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夜想曲『花の国』  作者: ことは
Secondo movimento『月の詩』
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第一楽章3節

私が、ここに連れてこられてから、どれくらいになるのだろう。

鉄格子から覗く空に、季節の移り変わりを見たはずが、それを思い出すこともできない。

今はもう、それさえも感じることができない。

ただ流れゆく風だけが、時が止まっていないことを教えてくれる。

そしてそれは、悪夢が続いていることを突きつけてくる。

廊下の天井に沿う様に、斑らを描く窓は、今日も月を見せてくれる。


かつて、私は、寄り添う星と成りたかった。

今はもう、その空の元で歩くことさえ叶わない。

それは永遠に縛られた枷であるとことも、知っている。

私は、星になんてなれない。


そういえば、私の名前は何だっただろうか。

その名前を贈ってくれた人は、誰だっただろうか。

きっと、私には、そんなものは無かった。


凍える中で、湯を浴び、穢れを落とす。

そのひと時だけが、安息を齎す。

微睡みさえも、痛みと共に目覚める恐怖に薄く繰り返すのみ。

与えられる餌は、ただ灯火を繋ぎ、奉仕する為の糧。

その営みが、いつ終わるのか、いつ始まったのかさえ、私は、興味を手放した。



足音が聞こえる。

今日は、もう終わったと思っていたけど、再び悪夢に堕とされるみたいだ。

私は、体を拭いて、薄紗を纏う。

そして、傍に、歪な給仕服を添え、その選択を待ち、座した。


鍵の開かれる音、目の前には禍々しい影が伸びる。

だが、これに対する想いは、無。

「ご主人様、ご足労、恐縮に存じます…。」

私の口から紡がれる音。

そこには、何も乗らない。

ただ壁に反響し、私の瞳に映るそれへと伝う。

「今日は、そのままの格好で着いてこい。」

その音色が、耳を這う。

首に感じる鉄の冷たさに、肩が跳ねる。

耳を劈く鎖の旋律が、これから始まる悪夢を彩った。


この布のままで鉄格子を出るという事は、白濁に赤い花弁を散らす事を意味する。

私は、自らの肌に爪を立て、抉る痛みに不快と恐怖への震えを抑えた。



地下へと続く階段。

それが本当に地下であるかなど、私は知らず、知りたいとも思わない。

ただ降りていく階段の先が闇であることだけは知っている。

そこに蔓延る鉄の香りは、私に苦痛と屈辱を与える玩具。

そして、私自身が彩った赤いせせらぎの残穢。

それに混ざり合う白濁の腐臭。

どれだけ拭き取ろうとも、この部屋から、この香りが消える事はない。


吐瀉物が喉を締め付ける。

私は、その痛みを呑み込み、微笑みを形作った。

「如何様に…。」

反響する私の音が、私の耳を貫く。

その答えは、痛みとなって返ってきた。

その拳が視界に入り込んだ頃、飛ばされた私は、石造りの壁へと身を打ちつける。

それだけで、もう立つ事はできなくなる。

そこから始まる、飼い主の宴は、刹那を永遠に彩る。


下肢を這う悍ましい指先が、私に残された心を抉る。

顔に滴る腐臭の吐息と唾液が、私に残された心を裂く。

撫でる粘濡の温もりが、私に残された心を潰す。


それでも、私は、乞うように白濁を嚥下しなければならない。

故に、私は、その不快な全てが喉を通る度に、残された心を穿つ。


そして、それは、始まりに過ぎない。

肢体に入り込む忌々しい影が、打ちつける拳と、弄ぶ玩具と共に、不協和音を響かせる。


その音だけが、私に、まだ灯火が残されている事を突きつける。


「心が無ければ、幸せなのに…。」

音にならない言葉が、頬を伝う一筋に孕む。

それが、今宵も、私に雫が残されていた事を教えてくれた。



連れ戻された鉄格子に、施された桶を見る。

再び湯浴みを奏で、穢れを落とそうと手を伸ばす。

それは、熱を失い、冷たく濁る。

触れた指先に痛みが走る。

それが揺らした水面には、知らぬ顔が私を覗き込んでいる。

私は、ただの傀儡。

覗き込んだ水面に映るそれが何なのか、知る必要などない。


私は、ただの傀儡。

私は、ただの傀儡。

私は、ただの傀儡。

私は、ただの傀儡。


私は、ただの傀儡。


止まらぬ雫が、水面を揺らし続ける。


「帰りたいよ…。」

月は、ただ静かに、廊下を照らしていた。



膝を抱え、凍える熱に縋る。

ゆっくりと顔を上げた先にある窓には、月が消えている。

ただ、その残穢が星を隠していた。

そこに彩られるのは、ひたすらに黒。

それが暁に染まるまで、悪夢が手を呼ばさぬことを祈り、僅かな微睡みに溺れた。


現との狭間を彷徨う意識に、痛みが劈く。

私は、それが来る事を知っている。

故に、それに構えることもした。

だが、それが齎す反応は、飼い主の怒りを買った。

その怒りは、更なる苦痛と屈辱を齎す。

故に、この痛みを、ありのままに受け入れ、ただ耐える事を選んだ。

「お前は、いつまでも鳴き方を覚えんな。」

雫なら、たくさん落としてきた。

これ以上、どうすればいいのかなど、私にわかるはずもない。

「いくら麗しさを持っていても、これでは、いつまで経っても、商品にならん。」

吐き捨てられた音が、涎と共に私に膠着く。

「いや…。このまま、私の玩具にしていても、充分に払った金の価値はあるか…。」

歪な影が、不協和音を奏で、私を切り裂いた。

「だが、錬金術師を冠する私の名を、人形如きが汚す事など、許されることではない。」

この男が白妙で錬金術師と呼ばれることなどない。

だが、これは、私にとって、知る由もない。

再び、その富に肥えた脚が、私の肢体を貫く。

思わず溢れ出た吐瀉物は、色を持たずに流れゆく。

それを見つめる歪な瞳は、丸まる私を捻り潰した。


何度も打ち付けられる靴底に、薄紗が乱れ破れる。

そこに滲む赤が、鼓動と共に流れていく。

私は、ただ、声を殺して、それに耐えた。

それが、飼い主の怒りを買うことに気づくことなく。


照り付ける陽光が窓を貫き、私を焼き続けた。

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