(ep. 3.5) 抵抗と妥協
4話の少し前。二年生の秋~冬のお話です。
朝。
ズボンを持ち上げて、足を通す。
途中までは普通だった。
――そこで止まる。
「……は?」
もう一段、引き上げようとする。
だが腰骨のところで、布が引っかかったまま動かない。
(……いや、待て)
昨日までは普通に履けてたはずだ。
もう一度、力を入れる。
「っ……」
布が少しだけ上がって――それ以上、上がらない。
(入らない)
というより、形が合ってない。
「……どうすりゃいいんだよ、これ」
しばらくそのまま固まる。
玄関の外から声。
「アキラー。おせーぞ、寝坊か?」
ノブの声だ。
「……あー、今行く」
とっさに手に取ったのは、学校のジャージだった。
理由は特にない。ただ、それしか“入るもの”がなかった。
袖を通す。
違和感はあるのに、安心もある。
(……なんだこれ)
玄関を開ける。
「わりい、ノブ」
「おう」
ノブはいつも通り立っていた。
だが視線だけが、一瞬だけ止まる。
「……お前、それジャージ?」
「ん、まあ……腰やったっぽくてさ」
言いながら、少し視線を逸らす。
「ふーん」
ノブは納得したように頷く。
だが、歩き出す直前に小さく言う。
「……なんか最近、お前ちょい細くなってね?」
「は?」
「いや、気のせいかもしんねーけど」
軽く笑って流す。
「ほら、行くぞ」
カバンを持ち上げてくる。
「持つわ」
「や、いいって」
「いいから」
当然みたいに手が伸びる。
その手を見ながら、アキラは一瞬だけ言葉に詰まる。
(……細い?)
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教室。
机に突っ伏すアキラ。
(おかしい)
(細いってなんだよ)
(太ってるわけでもないのに)
(入らないって……)
足音。
いつもの三人。
「やっほーアキラちゃん」
アヤの声。
「なんで制服着てないの?」
やけに明るくて少しだけざわつく。
「……いいだろ」
顔を上げないまま。
「別に」
「まあ、楽なのは分かるけど」
ナオがぽつり。
一瞬だけ、視線を感じる。
体を見られているような気がして、
少しだけ肩に力が入る。
「いや……」
アヤが回り込む。
視界に顔が入る。
アキラは、反対側に顔を背けた。
「あんたさ」
アヤの声が、少しだけ近い。
「気づいてないの?」
「……は?」
思わず顔を上げる。
「何がだよ」
一拍。
「……べっつにー?」
アヤが笑う。
軽い。いつもの調子。
でも、
ほんの少しだけ、
間があった。
「もうさ」
ミカが後ろから言う。
「女子のでよくなーい?」
「それ、いいね」
アヤが乗る。
(は?)
「ちょっと待って、それは軽すぎるって」
ナオがすぐに止める。
「えー?」
「いやいやいや」
三人で軽く言い合う。
いつもの、どうでもいいノリ。
(……なんだよ、それ)
笑うところのはずなのに、
うまく乗れない。
(いつもだろ、こういうの)
(今さら何だよ)
なのに。
さっきの「気づいてないの?」が、
妙に引っかかる。
三人の顔を見る。
笑ってる。
いつも通り。
――なのに。
(……なんで、あんな顔してた?)
一瞬だけ見えた“間”が、
頭に残って離れなかった。
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学校帰り。
「ノブ、帰りちょっと付き合ってくれるか?」
「おう、いいぞ」
指定制服店。
ガラガラ。
「ごめんくださーい」
店内は学校指定のシューズやスニーカーが並んでいたり、
自転車用ヘルメットなどがぶら下がったこじんまりとした商店街の一角の店。
「いらっしゃい」
ジャージ姿のアキラを見ながら声を返す店員の女性。
「あのー、制服の下がちょっと合わなくなってきてて……少し大きめのを」
アキラがそう言う。
店員はメジャーを取りながら頷く。
「そう、今ちょっときつい感じ?」
「どの辺が気になるの?」
店員は一瞬だけ視線を止めて、
「スカートの丈?それとも腰回り?」
(は?今なんて?)
