第一楽章6節
宵闇が眠る頃、星は月と対話する。
それは、心身を引き裂かれても尚、縋ろうとした光への旋律。
鉄格子を叩く爪の、小さな音色。
白銀の天使が、隣の鉄格子へと閉じ込められたのは、鉄の軋む音を聞いて、知っていた。
だけど、その日から、何一つ響いてこない。
嗚咽も、ため息も、その肢体を動かす音さえも。
ただ、飼い主が、その不快な足音ともに現れ、彼女を連れて消える音だけが、確かに、そこに存在していることを伝えてくれる。
私の爪に、鉄が呼応する。
廊下に響く、静かに弾む音色。
まるで、パパやママの目を盗んで、ベッドの中で語り合うかのように。
貴女に届けたい旋律。
それは、私の好きな子守唄。
それでも、何一つ響いてはこない。
私は、知っている。
隣に眠る白銀の天使もまた、私と同じ苦痛と屈辱と孤独に堕ちている事を。
だからこそ、伝えたい。
私は、ここに居るよと、貴女に届けたい。
その音色は、幾多の月の眠りを見届け、数え切れぬ暁を超え、尚も続く。
それでも、私は諦めなかった。
彼女の苦しみは、誰よりも知っている。
全てを知らずとも、そう信じたい。
それだけが、私が、彼女に寄り添える唯一の温もり。
何も持たない私が、彼女に贈れる唯一の色彩。
故に、鉄を叩く爪の音が、一つ返ってきた刹那を、私は忘れられない。
そして、その柔らかな音色と共に、初めて聞いた、彼女の音色も。
「ごめんなさい…、私、眠ると、なかなか起きれなくて…。」
その容姿よりも幼く、瑞々しく、透き通る、無垢なる旋律。
その麗しく厳かな音色を聞くためならば、誰しもが、全てを擲ってでも馳せるだろう。
それほどまでに、私の心を強く揺らした。
「あのね、私、ステラっていうの。」
私は、鉄格子を掴み、音色を弾ませる。
私に、こんな旋律を奏でることができるとは、思っていなかった。
「私は、ルナっていうの。」
その静かな音色が、私の心を温かく包む。
その時、私にも、微笑みが彩られる事を知った。
紡がれたそれらは、霞み消えた遠い昔にあったとしても、もう、それを知らない。
それでも、今、私は紡ぐことができた。
どこかに消えていたそれらを、ルナが贈ってくれた。
「辛いよね。ごめんね。私には何もできなくて…。でも、辛いってこと、それだけは私も知ってるよ。」
私は、これ程までに口が動いたのかと、驚く。
求められたことだけを紡いできた口が、止まらぬ旋律を奏で出した。
「私も、同じなの。だから、ルナちゃんの辛いを受け止めることならできるの。それだけしか、私にはできないけれども。」
飼い主に、聞かれてはいけない。
許可もなく、言葉を発するなど、何を齎すかも、想像すらできない。
止めなければ、そう言い聞かせながらも、旋律は止まらない。
「でも、ルナちゃんに寄り添いたいの。だって、ルナちゃんが、そこに居てくれることが、私の支えだから。お返ししたいの。」
きっと、ルナは、飼い主に知られる事を恐れて、鉄に奏でる音色さえも返してこなかった。
故に、私の音色に答えることも戸惑っているのだろう。
私は、息を吸うのも忘れて紡ぎ、肢体に残る空気を全て使い切った。
故に、意識が揺らぎ、鉄格子に倒れ込む。
その鈍い音が、廊下に響き渡った。
「ステラちゃん、大丈夫…。」
ルナの優しい音色が、私を撫でる。
「ごめんなさい。久しぶりにおしゃべりして、息を吸うのを忘れていたの。」
私は、石造りの向こうへと、微笑みかける。
「私も、こんなにおしゃべりしたのは、久しぶりなの。」
静かに微笑み合う彩りが、月に揺れる。
「一緒だね。」
重なり合う声が、優しく溶け合った。
「ねえ、ルナちゃん。」
「なあに。ステラちゃん。」
「辛いこと、されていないかな。」
私は、震える音色を紡ぎ始める。
「辛いこと…。」
「その…、触れられたりとか…。色々…、嫌だなって思うこと。」
それは、ルナの心を抉るかもしれない。
それでも、聞きたかった。
吐き出してほしかった。
それを、受け止めたかった。
烏滸がましいと知りながら、寄り添いたかった。
「されたよ。でも、きっと、それが私の意味なの。」
「違うよ、ルナちゃん。これは、我慢しちゃだめなことなの。」
私は、鉄格子を握りしめた。
「抗えなくても、逃れられなくても、されてもいいなんて、思わないで…。」
何も抗わず、ただ言われるがままにされてきた私が、何を言っているのだろう。
「ステラちゃんも、そうなの。」
ルナが、静かに問う。
「…うん。」
「いつから、居るの。」
「もう、忘れちゃった…。」
「ずっと、我慢してきたの。」
「…わからないの。いつのまにか、全部、忘れちゃってたの。」
「ステラちゃん、私は、どうすればいいの。」
「…わからない……。でも、幸せを諦めないでほしいの…。」
「そうしたら、ステラちゃんは、幸せになれるの。」
ルナの紡ぐ問いに、私は、雫が溢れ出す。
「うん。」
掠れる音色を隠すように、私は囁いた。
「じゃあ、諦めないようにするね。」
壁の向こうのルナの微笑みが、心に彩られる。
「うん。」
「ステラちゃん、少しだけでも、幸せになれたかな。」
私は、耐えきれなくなった嗚咽を奏で、雫に溺れた。
「ステラちゃん、平気。」
「ごめんね。平気だよ。ルナちゃんの声を聞けるだけで、幸せ…。」
「嬉しいな。」
重なり合う微笑みが、廊下に流れる風を揺らす。
私は、気づいた。
忘れていた彩りに。
私の頬に揺れる光。
見上げる窓に、月が煌めく。
「お月様、綺麗…。」
思わず零れた、私の音色。
「本当だね。お月様は、今日も優しいね。」
ルナの音色が呼応する。
「寄り添う星に、なりたいな。」
私は、私の紡ぐ、その旋律に、かつての夢を思い出した。




