠着く腐臭に、吐瀉物を飲み込んだ。
「遅い。」
背に感じる痛みで、私は冷水の満たされた桶へと倒れる。
それを嘲り、髪を掴む影。
「もう一度、躾けた方がいいのか。」
視界の端に煌めく宝珠。
「…。」
私は、彼らの選択を待たず、薄紗を手に取る。
それと共に、拾い上げたのは、奪われたくない宝物。
故に、口を抑え、嘔吐く旋律を奏でる。
奪われるくらいなら、その麗しさを瞳に刻み、二度と見れなくなる方がいい。
それが、私の中に在り続けるのなら。
その隙に飲み込んだのは、ルナが贈ってくれた宝珠。
それは、喉を通り、心の在処で静かに溶けた。
代わりに奪われたのは、薄紗。
その布の価値は、わからない。
だが、彼らの言葉を信じるならば、飼い主でなければ、傀儡に着せることなどないのだろう。
「お前が着るより、売り飛ばした方が価値が出る。」
私は、彼らの持つ薄紗を見つめ、それを失った事による罰に怯えた。
彼らの持つ、私を繋ぐ鎖に引かれ、扉を抜ける。
その先の廊下を出れば、そこに待つのは、朗らかな世界。
そこを歩む私の彩りだけが、歪に傀儡を奏でる。
蔑む視線と嘲る声が、私の全てを突き刺す。
それでも、私には、私を守るものはない。
ただ、この首輪だけが、私と世界を繋いでいる。
故に、私は傀儡であると、突き付ける。
その旋律に蝕まれながら、館を抜け、私を待っていたのは、外の世界。
最後に、それを見たのは、いつだったのか。
もう、思い出せない。
ただ、そこにある全てが、私に突き刺さり、焼き付ける陽光に眩暈を催す。
遠くなる彩りに、痛みが走った。
打ち付けられる鞭の音色が、行き交う灯火の視線を集める。
それは、身を守るもの全てを許されず、鎖に繋がれ、鞭に歪む私へと突き刺さる。
そこに孕む軽蔑と憐憫と嫌悪。
だが、それに触れようとする者は居ない。
私という傀儡が、リュパンという飼い主の館から出てきた。
それが、全てを決めていた。
私は広場に聳え立つ原初の父の像の前に立たされ、繋がる鎖を像の傍の杭へと結ばれた。
決して解けぬ呪縛に、給仕は嘲笑う。
「金を稼いでくる。指一つ動かさずに待っていろ。」
そう吐き捨て、薄紗を手に消えていった。
私は、俯いたまま、拳を握りしめる。
切り裂かれた布は、染められたばかりの赤に鉄の腐臭を纏い、その隙間からは咲いたばかりの柘榴が覗く。
それが私を覆い、この身に突き刺さるのは、好奇と侮蔑と淫靡と嫌悪。
滴る赤に、全ての意識を委ね、向けられる凡ゆる刃を視界から消した。
何を思われても、何をされても、私の心は、ルナと共にある。
何を奪われても、ルナから贈られた宝物は、私の中にある。
それだけが、私が私で在り続けられる、唯一の依代。
私が玩具であると吹き込まれた影に耐えながら、私は依代に縋り続けた。
頬を伝うものが何なのか、それが私を溺れさせているのか、もう何もわからない。
私は、瞼を閉ざし、そこに彩られたルナだけを見つめ続けた。
終わらぬ悪夢に、給仕が入り込む。
その手には、もう薄紗は無い。
代わりに、杭から放たれた鎖を手に、私を引き摺る。
背中を刺す罵声と軽蔑を浴びながら、私は、館へと辿り着いた。
それは、飼い主のものより、小さい。
だが、その壮麗たる佇まいに、給仕の足が竦むのか見える。
私は、何も奏でず、彼らが覚悟を決めるのを待つだけだった。
ようやく開かれた扉は、給仕たちの色を消す。
中で待つのは、飼い主と、その顧客。
私が呼ばれたのは、それを饗すため。
初めから、私という傀儡には、薄紗など必要なかったのだ。
「わかっているな。有利な商談へ持ち込めなければ、その責任を負わせる。」
突きつけられる罰が、私を突き動かす。
媚び、乞い、捧げ、微笑み、悦び、奉仕する。
全てを彫刻し、瞼に映るルナに縋る。
その地獄が、地獄であると知らなければ、私は耐えることができていた。
「助けて…。」
それは、ずっと耐えてきたこと。
それを、吐露してしまうと、全てに耐えられなくなる。
私が壊れないための、最後の砦。
故に、言い聞かせ続けてきた。
糜爛する心を引き留めるための、暗示。
私は、ただの傀儡。
そうしないと、わかってしまう。
全ての苦痛を、理解してしまう。
全ての屈辱を、理解してしまう。
この地獄を、理解してしまう。
だから、私は、傀儡。
違う。
私は、傀儡なんかじゃない。
ルナが、綺麗って言ってくれた。
ルナが、大好きって言ってくれた。
ルナと、幸せになろうねって約束した。
ルナと触れ合った、私の大切な体。
こんな穢れたものに、触れられたくない。
私は、遂に、声を上げて嗚咽した。
だが、それは、彼らの望むところであった。
「やっと、良い声で鳴いてくれたね。」
あの忌々しい男の顧客。
それの醜い音が、私に振り落とされる。
故に、許されることなどない。
ただ、私を覆う歪つな影だけが、私の泣き叫ぶ声を掻き消した。