一拍遅れる。
「……いや、男子です」
「……あら、そう。ごめんなさい」
すぐに表情を戻し、何事もなかったようにメジャーを当てる。
「じゃあ、腰、測るわね」
(……なんだ、今の)
布が触れる。
腰に、メジャーが回される。
その手つきは自然で、慣れていて――
だからこそ、
さっきの一言だけが、浮いている。
(聞き間違い……じゃ、ねえよな)
一拍。
(……最近)
ふと、引っかかる。
アヤの言葉。
ミカの距離感。
ナオの視線。
(……いや)
首を振る。
(気のせいだろ)
そう思おうとして――
でも、うまくいかない。
―ガラガラッ。
ノブが入ってくる。
「どうした?アキラ」
「いや、別になんでもねえ」
「そうか」
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休みの日。
駅前は、木枯らしが吹き抜けていた。
待ち合わせ場所の広場。色づいた銀杏の葉が足元を舞う中、アキラは肩を丸めて立っていた。
アキラはアヤ達に映画に誘われた。
ちょうど観たい映画でもあったので軽く承諾したのだが、
「……おせーな」
アヤ達はまだ来ていなかった。
首元までジッパーを上げた、オーバーサイズのグレーのスウェット。少し風が冷たい。
「あーっ! いたいた! アキラちゃん!」
人混みを割って現れたのは、ミカ、ナオ、そして——獲物を見つけたみたいな笑みを浮かべたアヤだった。
「……よお」
軽く手を上げると、ミカが真っ先に足を止めた。
「は? なにそれ、ださくね?」
「……っ、うっせーな」
「ミカ、言いすぎ」
ナオが苦笑するが、その視線も一瞬だけアキラの胸元あたりで止まる。
(……見んなよ)
アキラは無意識に肩をすくめた。
「でもさ、そのスウェット……なんか無理やり着てない? 裾、変に上がってるし」
「しかたねーだろ。最近、昔の服が……入んなくて」
“太った”という言葉が喉まで出かかって、飲み込む。
理由なんて、うまく言えなかった。
「ふーん……」
アヤはアキラをじっと見てから、ぽんと手を打つ。
「じゃあさ。映画まで時間あるし、ちょっと服見に行こ」
「……は?」
引っ張られてきたのは、デパートのレディースフロアだった。
パステルカラーの照明。甘い香水の匂い。
視界に入る服が全部、場違いだと主張してくる。
「ちょ、待て。無理無理無理」
「いいじゃん、アキラちゃん」
ミカがハンガーからニットを一枚取って、軽く体に当てる。
「なにいってんだミカ、オレは……」
「じゃあせめて、そのダサいのよりマシなの選びなさいよ」
アヤが背中を押す。
「ナオ、その辺のボーイッシュなの何着か持ってきて。サイズは……Mでいいわね」
「はーい」
ナオは苦笑しながら売り場へ向かう。
「……なんだよ、それ」
気づいたら試着室の前だった。
カーテンが閉まる。
「アキラちゃーん、早くー」
ミカの声。うるせえ。
ため息をひとつ吐いて、服に手をかける。
(なんでこうなってんだよ……)
ふと、試着室の姿見に視線が落ちる。
一瞬、動きが止まった。
(……は?)
思考が追いつかない。
(……これ、誰だ?)
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映画館のカウンター。
着替えさせられたまま、放心状態で列に並んでいたアキラの手に、店員がクーポンチケットを差し出した。
「本日はこちら、レディースデイのチケットがご利用になれます。レストランフロアでお使いになれますので、ぜひご利用ください」
「あ、あの、オレ……」
言いかけた瞬間、アヤが横からそれを奪うように受け取った。
「ありがとうございます、ねえ、アキラ、ちゃん?」
軽い声。
そのままバッグにねじ込まれる。
「……っ」
チケットに印字された文字が、視界に残る。
――レディースデイ。
(……あれ)
一拍。
(オレのこと?)
