共に背負うもの
今日も田中と和泉が仲良く登校してくる。
理想のカップルだと褒め称える声。
冷やかすように笑う声。
どこか浮ついた視線。
そんな眩しい光の裏で、一人佇む影があった。
「けっ。きしょくわりぃ」
学ランのズボンに手を突っ込み、
柔道着を乱暴に肩へ引っかける。
視線を逸らすように、
校舎裏へと消えていった。
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アキラは自分の体力のなさを感じていて、ノブが部活や塾で忙しい中、密かにランニングをやっていた。
学校指定の臙脂のジャージ。
走るたびに、軽く跳ねる髪。
額を伝う汗。
その姿は、やけに目を引いた。
途中で出会うお年寄りや子どもたちが、思わず足を止める。
気づけば、手を振っていた。
それに気づいて、少しだけ目を丸くする。
――すぐに、笑って手を振り返した。
「スポーツっていい出会いがあるんだな」
気分が良くなったアキラのペースは上がる。
流れる汗がなんだか気持ちいい。
――そこで後ろから声がかかった。
「アキラさん!」
緑のジャージ姿。チヒロちゃんだった。
アキラは仲間が現れて思わず笑みがこぼれる。
「アキラさんもトレーニングしていたんですね。偉いです」
走りながらそう言うチヒロ。
「そんなことねーよ。だってノブだって受験勉強と部活両立してるだろ、アイツには敵わねーよ」
「……」
だがそれを聞いたチヒロの表情は、どこか浮かなかった。
「ノブ先輩は…」
チヒロの足が、わずかに鈍る。
少しためらった後、絞り出したように言う。
「ノブ先輩、昨日、部活をやめちゃったんです」
「……は?」
一瞬、呼吸が乱れる。
アキラは思わず立ち止まった。
息が上がる。さっきまであんなに軽く感じた重力が重く感じた。
チヒロの言葉が、頭の中でうまく繋がらない。
ハァ、ハァ、と息を整える。
信じられない。
ノブが?
あんなに柔道が好きだったのに?
しかし、ノブをあんなに慕っていたチヒロちゃんが嘘をつくとは思えない。
一瞬だけ、昨日のノブの様子が頭をよぎる。
『来年、お前と肩並べられるようにさ、塾もちゃんと頑張るわ』
——あいつ、笑ってた。
「……いや、それはおかしい」
アキラは思わず声にする。
「ノブに限ってそれはありえない」
「そうですよね! 私も絶対そう思います! きっとなにか事情があるはずなんです」
ノブがなにかの手紙を読んでいたのを目撃していたチヒロはアキラにそれを話した。
「ひどく怒っていたように見えたんです」
手紙を読んだ後、それを握りしめて破り捨てていたという。
よほどのことが書かれてあったことは間違いない。
「その後、先生に退部届を提出していたんです。私はノブ先輩に理由を尋ねたんですが、私には何も話してくれませんでした」
「ったく……あいつ、後輩に心配させんなよ」
アキラはノブの不器用さに苦笑する。
そんなアキラを見てか、チヒロの顔は少しだけ明るくなった。
「――アキラ先輩なら、ノブ先輩のこと、聞き出してくれますよね?」
「おう。もちろんだ! オレはアイツの親友だからな」
アキラは笑顔で答えた。当然だ。アイツのことはオレが一番知っている。
チヒロはそんなアキラに勇気をもらったのか、喉の奥に詰まっていたことを一気に吐露した。
「私。ノブ先輩が、あんな誰かのせいで柔道を辞めるなんて、あってはならないと思うんです! ノブ先輩はもっと堂々としているべきです!」
「そうだな。チヒロちゃんの言うとおりだ」
一拍。
「……オレが、なんとかする」
チヒロは力強く頷いた。
「はい!」
二人は再び走り始めた。
並んで走る二人の影が、河川敷の遊歩道に長く伸びていた。
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次の日。
「なんで何も教えてくれね―んだよ!!!」
廊下に響き渡るアキラの声。
「アキラが気にすることじゃない。俺はただ、塾に行く時間を増やそうと思っただけだ」
「そんな話してねえだろ!!」
「ノブ、おまえ嘘つくなよ……。お前が手紙をもらって怒ってるところ、チヒロちゃんが見てたんだ」
「……」
「なんでオレやチヒロちゃんに相談しなかった?!!」
ノブの視線が、わずかに揺れる。ノブらしくなかった。
「アキラ。大丈夫だ。お前は気にせず前を向いていろ」
「……っ!!」
何かを言おうとして、言葉にならない。
――パンッ。
アキラの手がノブの頬を叩く。
「見損なったぞ!ノブ!」
そう言うと、アキラは制服を翻し、離れていく。
ノブは、頬を抑えたまま、しばらく佇んでいた。
