第一楽章1節
私は、星になりたかった。
パパとママが与えてくれた名前に負けないくらい、優しい星に。
いつか一つの月を見つけて、寄り添いたい。
パパとママが願ってくれた、私の名に込められた祈り。
ステラ。
それは、今は、私という商品の値札。
買ったのは、白妙の錬金術師を名乗る飼い主。
あの夜、私は無垢だった。
愛するママと囲む食卓は、いつもより豪華な晩餐だった。
私の好きなものばかり並べられ、帰らぬパパへの祈りの供物と詩う。
だからこそ、笑顔だけを彩り、その幸せを月へと届けた。
それを白濁に塗りつぶしたのは、その日の月が頂を穿つ頃。
見知らぬ手が、私を這う。
その不快な温もりが、心に警報音を猛々しく反響させる。
縋る様に見つめる先に立つのは、幾つもの影に隠れたママの姿。
絡み合う視線に、ママが目を伏せたのを触れた刹那、私は全てを手放した。
手枷を見つめる瞳が、ゆっくりと馬車の窓へと向けられる。
そこに彩られたのは、消えゆく貴族の館と、傲慢に煌めく月。
私の帰る場所は、宵闇へと崩れていった。
この手枷が外される頃には、私は首輪で繋がれた。
そこから繋がる鎖は、飼い主の手元へと連なる。
彼の名は、リュパン。
だけど、私が、その名前を呼ぶことは許されていない。
「ご主人様…。」
紡いだ私ですら驚くほどに、震える音色。
それは、これから始まる悪夢を奏でていた。
「うぶな声で、鳴くのだな。」
リュパンは、歪な微笑みを浮かべる。
その手に持つのは、新しい私の首に繋がる鎖。
まるで、新しい玩具を手にした幼子のように、笑い声を奏で、私の肌に触れた。
その不快感を、吐瀉物を飲み込む苦痛で紛らわせる。
透き通る白い布、その美しくも脆い薄紗だけが、唯一、私を守ってくれる。
その清らかな彩りが、私に施された傀儡へ堕とす枷と、私に纏わりつく膏香の吐息と、私に触れた粘濡の温もりが織り成す、不朽なる腐爛の夢を、より鮮明にした。
「まずは、媚び方から教えねばならんな。」
滴り落ちる雫を隠し切れず、私は、嗚咽を零した。
昨日まで見ていた、穏やかな夢は、もう二度と触れる事はできない。
ただパパとママに会いたいと願うことすら、もう二度と、許されない。
窓の外に響く喧騒だけが、ここが真実である事を突きつける。
私は、手を強く握りしめ、この身に、この心に、私の全てに触れてくる、凡ゆる感覚の不快感に耐えた。
それでも、灯火を手放すことさえも、許されない。
その術さえも、私は持っていない。
故に、悪夢を待つ様に、常闇に立ち続ける他なかった。
指先一つすら動かす事を躊躇う私に、鎖が響く。
「館の案内をしてやろう。」
私を撫でていた手が、鎖へと伸び、首輪を引く。
締め付けられる苦痛に思わず咳き込む私を見て、リュパンの視線が突き刺さる。
「慣れろ。次は無いぞ。」
その冷たい旋律が、抗えぬ闇を彩る。
「…はい。」
私に求められる答えは、それだけだった。
連れてこられたのは、灰色の石の箱。
重く響く錆の音が、扉の厚さを教えてくれる。
何があっても、逃れることなどできない。
それだけは、私にもわかる。
足が震え、立っていることさえ出来なくなった。
「まだ、何も始まっておらんぞ。」
その嘲りにも似た溜息が、私の耳を撫でる。
その吐息に感じる甘い香りが、嘔吐を誘う。
だが、私は、何も奏でてはならない。
ただ、飼い主を見つめる事しか、許されてはいない。
「その内、お前も悦ぶだろう。この玩具で戯れる事に。」
耳を舐めるように囁く旋律が、全身に不快感を巡らせる。
私は、四肢が砕かれたように、そこへと崩れ落ちる。
「何をやっている。行くぞ。」
私を見下ろし、リュパンは、再び鎖を引く。
私は、引き摺られるように、その後をついた。
腐臭の漂う石造り。
それは、鉄格子で塞がれている。
そこから覗くのは、黒い廊下と小さな窓。
差し込む月光は、雲に隠れている。
あの月に、寄り添いたかった。
その願いを、滴る雫に落とし、私は鉄格子の中へと入った。
ここが、私に与えられた、唯一の安息。
いつ来るかも分からぬ足音に怯えながら、ここで息を潜めるのだ。
終わりのない悪夢に、私は蝕まれた。
何処かから響く、水の落ちる音色。
「帰りたいよ…。」
その音に掻き消される事を願いながら、私は囁く。
瞼に映るのは、大好きなパパが私を抱き上げてくれた日。
頬を伝うのは、大好きなママが私を撫でてくれた日。
ただ、私を纏うのは、薄紗に擦れる温もりの残穢。
それが、もう帰れないと、私に語りかけてくる。
私は、気づけば、微睡みに落ちていた。
それを現へと戻したのは、痛み。
その脚が、リュパンのものであることを知るのは、丸く抱いた腕の隙間に、歪な笑顔を見た時だった。
私を蝕む手が、鎖を引いた。
「明日より、日が昇る前に全てを準備し、これに着替えて待っていろ。」
リュパンが奏でながら放り投げたのは、漆黒の給仕服。
膝の見える裾と、掌まで覆う袖。
その歪つな彩りは、屈辱を嘲笑う。
「ここで、今すぐ着替えろ。」
そう吐き捨て、彼は、私を見つめる。
鉄格子の中、与えられたばかりの痛みに耐えながら、私は従う他なかった。
その痛み故、鈍くなる動きに、更なる痛みが加えられた。
その恐怖に、肢体が震え、服を掴む事さえ、方法を忘れる。
「何だ、着替えさせてほしいのか。」
その歪つな微笑みが求める答えを、私は見つけ出すことができない。
何を紡いだとて、その先に待つのは、更なる痛み。
その恐怖が、私から言葉を奪った。
ただ彼の手に全てを施される。
その這い回る手が嗚咽を誘う。
それに耐えるために、吐瀉物を飲み込む。
それでも終わらぬ不快なる感覚に、私の心がひび割れる。
何も知らぬ無垢なる心が、その刹那を刺される毎に、糜爛していく。
溢れ出す想いを手放そうと、自らは傀儡であると噛み締めるように刻む。
それでも、雫が止まらず、それが何を意味するのかわからぬままに、何を失いゆくのかだけが、突きつけられる。
心が無ければ、どれだけ幸せだっただろう。
ようやく掴んだ、一つの答え。
リュパンの醜い色彩が、肢体に滲むのを感じながら、その言葉が、朽ちゆく心に反響した。




