ほどけて、結んで。
海からの帰り道。
西に傾いた陽が、街全体をやわらかい橙色に染めていた。
アスファルトも、電柱も、歩く人の影も、少しだけ長く伸びている。
潮の匂いが、まだ微かに残っていた。
二人は並んで歩いていた。
指先が、触れる。
そのまま、どちらからともなく手を繋ぐ。
アキラの顔は、まだ少しだけ赤い。
泣きはらした痕が、完全には消えていなかった。
「……なあ、アキラ」
ノブが、少しだけ横目で見る。
「なに」
アキラは前を向いたまま答える。
少しだけ、声が軽い。
ノブは一度だけ言葉を探して、
それから、何でもないことみたいに言った。
「今日さ」
一拍。
「久しぶりに、うちに泊まりにこねえか」
言いながら、ちら、とアキラの顔を窺う。
アキラは一瞬だけ動きを止めた。
「え……だって……」
視線が落ちる。
繋いだ手が、ほんの少しだけ強く握られる。
ノブは前を向いたまま、続ける。
「かーちゃんには、もう話した」
間。
少しだけ声を落として、
「……お前のことも」
沈黙。
足音だけが、規則正しく続く。
アキラは何も言わない。
ただ、少しだけ俯いたまま歩く。
「……そっか」
やがて、ぽつりと落ちた声。
努めて明るくしようとして、少しだけうまくいっていない。
一拍。
そのまま顔は上げずに、
「……行きたい」
小さく。
でも、はっきりと。
その声には、わずかに嬉しさが混じっていた。
それから、ゆっくりと顔を上げる。
隣のノブを見上げる目は、まっすぐで。
「でも……いいのか?」
純粋な確認だった。
ノブは少しだけ間を置いて、
わざとらしく困ったように眉を寄せる。
「実はさ」
「英語、わかんねえとこあんだよ」
少しだけ情けない声。
アキラが瞬きをする。
ノブは続ける。
「教えてくれねえか?」
今度は、ちゃんとアキラの方を見た。
その目は、逃げていない。
一瞬。
アキラの表情が、ほどける。
「おう」
短く返して、
「まかせろ。みっちり教えてやる」
ニコッと笑う。
さっきまでとは少し違う、力の抜けた笑顔。
ノブも、少しだけ笑う。
「おう。たのむ」
繋いだ手は、そのままだった。
夕日が、二人の影を長く伸ばしていく。
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「ただいまー」
ノブの声が、いつも通りの調子で玄関に響く。
「おじゃまします」
少しだけ遅れて、アキラが続く。
玄関の奥から、足音。
ノブの母が顔を出す。
ノブは出ていった時と同じ格好のまま。
その隣で、アキラは大きめのトートバッグを肩にかけている。
中身が多いのか、少しだけ膨らんでいた。
「あら、いらっしゃい。アキラちゃん」
にこりと笑う。
そのまま――ほんの一瞬だけ、視線がノブに向く。
ノブは気づかないふりをして、靴を脱ぐ。
「あんたたち、ごはんはもう食べたのかい?」
「いえ、まだです」
アキラが素直に答える。
「そうかい」
軽く頷いて、
「先にお風呂、入ってらっしゃい。もう湧いてるわよ」
「おう、サンキュ」
ノブが短く返す。
母はそのまま、もう一度アキラを見る。
今度は、少しだけ柔らかく。
「ご飯、作ってるから」
一拍。
「食べなさい」
ほんの少しだけ、間を置いてから、
「遠慮しなくていいからね」
アキラは一瞬だけ目を瞬かせて、
それから小さく笑った。
「……はい」
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エアコンの微かな駆動音と、網戸越しに聞こえる遠い虫の声。
並べて敷かれた二つの布団。
「……寝たか?」
ノブが天井を見上げたまま、低い声で呟く。
「……起きてる」
アキラの声は、すぐ隣から。
いつもより少しだけ高くて、震えている。
「英語、難しかったな」
「……お前が全然聞いてねーからだろ」
いつもの憎まれ口。
少し薄暗い天井を眺める二人。
――。
布団の中で、アキラの指先が迷子のように彷徨い――。
ノブの、熱い手の甲に、ほんの一瞬だけ触れた。
「……」
ノブが手を引こうとした瞬間。
アキラが、その指先を逃さず、力強く握りしめた。
「……ノブ」
「……なんだ?」
一拍。
アキラは意を決したように、ごそりと布団を抜け出す。
そしてノブの布団に、滑り込む。
「おい、お前……」
ドキリとして飛び起きようとするノブの胸に、アキラが額を押し当てた。
薄いパジャマ越しに伝わる、激しい鼓動。