アキラは、熱を帯びた自分の頬を、冷えた指で覆うことしかできなかった。
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レストランの店内に漂う、甘ったるいパンケーキの匂いと、ポテトの油。
ドリンクバーの機械が唸る音の隙間で、ミカの屈託のない笑い声が弾けた。
「やっぱり行けたじゃん。てか、さっきの受付、ちょーうけるー」
一拍。
「一ミリも疑ってなかったよね」
「でしょ、やっぱ服買って正解だったね」
ストローをくわえたまま、アヤが満足そうに笑う。
「でもさ……」
ナオが、氷の溶けかかったメロンソーダを見つめたまま、小さく言う。
「これって、いいのかな?」
「え?」
ミカが、わざとらしく首を傾げる。
「だって間違ったのは受付の人じゃん」
「そうそう。気にしなくていいって」
軽い調子で返される言葉。
ナオは、言い返さない。
ただ一度だけ、アキラを見る。
何か言いかけて、やめる。
そのまま、曖昧に笑った。
――その視線だけが、やけに残る。
アキラは俯いたまま、何も言えない。
(……間違いって、なんだよ)
さっきの光景が、勝手に浮かぶ。
受付の女の声。
迷いのない手つきで差し出されたチケット。
『レディースデイのチケットがご利用になれます』
(……普通に、渡してきたよな)
訂正する隙もなかった。
というより――
(……しなかった、だけか?)
喉の奥が、わずかに引っかかる。
カップの中で、氷が小さく音を立てた。
(これ、オレのことなのか?)
考えた瞬間、思考が止まる。
それ以上、進めたくないみたいに。
「ねえ」
アヤが、スマホから顔を上げる。
「ノブっちって、今日どこいるの?」
「部活じゃない? そろそろ終わる時間だけど」
「ふーん」
軽い返事。
けれど、その指はすぐに画面を叩き始める。
――数分後。
カランカラン、と入口のベルが鳴った。
冷たい外気と一緒に、ノブが入ってくる。
「お、アキラ。お前らもいたのか」
スポーツバッグを肩にかけたまま、軽く手を上げる。
「あ、ちょうどいいじゃん」
アヤがにやっと笑う。
「ね、ノブっち」
「アキラちゃん、今日どう? 私たちがプロデュースしたんだけど」
「……どうって?」
ノブの視線が、アキラに止まる。
ほんの一瞬、言葉が遅れる。
その目が、服をなぞる。
輪郭を確かめるみたいに。
「……似合ってるぞ」
少し間を置いて、それだけ言う。
すぐに視線を逸らした。
「ほらやっぱり」
ミカが笑う。
「でしょ」
アヤも楽しそうに続ける。
「……けどさ」
ノブが、小さく言う。
「なんか……無理してねえか?」
その一言だけが、場に沈む。
誰もすぐに返さない。
アキラは――顔を上げられなかった。
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教室。
「今日は身体測定やるから、全員体育館行ってジャージに着替えろ」
ざわつく教室。
椅子が引かれる音。
一斉に人が立つ。
廊下に出る。
流れに乗ろうとしたところで、
「和泉」
呼ばれる。
振り返る。
先生が手招きしている。
廊下の端。
人の流れから少し外れた場所。
「……お前は、あとでいい」
小さい声。
周りに聞こえないように。
「保健室、行ってくれ。別の先生来るから」
少しだけ、間。
「……な?」
(……なんだよ、それ)
返事をする前に、
人の流れが遠ざかっていく。
「和泉くん」
保健の先生。
いつの間にか近くに来ている。
「こっち」
「……はい」
みんなとは逆の方向へ歩く。
すれ違う視線。
すぐ逸らされる。
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保健室。
カーテンの内側。
「じゃあ、測るね」
事務的な声。
身長。
知ってる。
一年の頃から伸びてない。
153cm。
変わってない。
小さく息が漏れる。
体重。
47kg。
軽い。
「腕、少し上げて」
先生の手が止まる。
「……和泉くん、胸、下になにか着けてる?」
