触れているはずだった手
正午を過ぎたばかりの陽射しが注ぐベランダ。
青い空を雲がゆっくりと流れている。
乾いた風に煽られる洗濯物。
ユキの視線が次の洗濯物へ移る。
アキラのブラウスを手に取り、シワを伸ばすように軽く叩く。
(あの子……学校では上手くやれているのかしら)
それを振り払うように、また一枚、布を広げる。
電話のベルが鳴る。
――ジリリリン。
「あら」と言いいながら電話台へと向かう。
少し躊躇してから、受話器を耳へ当てる。
「はい、和泉です」
「ああ、カナエ姉さん。久しぶりね」
受話器から聞こえてきたのは、姉の声。
声が柔らかくなる。
「そう…」
ユキの視線が、足元へ落ちる。
「……そう。ええ、わかったわ」
――。
「……ありがと。またね」
ガチャ、と受話器を置く。
静まり返った部屋に、呼び出し音の残響が残る。
受話器を見たまま、しばらく動かない。
ベランダへと踵を返す。
(……今年の帰省)
ハンガーを一本、取り直す。
手を止める。
(あの子、昔のあの人に……)
視線の先。
風がアキラのブラウスを揺らす。
-------------------------------
夜。
開け放たれた窓からは、昼間の熱を孕んだ風が、緩慢なリズムでカーテンを揺らしている。
ユキの手料理が並ぶ食卓。
姿勢良く黙々と食べるアキラ。
無邪気さが消えて、箸使いもどこか大人びているようにも見える。
ユキはそんな我が子の成長に、湯気の向こうで目を細める。
「……ねえ、アーちゃん」
少しためらうが、振り絞るように呼びかけた。
アキラは箸を動かす手は止めずに、
「うん」
と短く。
「……今年は」
言いかけて、少しだけ間を置く。
「実家は、やめておきなさい」
アキラの箸が止まる。
「え?」
ユキは視線を上げないまま続ける。
「お友だちと過ごした方がいいわ」
一拍。
「別に、義務じゃないから」
アキラは少しだけ首をかしげて、
「……いいの?」
と聞く。
ユキは短く、
「ええ」
アキラは安心したように笑う。
「そっか」
でも、その目はすぐに食事へ戻る。
ユキはそんな我が子を見ながら少しだけ微笑んだ。
----------------
「次ッ、和泉!」
担任の野太い声が教室に響く。
「はい!」
アキラは短く返事をして席を立ち、教卓へと向かった。
受け取った答案用紙の端には、目標を上回る数字。
よし、と小さくガッツポーズ。
だが、ノブは。
答案を受け取った瞬間、目に見えて肩を落とす。
「……あんなに頑張ったのに。アキラが教えてくれたのに……」
くすっと笑うアキラ。
「見せて」
アキラは答案をひったくる。
「まあ、ノブにしては頑張ってるよ。今回、……私でも難しかったしさ」
ノブの肩が、わずかに動く。
「……ああ」
小さく返す。
でも顔は上げない。
アキラは気づかないまま、答案を返す。
ノブは机に突っ伏したまま動かない。
普段はあんなに逞しい背中が、今は妙に小さく見えた。
窓から差し込む日差しは、すでに本格的な夏の到来を告げていた。
-------------
埃の舞う午後の光。
休み時間になれば、教室は夏休みの計画に花を咲かせるクラスメイトたちの熱気で溢れかえる。
ざわつく教室の喧騒を切り裂くように、アヤが振り返った。
「え? アキラちゃん、今年夏休みヒマなの?」
アキラは手持ち無沙汰にシャーペンをくるくる回しながら、視線を泳がせる。
「いや、ヒマってわけじゃないよ。受験勉強とかあるし」
「へえ~」
アヤが獲物を見つけた猫のようにニヤッと笑う。
「じゃあさ、夏祭り行こ。みんなで」
「え?」
「絶対楽しいって。ノブっちも誘ってさ」
一拍。
受験勉強という大義名分が、その名前一つで、少しだけ遠のく。
アキラの目が、わずかに、隠しようもなく輝いた。
「……行きたい」
(釣れた!!!)
「じゃ、決まりね。浴衣買いに行こ」
「ええええ!? いや普段着でいいじゃん!!」
「いや、もったいないよ。あたしらも買いたいし」
アヤが呆れたように肩をすくめ、一気に距離を詰める。
「あんた可愛いんだから、ちゃんと着なよ。それに――」
一拍。
「そっちのほうが、ノブっちも喜ぶって」
一拍。
「……絶対、目が離せなくなるって」
一瞬だけ、シャーペンの動きが止まる。
「そ、そっか……」
わずかに間を置いて、頷く。
(かかった!!!)