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発端はノブの下駄箱に入っていた手紙。半ば嫌がらせのようなものだった。
『柔道部に同性愛者がいると噂されている。お前のような奴がいると俺達部員が迷惑する。さっさと辞めろ』
そこにはそう書かれていた。
それを見た俺は、そいつに対する怒りよりも、自分の存在がアキラの足を引っ張っていると、自分に対しての怒りでいっぱいになった。
差出人はわからない。部員たちはいつも通りに見えるのに、それが逆に疑心暗鬼にさせ、部活に身が入らなかった。
アキラは、戦っている。
自分自身の身体の悩みを乗り越えて、
そして、今は、世間の視線にも抗っている。
そこに俺とのスキャンダルなんかを足してはいけない。
部員達の不満がアキラに向かうのなら――
俺が、舞台から降りれば良い。
柔道は大好きだ。
畳の匂いも、あの時間も。
でも、アキラと過ごす未来のためなら、今の自分の夢くらい差し出せる。
ノブは人知れず、拳を握りしめた。
その力は、なかなか抜けなかった。
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柔剣道場の空気は、いつもより重かった。
畳の匂いと、汗の残り香がじっとりと残っている。
「おい、三浦! お前また他所の中学とトラブル起こしたな?」
怒声が響く。
「俺は悪くねえって先生!! だってあいつらが……」
「黙れ!」
ぴしゃりと遮られる。
「お前、二年にもなって後輩にも示しがつかないだろうが!」
「……っ!!」
言い返せない。
歯を食いしばる音が、やけに大きく聞こえた。
「三浦。お前はレギュラーから外す。しばらく部活には来なくていい」
「そんな!!先生!!」
返事はない。
背中を向けたまま、顧問は次の指示を飛ばしている。
――終わった。
三浦はその場に立ち尽くしたまま、拳を震わせていた。
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柔剣道場を出ると、陽の光がやけに眩しかった。
グラウンドの喧騒が遠くに聞こえる。
「ちっ……くそが」
足元の石を、思いきり蹴飛ばす。
乾いた音が、校舎の壁に当たって弾けた。
体育館裏。
人気のない場所で、柔道着を肩に引っ掛けたまま、乱暴に唾を吐く。
そこへ、だらしなくシャツをはみ出させた後輩が駆け寄ってきた。
「お、ケンジ先輩。今日暇っすか? ゲーセン行きましょうよ」
「……おう」
少しだけ間を置いて、
「いいぜ」
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ゲームセンターの電子音が、やけに耳につく。
「うっそ、マジっすか!?」
後輩の声が、やけに大きい。
「そうだぞ。お前知らなかったのか?」
三浦は、鼻で笑う。
「アイツは――和泉は、もともと男だったんだぜ」
「しんじらんねー……」
「でよ」
コインを指で弾く。
「アイツが柔道部の田中を落として、彼女みたいな顔してさ」
吐き捨てるように。
「マジで迷惑なんだよ」
「うわ……それキツいっすね」
後輩も調子を合わせる。
「その田中って人もバカっすね。今まで男だった奴と付き合うとか、マジ無理っす」
「だよなぁ」
三浦は笑う。
「ほんと、きしょくわりぃわ」
そして――
「ま、そいつも柔道部やめちまったし、スッキリしたわ」
ギャハハ、と笑い声が響く。
その時。
「……おい、ケンジ」
低い声。
空気が、一瞬で冷える。
「ト、トオルさん……」
振り向いた先にいたのは、桜庭だった。
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「やめさせられた? 部活ってお前、柔道部だったよな?」
ゆっくりと歩いてくる。
「はい……そうっす」
「田中とやってたんだろ」
「……はい」
「で、その田中がやめた?」
桜庭の目が、細くなる。
「は? どういうことだよ。田中が柔道やめるわけねーだろ」
後輩が、へらへらと笑う。
「いやー、なんかその和泉とかいうキモいやつと付き合いだしたから、やめさせられたんじゃないっすかね」
――その瞬間。
「ハァ?」
声が、低く沈む。
「今、なんつった?」
誰も、動かない。
ゲーム音だけが、やけに遠くで鳴っていた。
空気が凍る。
「え、いや……」
「ケンジ」
桜庭は、三浦だけを見た。
「お前、それ――田中にも言ったのか?」
「え……?」
「聞いてんだよ」
一歩、近づく。
「正面切って、言ったのかって」
「だって、和泉が……っ」
三浦が何かをいいかけるが。
その瞬間――
――ッ!!