(ナベシャツ……バレてる……)
視線を逸らしながら、頷く。
「……悪いけど脱いでもらえるかな?」
「はい……」
――。
メジャーが胸に回る。
触れる。
ほんの一瞬、
手が止まる。
何も言わない。
そのまま、
数字を読む。
紙に書く音。
体脂肪計。
表示を見て、
ペンが止まる。
一拍。
カリ、と書く。
淡々と進む。
紙に書かれる音だけが残る。
先生の手が止まる。
紙を見ている。
少し長い。
顔を上げる。
「和泉くん」
「……体のこと、気づいてる?」
視線がまっすぐ。
逃げ場がない。
「……」
一瞬だけ迷って、
頷く。
「ご両親には?」
また、頷く。
「……そう」
それ以上は何も言わない。
紙を閉じる音。
「いいわ。着替えて戻っていいよ」
カーテンの外。
静か。
(……やっぱ、おかしいよな)
さっきまでのざわめきが、遠い。
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休み時間。
チャイムが鳴る。
空気が崩れる。
人が動く。
声が増える。
「和泉」
後ろから呼ばれる。
振り返る。
よく話してた男子。
半歩、遠い。
「……わりい、なんでもねえ」
目を合わせないまま、
少しだけ体を引く。
そのまま去る。
間を置かず、
別の声。
「ねえ」
女子。
すぐ近く。
覗き込むみたいな距離。
「大丈夫?」
まっすぐな目。
逃げ場がない。
「……別に」
短く返す。
女子は少しだけ笑って、
でも、
困ったように視線を落として、
離れる。
一瞬、周りの声が遠くなる。
「アキラ」
ノブの声。
顔を上げる。
「購買部、付き合ってくれ」
その瞬間、
ざわ、と空気が揺れる。
さっきとは違う種類の視線。
振り返る。
目が合う前に、
外れる。
「……おう」
ノブがちらっとアキラの顔を見る。
すぐに視線を外す。
わずかに間。
「行くぞ」
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低い陽射しが差し込む、中庭のベンチ。
いつものように二人で座る。
弁当の包みを開く。
ノブが弁当に手を伸ばす。
卵焼きを一つ、勝手に取る。
「おい」
少しだけ顔をしかめる。
ノブは気にした様子もなく、
自分のパンをかじる。
少し、冷たい風が通る。
無意識に、肩がすくむ。
ノブの手が、
ほんのわずかに止まる。
サンドイッチを半分、
無造作に蓋に置く。
「……やる」
「いらねーし」
言いながら、
手は止まらない。
かじる。
(……うまいな)
ノブは、それ以上何も言わなかった。
日向が、少しだけあたたかい。
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廊下。
ミカと誰かが話している。
見慣れない上級生の男子。
長い指でスマホをいじりながら、
どこか気の抜けた立ち方。
「でさ、その写真バズっててさ」
「でしょー?セラっちマジ天才」
(……誰だよ)
視線が一瞬、合う。
逸らそうとした瞬間、
「へえ」
声が来る。
「君が和泉くん?」
足が止まる。
ミカが振り返る。
「あ、セラっち。この子」
「例の」
軽く言う。
(例のってなんだよ)
世良が一歩近づく。
じっと見る。
遠慮がない。
でも、嫌な感じじゃない。
「……うん」
小さく頷く。
「やっぱいいね」
「なにがだよ」
反射で返す。
世良は少し笑う。
「素材」
一拍。
「……まあ、今のままでも面白いけどね」
軽く肩をすくめる。
(……は?)
「ねー、アキラちゃん」
「セラっちさ、こんなんやってるんよ。可愛いっしょ」
ミカがスマホを差し出す。
画面。
女キャラのコスプレ。
違和感がない。
というか、完成している。
「……え?」
視線が止まる。
世良はその反応を見て、少しだけ目を細める。
「面白いでしょ」
軽い声。
「和泉くんもやってみる?」
一拍。
冗談みたいなトーン。
でも、引かない。
「別にさ」
視線を外す。
「似合うかどうかって、そんな大事?」
(……は?)