アキラの身体は、驚くほど小さくて、そして熱かった。
「……怖いんだ。一人で寝るの、最近」
一拍。
「目、閉じるとさ……」
言いかけて、止まる。
シャツを掴む指が、少しだけ強くなる。
「……やなんだよ」
ノブは、腕を回すのをためらった。
けれど、腕の中で震えるアキラの肩を感じた瞬間、迷いは消えた。
そのまま、壊れ物を抱きしめるように、強く、強く引き寄せる。
「……俺が、いるだろ」
「……うん」
顔を上げるアキラ。
月明かりが、その大きな瞳を白く照らしている。
涙の跡が消えた後の、その瞳には、もう「作り物の笑顔」はない。
ただ、ノブだけを見つめるアキラがいる。
どちらからともなく、距離が詰まる。
触れる。
それだけで、十分だった。
そのまま、時が止まったように。
互いの指が絡み合う。
唇が、ゆっくりと離れる。
「…っ」
「……っは…」
呼吸を整え合う。
見つめ合う。
「……アキラ。好きだ。ずっと一緒にいよう」
アキラは一瞬視線を逸らし、
でもすぐに戻す。上目遣いに。
「……オレも、ノブが、……好き」
その言葉は、何よりも重く、優しく。
二人の夜に、静寂を運んできた。
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夏休み明けの登校日。
朝の光はまだ強く、校門の影がくっきりと地面に落ちている。
ざわつく生徒の波の中に、二つの小さな輪があった。
「よお、ノブヒロ、お前ら、なんか上手くいってるようだな」
谷口マサハルが、遠慮なく肩に腕を回す。
「うるせえ」
ノブは顔をしかめながらも、振り払わない。
その後ろで、水波チハルが「そうじゃ。愛とは受け入れるものじゃ」などと言いながら頷いている。
少し離れた位置で、山下チヒロが静かに微笑んでいた。
その少し前。
アキラの隣には、いつもの三人。
「でさ、マジでやばかったって」
松田アヤが大げさに身振りを交えて話す。
「またそれ言ってる」
横山ミカが笑う。
「でもちょっと気になるかも」
江藤ナオが小さく乗る。
その中心で、アキラも笑っている。
肩の力が抜けた、自然な笑顔だった。
離れているのに、互いに信頼しあっているような、そんな顔。
――その様子を、
木陰から、一人の少女が見ていた。
皆川ユズハ。
静かに、目を細める。
ほんの少しだけ息を吐いて、
歩き出す。
コツ、コツ、コツ。
ゆっくりと。
まっすぐに。
足音は小さいのに、不思議と空気が変わる。
自然と、八人の視線がそちらに向く。
会話が止まる。
ユズハは立ち止まる。
一度だけ、ノブに視線を向ける。
すぐに逸らして、
アキラを見る。
じっと。
何かを測るように。
その沈黙の中で、
アキラは逃げなかった。
わずかに、息を整える。
ユズハの口元が、ほんの少しだけ動く。
「……敵わないわね」
静かな声。
「なにがだ?」
ノブが眉をひそめる。
ユズハは答えない。
ただ、もう一度アキラを見る。
少しだけ目を細めて、
「いいえ」
一拍。
「少し……妬けるわね」
その言葉は、軽くもなく、重くもなく。
ただ、まっすぐだった。
「悔しいけれど」
ほんのわずかに、口元が緩む。
「認めるわ」
風が、校門を抜ける。
誰もすぐには言葉を返さなかった。
けれどその場の空気は、
もう、前とは違っていた。
――その中で。
アキラが、ゆっくりと口を開く。
「皆川……」
一度、言いかけて。
小さく息を整える。
「……いや、ユズハ」
呼び直す。
その声は、前より少しだけ自然で、
変に飾られていない。
「ありがとな」
短い一言。
でも、きちんと届く距離で。
ユズハは、ほんのわずかに視線を逸らした。
答えは返さない。
その代わりに、
くるりと背を向ける。
長い髪が、ふわりと揺れる。
「がんばりなさい」
振り返らないまま、そう言う。
靴音が、コツ、コツ、と校舎へと遠ざかっていく。
その背中は、
どこか舞台の上から降りていく女優みたいに、
きれいで、少しだけ遠かった。
誰も、呼び止めなかった。
ただ、
その背中が完全に見えなくなるまで、
アキラは静かに見送っていた。
一拍。
「……行くか」
ノブが、小さく言う。
アキラは少しだけ遅れて、
「……うん」
と答える。
どちらからともなく、
また、歩き出す。
さっきまでと同じ距離。
でも、
ほんの少しだけ、
近かった。
ひとまず。これで完結です。
拙い文章、読んでくれてありがとうございました。