横殴りの一撃。
三浦の体が、横に弾けた。
「だってなんだ?!! てめえと俺を一緒にすんじゃねぇぞ!!!」
怒鳴り声が、ゲームセンターの喧騒を突き抜ける。
「俺はなぁ――」
胸ぐらを掴み上げる。
「正面から言えねぇ奴が、一番ムカつくんだよ!!!」
「……っ!!」
「……ったくよ」
乱暴に突き放す。
「田中のヤツも、何やってんだ……」
舌打ち。
「オラ、立て」
無理やり引き上げる。
「来いよ」
低く言う。
「言いてぇことあるなら――本人に言えよ」
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教室の扉が、乱暴に開いた。
「田中ァ~~いるんだろ」
ざわつきが一瞬で静まる。
桜庭は、そのまま肩で風を切るように入ってきて――
三浦を、ノブの前に突き出した。
「……桜庭? 三浦……?」
ノブは眉をひそめる。
「おい、どういうことだ?」
桜庭は答えない。
代わりに、じっとノブを見る。
「……田中」
低く言う。
「お前、部活やめたらしいな?」
「……ああ」
怪訝な顔。
「けど、それがどうした」
桜庭は、大きくため息を吐いた。
「……お前さ」
苛立ちを隠さずに言う。
「何ボケっとしてんだよ」
「は?」
「こいつがよ」
三浦の肩を蹴る。
「お前と和泉のこと、コソコソ言いふらしてんの知らねーのか?」
――空気が変わる。
ノブの目が、三浦を射抜く。
「……どういうことだ」
低い声。
三浦の肩が震える。
「いえ、その……」
「おい!!」
桜庭が怒鳴る。
「ちゃんと喋れよ!!!」
胸ぐらを掴んで引き上げる。
「陰でしか言えねえのかよ!!!」
そのまま、ノブの前に突き出す。
「言えよ」
ドン、と押す。
「本人の前で」
「ヒィ……」
――そして。
三浦は、全部吐いた。
喧嘩のこと。レギュラーを外されたこと。
そして――手紙のこと。
沈黙。
誰も、何も言わない。
桜庭は横を向いたまま、吐き捨てる。
「……終わってんな」
ノブの拳が、ゆっくりと握られる。
「三浦、お前……」
だが――
その拳は、振り下ろされなかった。
代わりに、ゆっくりと力を抜く。
桜庭は、それを見ていた。
じっと。
試すように。
そして――
「……ま、あとはお前の問題だ」
興味を失ったように、視線を外す。
「じゃあな」
手をひらひら振って、去っていく。
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「くそっ。ノブのやつ、オレにも言えねぇってなんだよ……」
アキラはひとり、河川敷の遊歩道を走っていた。
夕方の風が、汗で湿ったジャージにまとわりつく。
遠くで部活帰りの笑い声が聞こえるが、それすら妙に遠い。
だが――今日は、足が重い。
いつもなら軽く弾むはずの一歩が、地面に貼りつくみたいに離れない。
『いいからお前は前を向いていろ』
ノブの言葉が、頭の中で何度も反響する。
前を向け?