言葉が出ない。
世良はそのまま続ける。
「やりたいかどうかでしょ」
さらっと。
重さがない。
「やる人はやるし、やらない人はやらないし」
それだけ言って、
もう興味が移ったみたいにスマホをいじる。
(最初から、それだけの話だったみたいに)
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ひと気の無い渡り廊下。
中庭が見下ろせる。
午後の光が、床に長く伸びている。
ミカと世良先輩が歩いているのが見えた。
親しそうに肩を寄せて、スマホを覗き込んでいる。
ときどき、どちらかが笑う。
その距離が、やけに自然に見えた。
さっきの会話が、まだ少しだけ頭に残っている。
『やりたいかどうかでしょ』
意味は分かる。
分かるけど――
胸のあたりが、少しだけざわつく。
うまく息が吸えない。
(……なんでだよ)
視線を逸らす。
でも、言葉だけが残る。
(似合うとかじゃなくて)
(やりたいかどうか)
喉の奥で、何かが引っかかる。
言葉にできないまま、そこに居座っている。
自分の中で、引っかかる場所がある。
でも、それがどこなのか分からない。
ただ、そこにあるだけだった。
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放課後。
校門を出て、並んで歩く。
会話はいつも通り。
ゲームの話。どうでもいいバグの話。
笑いながら、適当に流れていく。
(……別に、普通だ)
そう思っている。
そう思っているのに。
アキラが、少し前を見て歩いている。
横顔。
特に変わったところはない。
なのに、視線が一瞬だけ止まる。
風が吹く。
アキラの肩が、わずかにすくむ。
――寒いのか。
自然に、手がポケットに入る。
指先に触れる。
手袋。
(……あー)
取り出しかけて、
止まる。
少しだけ、迷う。
理由は、よく分からない。
前だったら、
普通に渡していた気がする。
「ほら」って。
それで終わりだった。
でも――
今、それをやると、
何かが変わる気がした。
(……なんだよ、それ)
意味は分からない。
分からないまま、
そのまま手を離す。
ポケットの中に戻す。
代わりに、
歩幅を少しだけ落とす。
アキラが隣に来る。
それでいい気がした。
「……さみーな」
適当に言う。
「……な」
返ってくる。
それだけで、
十分なはずなのに。
(……なんなんだよ)
前を向いたまま歩く。
それ以上は、
それ以上は、何もしなかった。
ただ、
隣にいる距離だけは、ずっと測っていた。
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吐く息が白い。
並んで歩く。
さっきから、どうでもいい話をしている。
「でさ、そのボス、第二形態あんのマジで反則だろ」
「あー、あれな。HP削ったと思ったら全回復すんだよな」
「しかも攻撃パターン増えるし」
「理不尽ゲーかよってな」
小さく笑う。
いつも通り。
本当に、いつも通りだ。
(……なのに)
風が吹く。
冷たい。
思わず肩がすくむ。
その瞬間、
ノブの視線が一瞬だけこっちに来る。
すぐ逸れる。
会話は続く。
「でもさ、ああいうの倒せた時ちょっと楽しくね?」
「まあな。達成感はある」
ノブがポケットに手を入れる。
少しして、何かを取り出しかける。
――止まる。
そのまま、何もなかったみたいに戻す。
(……なんだよ)
気づかないふりをする。
「……さみーな」
ノブは前を向いたまま、それだけ言う。
「……な」
適当に返す。
空気は悪くない。
むしろ、いい。
どうでもいい話をして、
ちゃんと笑って、
並んで歩いてる。
それなのに。
距離が、一定以上近づかない。
触れそうで、
触れない。
分かれ道が見えてくる。
足が、ほんの少しだけ緩む。
「なあ、アキラ」
「ん?」
ノブが、こっちを見る。
一瞬だけ、目が合う。
「……やっぱいい」
視線が逸れる。
一拍。
何かが、そこに残る。
でも、拾えない。
「じゃあな」
「……おう」
ノブが歩き出す。
背中が、少しずつ遠ざかる。
(……なんだよ)
言いかけて、やめるなよ。
そう思うのに、
呼び止める理由もない。
吐いた息が、白く滲む。
すぐに、消えた。
背中は、もう見えなかった。
-----------------------------------
駅前。
吐き出す息は、冬の湿り気を吸って重く白い。
