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夜想曲『花の国』  作者: ことは
Secondo movimento『月の詩』
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第一楽章4節

この日は、飼い主を訪ねる客の対応を命じられた。

私にとって、最も安らげるひと時。

紅茶を淹れ、焼き菓子を並べ、それを運ぶ。

この館には、数え切れぬ給仕が居る。

それでも、来客の対応は、私に命じられた。


それが、他の給仕の怨恨と侮蔑を産む。

囁かれる嘲りと、与えられる痛みは、繰り返される悪夢に比べたら、耐えるに易い。

それでも、朗らかで温かく、柔らかな色彩に満ち溢れた光の此処が、私にとっての猛毒だった。

瞼を閉じ、紅茶の最も香り立つ刹那を測る。

その瞼に焼き付けられた、かつての反響。


花冠を紡ぎ、自ら焼いたクッキーを村のみんなと食べる。

家に帰れば、大好きなパパとママが抱きしめてくれる。


見たくない彩り。

聞きたくない音色。

此処が猛毒なのではない。

この反響こそが、私にとっての猛毒だったのだ。

それを思い出す様に、私は瞼を開く。

伝うはずのない雫が、緩やかに零れ落ちた。

私は、気付かれぬように、それを拭い、紅茶を注ぐ。


艶やかな茶器の音色を奏でながら、絢爛なる椅子に座す幾つもの影に配する。

それを置く度に、私の肢体を撫でる不快な温もり。

私は、それが、そこに集う傲慢な手によるものだと気付かぬように振る舞う。

ただ微笑みを彫刻し、一つ一つを終えていく。


私の口から溢れる音は、私の言葉ではない。

私に、言葉など必要ない。

ただ求められた事を、そのままに紡ぐだけ。


そこに痛みなど存在しない。

そのはずなのに、心だけは軋み、悲鳴を上げていた。


給仕室に戻ると、数多の手が、私を押し除ける。

蹌踉めき、壁にぶつかるも、それを更に押しやる。

私は、此処に存在してはいけない穢れ。

それを突き付けるように、通りすがる視線が突き刺さる。


「人形のくせに。」

お客様への対応は、彼らにとっての花形として、築き上げられてきた。

それを、命じられるがままにやっていたとはいえ、後から来た私が奪い取る。

そして、私は、ただ穢されるだけの傀儡。

そんなものが、彼らの憧れを奪い取っていった。

命令に従うことしか選べない現実と、それが誰かの怒りを買う現実。

「私、人を傷つけちゃってた…。」

私は、全てを失いながら、誰かの幸せを奪い取った。

それが、深く突き刺さる。

此処が、猛毒である最たる理由。


煌めく穏やかな笑顔と音色を背に、彼らの向ける憎しみと嘲りの刃の海へと沈んでいく。

数え切れない灯火と彩りの行き交う、この世界で、私は独りぼっち。


鉄格子に戻り、膝を抱え、無機質な彩りを瞳に刻む。

奪われ続け、何もかも失った。

穢され続け、雫が枯れ果てた。

嘲られ続け、音が消えていった。

苦痛と屈辱の中で、心が糜爛していく。


私は、傀儡。

人を傷つけた傀儡。


何も見たくない。

何も聞きたくない。

何も触れたくない。

何も考えたくない。

もう、何も感じない。


世界で、私は独りぼっち。


心に反響し続ける言葉。

何も感じないのに、そうさせてくれない。

何よりも強い痛みが、心を劈く。

灯火を、手放したい。

そう願うほどに、鼓動が肢体を支配する。

灯火を、手放させてくれない。

その絶望に、私は、色の消えた世界へと溺れた。


いつもと変わらぬ鉄格子と廊下。

それが霞み淀んでいる。



どれくらい、こうしていただろう。

それを思うことすら、もうできない。

廊下の先で、鍵が開く音が響く。

それが聞こえたにも関わらず、私の心は動かない。

ただ四肢だけが歪つな給仕着を傍に置き、ゆっくりと座した。


近づく足音。

今日も、悪夢が始まる。

でも、もう、どうでもいい。

翳されるであろう痛みも、穢されるであろう無垢も、混ざり合う赤と白濁も、鉄の匂いも、嘲りの音も、肌を這う深いも、肢体に潜り込む毒も、全部、どうでもいい。

ただ、もし、願いが叶うなら、今、私の灯火を消してほしい。


私に、心があるが故に。


鉄格子の前に迫る足音。

それが重なるように聞こえる。

霞む視界は、この耳にまで侵食しているかのように、耳鳴りが響く。

鎖の擦れる音。

今日は、どこかに連れて行かれる。

それも、もう何度も刻まれてきた苦痛と屈辱。


その先に、何が待っていようとも、私は待つだけの傀儡。

世界で独りぼっちの、穢れた傀儡。

存在するだけで、誰かを傷つけてしまった、醜い傀儡。

だから、何をされたとしても、もういい。


そこに、雫さえ伝う事さえ、もうなかった。



鉄格子の先から彩られ始めた脚は、いつもの音を奏でる。

壁に伝うその扉の前で、それは止まる。


そのはずだった。

だが、私の瞳を彩ったのは、扉を過ぎていく醜い影。

その影が持つ鎖は、一つに繋がる。


私が聞こえていた足音の残響は、もう一つの足音だった。

ゆっくりと彩られるのは、透き通る純白。


私の世界には、色が消えていた。

この刹那までは。


私は、その鮮明な光に、思わず顔を上げた。

月が窓を貫き、光り輝く。


靡く薄紗の煌めきに負けない純白の肌。

それは、月光を透かし、まるで彼女が輝いているかの如く彩られる。


鎖に繋がれた首輪を隠す白銀の髪は、その一本一本が壮麗なる旋律を奏で揺らめく。


その髪の隙間から覗く薄桃色の唇は、ほのかな吐息を漏らし、音の無い讃美歌を奏でる。


やがて覗いた横顔は、この世のものとは思えぬ聖麗を詩い、見る者の瞳を離さぬ神秘が響き渡る。


私の視線に気づいた彼女が、ゆっくりと、こちらを向く。


その灰色に輝く妖艶なる瞳は、全てを映し、全てを呑み込み、そして、何も映さない。


私は、ただ、それを見つめる。

思考が、全て止まっていた。

感じることさえ、忘れていた。

ただただ、それを、見つめる以外、その全てを見失っていた。


彼女が紡ぐ無垢なる微笑みが、月光となり、瞬きの狭間に煌めく。


それは、指で数えるに至らぬ、刹那の時。

でもそれは、私にとって、これまでの旅路より長い、悠久の時。


私は、独りじゃない。


私と同じ、この深淵に佇む灯火が、此処に存在する。

私の苦痛も屈辱も、孤独さえも、想いを分かち合う灯火が、此処に存在する。


そんな事は、どうでもいい。


それが、何故、そこに至ったのか、私にはわからない。

わかる必要もない。

ただ一つの真実が、私を包み込む。

それだけで、私は充分だった。



それは、光。

その一欠片さえも溢さぬように、私は拳を握りしめた。

そこに滴る赤いせせらぎなど、その光に比べれば、無いに等しい。


凡ゆる苦痛も、凡ゆる屈辱も、凡ゆる孤独も、その光に比べれば、無いに等しい。


私は、知った。

この世界には、まだ色がある事を。

私は、知った。

この世界には、まだ音がある事を。

私は、知った。

この世界は、その何処かで、美しい色彩と、優しい旋律に包まれている事を。


私は、知った。

それが、今、正に、此処に舞い降りた事を。


私は、知った。

これが、不変の想いである事を。



私は、生まれて初めて、恋をした。

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