「……ふざけんなよ」
思わず、吐き捨てる。
今まで、対等だと思っていた。
隣で笑って、隣で怒って、同じ景色を見ていると思っていたのに――
(オレは……守られる側かよ)
胸の奥が、きりきりと痛む。
「……っ!」
一気にペースを上げる。
風を切る音が大きくなる。
靴底がアスファルトを叩く音が、やけに荒い。
全部、振り切るみたいに。
がむしゃらに、前へ。
けれど――
「っ、は……ぁ……!」
すぐに呼吸が乱れる。
肺が焼けるみたいに痛い。
足が、もつれる。
膝が、笑う。
「くそ……っ」
やがて、耐えきれずに減速する。
ふらつきながら、膝に手をついて体を支える。
ゼェ、ゼェ、と荒い呼吸音だけが響く。
視界の端で、夕焼けが滲んでいた。
――そこへ。
「アキラさん!」
弾んだ声。
振り向く。
「……チヒロちゃん」
そこには、同じように肩で息をするチヒロが立っていた。
「ごめんな、チヒロちゃん」
まだ呼吸は整わないまま、言葉を絞り出す。
「オレ、あんなこと言ったのにさ。結局、なにもしてやれなくて」
情けなくて、視線を逸らす。
チヒロは、すぐに首を横に振った。
「そんな! アキラさんが謝ることじゃないです!」
まっすぐな声。
そのまま、一歩近づいて――
「それに――」
チヒロはアキラの手を取り、両手で握る。
そして少しだけ息を吸って、
「ノブ先輩、部活に復帰したんです!」
「――え?」
思考が止まる。
「えええええええ?」
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アキラはノブの部活の終わりを待ち、校門の外で立っていた。
夕焼けが、アスファルトを赤く染めている。
部活帰りの生徒たちが、ぽつぽつと横を通り過ぎていく。
その中に――
「……アキラ」
ノブがいた。
柔道着を肩にかけたまま、少しだけ息を切らしている。
目が合う。
けど、どちらもすぐに逸らした。
「……帰るか」
「ああ」
それだけ言って、歩き出す。
並んでいるのに、少しだけ距離がある。
足音だけが、やけに響く。
しばらく、無言。
アキラは、ずっと前を見たまま。
ノブも、何も言わない。
言葉を探しているのが、分かる。
でも――出てこない。
やがて。
アキラが、ほんの少しだけ顔を背けたまま、口を開く。
「……悪かった、ノブ」
「すまん、アキラ」
ぴたり、と重なる。
一瞬、二人とも止まる。
それから、思わず顔を見合わせて――
「……は?」
「……は?」
間の抜けた声。
けど、そのあと、どちらともなく小さく息が漏れた。
張り詰めていたものが、少しだけ緩む。
アキラは、頭をかく。
「なんだよそれ……」
ノブも苦笑する。
「お前が先に言えよ」
「言っただろ今!」
「同時だろ!」
少しだけ、空気が戻る。
けど――
アキラはふっと表情を引き締める。
「……オレさ」
足元を見る。
「お前が勝手に決めて、勝手に離れようとしてんの……ムカついた」
ノブは何も言わない。
ただ、聞いている。
「オレ、そんな頼りねえかよって」
声は荒くない。
でも、真っ直ぐだった。
ノブは一度だけ、息を吐く。
「……違う」
短く言う。
「頼りねえとかじゃねえ」
少しだけ間。
「巻き込みたくなかっただけだ」
アキラは眉をひそめる。
「はあ?」
ノブは視線を前に向けたまま続ける。
「変な手紙とか、変な噂とか……ああいうの、全部まとめて俺が引き受けりゃいいと思った」
「……バカかよ」
即答だった。
「そういうのはな、一緒に背負うもんだろ」
ノブが、わずかに目を見開く。
アキラは顔を上げる。
「オレ、逃げてねえぞ」
その一言。
それだけで、十分だった。
ノブは少しだけ笑って、
「……知ってる」
と答えた。
沈みかけていた夕日が、二人の影を長く伸ばす。
さっきまでの距離が、いつの間にかなくなっていた。
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チヒロは、アキラにノブ先輩のことを託した次の日。
校門でアキラを見つけ、少し遅れてその背中を追いかけた。
けれど――
『見損なったぞ!ノブ!』
その言葉が、廊下に強く響いた瞬間、足が止まった。
振り返ることも、声をかけることもできなかった。
ただ、立ち尽くすしかなかった。
(……私のせいだ)
胸の奥が、じわりと重くなる。
自分が蒔いた種だ。
ノブ先輩のことを、アキラ先輩に話したのは自分だ。
それが――
二人を、あんな顔にさせた。
(どうしよう……)
答えなんて出ないまま、時間だけが過ぎていった。
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柔剣道場の隅で、チヒロはひとり、黙々と打ち込みを繰り返していた。
畳の匂い。
擦れる柔道着の音。
誰かの掛け声。
けれど――
どれも、どこか遠い。
ノブ先輩がいないだけで、
この場所はまるで、色を失ったみたいだった。
(……なんで、私……)
手が止まる。
帯を握ったまま、うつむく。
「……何やってるんだろ、私」
小さく、こぼれる。
その時――
「――おい、山下」
不意に、声が落ちてきた。
はっと顔を上げる。
「どうしたんだ? 山下」
そこに立っていたのは、
柔道着を着た、ノブだった。
「……え」
思考が追いつかない。
「ノブ先輩……? どうして……」
ノブは、少しだけ困ったように笑って、
頭をかく。
「悪いな」
一歩、近づいてくる。
「また、一緒に練習――やるか?」
その何気ない一言で、
張りつめていたものが、一気にほどけた。
視界が、にじむ。
「……っ」
涙が、勝手に溢れてくる。
止めようとしても、止まらない。
ぐしゃぐしゃの顔のまま、
それでも、必死に頷いた。
「……はい!!」




