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夜想曲『花の国』  作者: ことは
Secondo movimento『月の詩』
105/123

第一楽章5節

光を得たとて、現実は変わらない。

光を得たからこそ、与えられる全てと、奪われる全てが、より鮮明となる。


鎖の音が、廊下に響く。

富に肥えた足が、鉄格子の端から影を紡ぐ。

今日の悪夢が、始まる。

私は、傍に置こうと掴んだ給仕服を落とした。

手が、震えている。

まるで、ここに来たばかりの頃の様に。

心が警報を奏でている。

まるで、ここに来たばかりの頃の様に。

雫が、止めどなく溢れ出す。

まるで、ここに来たばかりの頃の様に。

嗚咽を噛み殺し、そこに座す。

まるで、ここに来たばかりの頃の様に。

その影の行く末を見つめる事ができない。

まるで、ここに来たばかりの頃の様に。


開かれる扉。

私の前に立つのは、悍ましい飼い主。

言葉を発さなくては。

言葉を発さなくては。

言葉を発さなくては。


何も出ない。

吐息すら、奏でる事ができない。

ただ、石畳を見つめる他、私は何も出来ずにいた。

まるで、ここに来たばかりの頃の様に。


私の瞳を彩る歪な影が、脚を挙げる。

その先を、私は知っている。


怖い。


その刹那、耐えきれない痛みが、全身を貫いた。

それは、私に呼吸を取り戻させる。

溺れた幼子の様に、荒く紡がれる吐息と嗚咽。

頬を伝う雫が、涎へと溶けていく。


私は、苦痛に何も感じなくなっていた。

私は、屈辱に何も感じなくなっていた。

そのはずだった。

なのに、どうして。


「早く、鳴け。」

もう泣いている。

これ以上、何をすればいいの。

嫌だ、逃げたい、助けて。


でも、従わなければ、もっと辛い旋律が待っている。

「ご…主人…様…。」

苦痛と嗚咽で、途切れる音色。

いつもの様に、私は傀儡でいればいい。

たったそれだけのこと。

昨日まで、できていたこと。

大丈夫。

私は、傀儡。


強く閉じた瞼に映るのは、闇ではなく白銀の天使。


私は、傀儡。

私は、傀儡。

私は、傀儡。

「お待ち…、しておりました…。」

ようやく紡げた言葉に、再び脚が振り下ろされた。


だが、これは、始まりにも満たぬ旋律。

首に枷られた鎖が、私を引き摺る。

それは、何も届かぬ地下へと向かう階段。

私は、それに耐えるしかない苦痛と屈辱に、全身の全てが抜け落ちていくのを感じた。


まるで、ここに来たばかりの頃の様に。


天井から下がる鎖が、私の手の自由を奪う。

近づく歪な微笑みが、肢体を震わせる。

顔を撫でる腐臭の吐息が、嘔吐を誘う。

その脂に爛れた真紅の滑りが、私の唇に触れた瞬間、雫が零れ落ちる。

これくらいの事、何度だって繰り返されてきた。

まだ、何も始まっていない。

なのに、どうして、こんなにも苦しくなるの。


私の口の中を這い回る、飼い主から伸びた蛆虫。

それを噛み千切ってでも逃げたい衝動が、心を穿つ。

それに耐える様に瞼を閉じる。

再び彩られるのは、白銀の天使。

私は、それに縋り、時が流れるのを待った。


やがて、私の口を這い出た蛆虫が、私の顔から首へと這いずり回る。

その腐臭が、私の心を穢していく。

ただ、それにだけ、心を堕とさせてくれるほど、飼い主は甘くない。


飼い主の肩からぶら下がる汚物に見紛うそれが、私の髪を掴む。

その痛みに、肢体が捩れ、鎖に繋がれた腕が引き千切られそうな痛みを叫ぶ。

もう一つの手が、捩れた体に触れた刹那、これから始まる本当の悪夢を思い出す。


私の吐息が、白濁の嘔吐を奏で、それを手で受ける。

私の手のひらで蠢く飼い主の欲望に、触れていることさえ、私の肢体が拒絶する。

それでも、それを嚥下するまでは、許されない。

私は、許しを乞う様に、飼い主を見つめた。

それは、ほんの僅かな時間。

その刹那、私の頬に熱と痛みが響き渡る。


私の頭が弧を描き、口に残る白濁と赤いせせらぎが混ざり合い、舞い散る。


「何を睨んでいる…。」

睨んでなどいない。

睨んだつもりなどない。


ただ、耐える事だけを紡ぎ続けた心に、肢体が共鳴してくれない。

心の奥で目を覚ました祈りが、僅かに私の中を反響する。

そのことに気付かぬまま、私は、崩れゆく視界に、絶望を抱いた。

ただこの瞳に刻まれるのは、醜い影が歪に嘲笑う不協和音。


その日、私が溺れた悪夢は、ただただ痛みの旋律だけが支配していた。


「ようやく、少し鳴けるようになったな。だが、足りん。」

苦痛だけが、全てを支配して、もう何も奏でることも、指先を動かすことさえできない。

「もっと良い声で鳴けるように、励め。」

その囁きと共に、私の首に鎖が繋がれた。

ようやく、今宵の悪夢が終わる。


昨日までは、始まりも終わりも、何も思わなかった

今は、あの鉄格子に還れることが、安息の色彩に思える。


まるで、ここに来たばかりの頃の様に。



何も感じないと言い聞かせてきた心が、静かに旋律を奏で出す。

それは、忘れていた音色。


それが、私を、より苦しくさせる。



ようやく終えた悪夢を纏い、鉄格子の中へと戻る。

冷たくなった湯が、静かに揺れている。

穢れを落とさなくては。

その水面に触れた瞬間、雫が溢れ出した。


故に、私は、縋った。

この石造りを隔てた先に、確かに存在する白銀の天使に。


濡れた肢体を引き摺り、鉄格子を掴む。

それは、小さな音色を奏でた。


もう一度、会いたい。

私、とても辛いの。

逃げたいの。

助けてほしいの。


でも、貴女も同じ苦痛と屈辱の中に居る。


嫌だよ。

貴女が、私と同じ此処に堕ちる事だけは、耐えられない。

ねえ、どうすればいいの。


もう一度、貴女に会いたい。


ゆっくりと指先から離れる鉄格子。

私は、床に崩れ落ちた。

石造りを濡らすのは、傀儡の雫。

それは、とても温かかった。

そのせせらぎに揺れる、白銀の追憶。

心に広がる、あの煌めきと浄化の旋律。

「会いたいよ…。」

飼い主の許可もなく言葉を紡ぐ事なんて、許されていない。

私は、穢れた手で口を覆い、廊下を見つめる。

そこには、暗闇だけが旋律を奏でている。

私は、ため息を彩り、鉄格子に触れた。


爪が、それに触れ、小さな音色を奏でる。

その心地良い響きに、私は、小さな光を見つけた。


窓から覗く月が、私を照らしている。

ただ、私はまだ、それに気づくことはなかった。

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