人の流れに押されるように歩く。
「ほらほら、アキラちゃん、遅いって! モタモタしてると、お目当てのサークル売り切れちゃうじゃん」
アヤが振り返り、ガシガシと雑に腕を引く。
「……っ、分かってるよ。つーか、なんでオレがこんな人混みに来なきゃなんねーんだよ。……おい、引っ張んな!」
「いいじゃん、面白いから。ほら、見て」
顔を上げる。
(……なんだ、ここ)
派手なウィッグ。
重たい衣装。
近くを横切った“誰か”。
男か女か、一瞬で分からない。
視線が、迷う。
もう一人。
また、分からない。
(……なんだよ、これ)
「うわ、人多すぎ。ありえなくない? マジだるいんだけど」
ミカが吐き捨てる。
でも視線は忙しく動いている。
一瞬だけ、
アキラの着膨れたコートを見る。
「てかさー、アキラちゃん。その格好、マジでだっさ」
間。
「せっかく顔もスタイルもいいのに、もったいな」
もう次を見てる。
「ねえ、セラっちどこ?」
「あっちじゃない?」
ナオが指差す。
いた。
人混みの中で、
そこだけ空気が静かだ。
世良。
すでに衣装を着ている。
自然に立っているのに、
視線が吸われる。
「セラっちー!」
ミカが駆け寄る。
距離が近い。
すぐ離れる。
少しだけ、照れてる。
「和泉くんも来たんだ」
視線が来る。
世良が一歩、近づく。
逃げ場が、少しだけ減る。
「……はい。まあ」
声が、少し硬い。
少しだけ、見られる。
なぞるみたいに。
「やっぱいいね」
「……なにが、ですか」
「雰囲気」
軽い。
重さがない。
「やってみる?」
さらっと言う。
「いや、いいです」
即答。
「そっか」
引く。
それ以上来ない。
その代わり、
少しだけ近くで、また見る。
評価じゃない。
期待でもない。
ただ、見てる。
ミカの声。
「もう着ればいいじゃんねー」
笑い声。
世良も笑う。
もうそっちにいる。
(……なんなんだよ)
胸の奥が、少しざわつく。
理由は分からない。
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部屋。
ドアを閉めると、外のざわめきが遠くなる。
コートを脱ぎながら、ふと視線がクローゼットに止まった。
扉を開ける。
中に、あの日の紙袋が掛かったままになっている。
映画館の帰り。
アヤたちに半ば押し切られるように買わされた服。
(……これ、結局一回もちゃんと着てねーな)
袋を取り出す。
カサ、とビニールが小さく鳴る。
中から服を引き出す。
軽い。
柔らかい。
指先に触れる生地が、妙に滑らかで落ち着かない。
前なら、触っただけで戻していた気がする。
でも今日は、
少しだけ見てしまう。
肩のライン。
細いシルエット。
鏡の前に立てば、どう見えるのか。
そこまで考えて、
はっとする。
(……何考えてんだよ)
小さく眉をひそめる。
嫌なわけじゃない。
でも、
認めたくない。
胸の奥が、少しざわつく。
(別に、いいか)
言い聞かせるように呟く。
(気にしすぎだっただけだろ)
丁寧に畳み直して、袋に戻す。
クローゼットの奥に掛ける。
扉を閉める。
……閉めたはずなのに、
さっき指に触れた感触だけが、
少しだけ残っていた。
------------------
駅前。
噴水前。
ノブはスマホを手に、キョロキョロと落ち着かないでいる。
「ノブ」
声がかかる。
視線がしばらく人混みをさまよう。
手を上げるその姿。
一瞬、ノブの目が見開く。
あの時、着ていた服。
起毛のオーバーオール。
その上にAラインの裾の長い厚手のパーカーを羽織っている。
アキラは視線に気づくと俯いて目をそらす。
「……よお、アキラ」
「……おう」
さっと隣に並ぶ。
一度だけ見て、すぐ前に戻す。
「……無理は、してねえのか?」
「……なんだよ、それ」
歩き出す。
アキラも釣られて付いてくる。
少し緩めて、歩調を合わせる。
「いや、無理してねえなら、いい」
「は?」
沈黙。
「似合ってるぞ」
言った瞬間、風が吹く。
アキラの肩が跳ねる。
「……寒いのか?」
「………ぅ」
俯いたまま小声で何か言っている。
周囲の喧騒でうまく聞こえない。
「わりい、聞こえねえ」
「……サンキュな、ノブ」
「……おう」
そう言うとアキラは、
ポケットに入れっぱなしの俺の腕に、
手を添えた。
少し心臓が落ち着かない。
「……飯、食いに行こうぜ。腹減ったわ」
「……おう」




