第一楽章7節
どれだけ、ルナとのひと時が甘美に溢れていても、此処の旋律が私の心を糜爛させていく事には変わりない。
そして、何より、その不協和音を落とすのは、来客の給仕。
私は、いつもと変わらず、命令のままに、客人の前に立つ。
「少しは鳴き声もよくなったが、お前に商品の価値は無い。ならば、せめて、その美貌で客人を饗せ。」
来客の対応のための給仕服を放り投げ、飼い主が吐き捨てる。
「今日の客も大切な交渉相手だ。取り零しがあれば、わかっているな。」
交渉をするのは、飼い主。
私にできるはずもなく、許可された言葉以外を発する事さえ、罰に値する。
それでも、飼い主の不服に障る結果が齎されれば、その捌け口となるのは、私。
それは、日々の悪夢が、平穏に思える罰。
だが、それ以上に、私の心を蝕むのは、給仕室の彩りだった。
「穢れた人形。」
扉を開く私に向けられる、最初の言葉。
その嘲る笑みが、部屋を満たす。
私は、雫を呑み込み、紅茶を淹れる。
それを待ちながら、焼き菓子を並べ、その時を待つ。
その間にも、背中に刺さる言葉は、私の心を突き刺していく。
そして、それでも、朗らかに感じる温かな光に満ちた空間が、私の住む鉄格子を鮮明にさせる。
ようやく、準備を終え、それを客人へと運べば、そこに待つのは、私の肢体を這いずり回る不快な手の数々。
私は、深く息を吸い込み、その覚悟を持とうと試みる。
過ぎるのは、あの日から耐えられなくなってしまった私の弱さ。
故に、客間へ向かうために開く扉と共に向けられた旋律に、私は崩れ落ちそうになった。
「お前が居なければ、花形は私たちのものだったのに。」
私は、存在するだけで、人を傷つける。
消えた方がいい穢れた傀儡。
耐えきれず、零れ落ちる雫を拭う手は、いつまでも震えていた。
陽光が散り、宵闇が空を支配する。
私は、鉄格子の中で、嗚咽を奏でる他なかった。
爪で奏でる音色さえ、今の私にはできない。
ただ、膝を抱え、人を傷つけるだけの穢れた傀儡であることを、私に囁き続ける。
「おえ…うう…。おえ…。」
私の嗚咽に混ざり、廊下に響く声に、私は顔を上げた。
「どうしたの、ルナちゃん、大丈夫。気持ち悪いのかな。何か嫌なものを口にさせられたのかな。ねえ、大丈夫。」
私は、鉄格子に駆け寄りながら問う。
「平気。今日も、パンを食べたよ。…おえ。」
それは、日々配される一枚の硬いパン。
それは、この灯火を繋ぐ糧。
「もしかして、腐っていたの。」
私は、先ほどまで考えていたことを全て忘れて、ルナに問いかける。
「わからないの…。でも、今日も味はしなかったよ。」
「何か、病気なのかな…。」
「どうして、そんな事を聞くの。」
ルナの柔らかな音色が、廊下に舞う。
「だって、吐きそうな声が…。」
「これはね、お口の奥に指を入れてるの。」
「え…どうして…。」
「こうするとね、涙が出るの。」
「うん。知っているよ。ん…、どうして…。」
「えっと…、こうすると、涙が出るから、してるの。」
「そうなのね。どうして、涙を出したいの。」
私の聞き方が悪かったことを悟り、ルナに問いかけた。
「ステラちゃんの今日の雫の音色が、いつもより悲しそうだったから…。贈り物をしたくて…。」
「贈り物…。」
私の静かな疑問。
その答えは、静寂となる。
そして、ルナが静かに囁いた。
「ステラちゃんは、魔族は嫌いかな。」
嫌いも何も、私は魔族のことを、ほとんど知らない。
「嫌いじゃないよ。」
「良かった。魔族のこと、怖いかな。」
「私は、遠い田舎の村で生きてきたから、おとぎ話でしか、知らないの…。だから、わからなくて…。」
「あのね、私、魔族なの。」
メルの紡いだ音色。
私は、一つの疑問を抱く。
それは、大きく、重く、大切なこと。
「もしかして、魔族の人は、みんな、こんなに綺麗なの。」
私は、鉄格子を握りしめ、囁いた。
「ステラちゃんのお部屋には、鏡があるのね。」
「無いよ。どうして。」
「鏡を見て、お喋りしていると思ったの。」
「私はいつも、壁の向こうのルナちゃんを見て、おしゃべりしているよ。どうして、そう思ったの。」
「ありがとう。私もだよ。あのね、ステラちゃんが、綺麗って言ったから、鏡を見てるのかなって、思ったの。」
私の心が、破裂しそうなほどに鼓動を奏でる。
顔が薄紅色に熱を帯びるを感じる。
「な、何を言っているの。」
「私ね、ステラちゃんの優しいところも、可愛いところも、全部、好きなの。」
「私も、大好きだよ。」
私とルナの微笑む音色が、優しく溶け合う。
「ステラちゃん、私のお部屋に手を伸ばせるかな。」
「うん。伸ばせるよ。」
ゆっくりと、鉄格子から伸びる手。
やがて、指先が触れ合う。
そこに感じるのは、ほとんど体温の感じない柔らかな温もり。
その触れた色彩が奏でるのは、初めて感じる幸せ。
それだけで、糜爛した心が満たされていく。
「幸せ…。」
私は、思わず囁いた。
「あの、こっちは、お口に入れてない方の手なので、安心してね。」
私の囁きを覆う様に、ルナの音色が響いた。
私の手を優しく握る、ルナの手。
二人の鼓動が、共鳴する。
私は、指先まで熱くなるのを感じる。
触れられることが、触れることが、こんなにも幸せなことだと、私は、ようやく思い出した。
そして、触れていたいという願いが、心の奥底から、この世界へと響き出した。
「これは、なあに。」
ルナとの触れ合うひと時に、私の心が空を舞う頃。
その優しく柔らかな温もりから、私の手へと包みこませてくれたもの。
それは、淡く光り、妖艶に煌めく小さな宝石。
「あのね、出したの。」
「…これを、吐いていたのね。」
「ち、違うよ。私の涙は、宝石になるの。」
ルナが慌てた様に音色を奏でた。
「私、魔族なのに、ずっと魔法が使えなかったの。でもね、これが魔法だって、教えてもらったの。」
「誰に教えてもらったの。」
「ご主人様さんなの。私ね、いっぱい涙を出しちゃったの。そうしたら、全部、宝石になったの。」
ルナは、ずっと独りで、その雫に溺れていた。
その雫が溢れ出すほどの苦痛と屈辱に、苛まれていた。
その事実が、私の胸を締め付ける。
「でもね、ご主人様さんが、全部、持っていっちゃうので、今、出してたの。」
ルナは、優しい微笑みの音色を奏でる。
「ステラちゃんに贈ったら、喜んでくれるかもしれないって、そう思ったの。」
飼い主が、この宝石に、何を見ているのかなんて、私にはわからない。
でも、この宝石の価値は、飼い主よりも知っている。
「祈りを込めないと、涙は宝石にならないの。だからね、いっぱい祈ったの。」
この宝石は、世界で一番、大切な宝物。
「ステラちゃんに、幸せになってほしいって。」
大切なルナちゃんの、大切な想いが宿った、大切な私の宝物。
「私も、ルナちゃんに、幸せになってほしいよ。それが、私の幸せなの。」
私は、小さな宝石を両手で抱きしめ、胸に包み込んだ。
「じゃあ、一緒に幸せになろうね。」
ルナの優しさに、雫が溢れ出る。
止まらない、止められない、止まらなくていい、止めたくない。
ただただ、今は、それに包まれたい。
「約束だよ。」
雫に抱かれた二つの旋律が、優しく共鳴した。