----------
夏祭り当日。
夜の闇を縁取る、赤い提灯の列。
人の流れは絶えず揺れ、屋台から漂う甘い匂いと焦げたソースの香りが混じり合っている。
ノブは、足を止めた。
目の前にいるはずの相手を、うまく認識できない。
見慣れているはずなのに。
――少しだけ、違う。
深い藍色の浴衣。白い小花が散っている。
帯に締められた背筋は、思ったより細くて、まっすぐで。
襟元から覗く首筋に、ふと視線が引っかかる。
こんなところ、前から見えていたか。
「……変じゃ、ないか?」
アキラが落ち着かない様子で、裾を小さく蹴る。
布が擦れる音と、慣れない下駄の音が少しだけ不揃いに重なる。
ノブは、何か言おうとして――やめた。
代わりに、ほんの少しだけ距離を詰める。
「……いや」
それ以上、言葉が出てこない。
アヤが満足げにくるりと振り返る。
「んじゃ、あとはお若い二人でよろしくー」
「お前も若いだろ!!!」
ミカとナオが笑いながらアヤを引っ張っていく。
そのまま三人は人混みに消えた。
一瞬、周りの音だけが大きくなる。
ノブが、ちらっとアキラを見る。
視線が合う。
すぐに逸らす。
「……行くか」
「おう」
歩き出す。
歩幅が、ほんの少しだけ合わない。
----------------
押し寄せる人混みに、肩が触れ合う。
ノブが手を伸ばす。
「ほら、手、離すなよ」
少し汗ばんだ大きな手が、アキラの手を力強く掴み取る。
「……っ」
アキラの顔が一気に熱くなる。
引かれるままに、歩く。
足が、少し遅れる。
指が、少しだけ絡む。
ほどけない。
手のひらの熱が、じわりと伝わってくる。
――。
ざわめきが、急に近づく。
―飲み込まれる。
その流れに、抗えなかった。
向こう側から来た人の波が、ぶつかる。
押される。
繋がっていた手のひらから――
体温が消える。
慣れない下駄に足を取られる。裾が、もつれる。
「あ――」
振り返る。
そこにいるはずの背中が、ない。
「……ノブ?」
周りは知らない顔ばかり。
呼び込みの威勢のいい声。見知らぬ誰かの笑い声。
帯がきつい。
息がうまく吸えない。
それだけじゃ、ない。
(……どこだよ)
呼吸が浅くなる。
「……うそ」
動きかけて、止まる。
(こういう時、下手に動かない方がいいんだっけ)
立ち止まり、縋るように周囲を見渡す。
喉が、少しだけ渇く。
―そのとき。
カラン、コロン。
喧騒を断ち切るような、その音。
振り向く。
そこにいたのは――皆川ユズハ。
浴衣姿だった。
周囲の喧騒から、ほんの少しだけ浮いて見えた。
――なぜか。
「……あら」
静かに微笑む。
「アキラくん。浴衣、よく似合っているわね」
その言葉に、引っかかるものはなかったはずなのに。
胸の奥が、ざわつく。
「……皆川」
少しだけ顔をしかめる。
ユズハはそんなアキラをじっと見る。
何かを測るように。
「……もしかして、はぐれたの?」
「……まあ」
曖昧に返す。
ユズハの整った笑顔を見ていると、なぜか無性に腹が立つ。
目を、逸らす。
ユズハは一瞬だけ、何かを言いかけて――
唇を閉じた。
代わりに、いつもの貼り付けたような笑みを浮かべる。
「……そう」
ほんの一拍。
「じゃ、またね」
カラン、コロン。
ユズハの下駄の音が、人混みに溶けていく。
------
「アキラ!!」
必死に人をかき分ける。
視線の先は、あの浴衣だけ。
知らない柄ばかりが、視界を埋める。
心臓が早鐘を打ち、耳の奥でうるさく鳴る。
(どこ行った)
もう一度、名前を呼ぼうとして——
「あら」
―遅れて、振り向く。
そこにいたのは、見知った顔。
黒い浴衣に咲く牡丹。
妙に、目を引いた。
「ノブくん。こんばんは」
嫣然と微笑する口元。
「……ユズハか」
ユズハはじっと見つめてくる。
「探してるの?」
一拍。
「アキラくんなら、あっちで待ってたわよ」
静かに指差す。
わずかに巾着が揺れる。
「……そうか。ありがとな」
すぐ動こうとする。
その瞬間、
ユズハが音もなく距離を詰める。
耳元で――
ノブの表情が、凍りつく。
ほんの一瞬。
「……」
ユズハは何事もなかったように、
ニコリと微笑む。
「じゃ、また。ノブくん」
カラン、コロン。
喧騒の中、ただ下駄の音だけが残る。
----------------------------
逆流する人の波。
アキラは、立ち尽くしていた。
夜の熱気に晒され、浴衣の内側がじっとりと張り付く。
喉が、渇く。
(……遅くねえか?)
さっきまで確かにあったはずの手の感触が、
ゆっくりと、輪郭を失っていく。
指先が、少しだけ心細い。
脳裏に焼き付いているのは、ユズハの姿。
乱れのない着こなし。
無駄のない所作。
祭りの喧騒さえも自分の背景に従えてしまうような、あの微笑み。
(……ああいうのが、本当の)
言葉になりかけた思考を、
奥歯を噛んで押し殺す。
視線が、落ちる。
帯の結び。
整えたはずの襟元。
どこか、落ち着かない。
(……違う)
――そのとき。
「――アキラ!!」
弾かれたように顔を上げる。
「……ノブ!」
視界の先。
人混みをかき分けながら、
必死にこちらを探している姿。
その瞬間、胸を締め付けていた何かが、
わずかにほどける。
一歩、踏み出す。
――止まる。
(……ちゃんと)
さっきの、ユズハの立ち姿がよぎる。
呼吸を整える。
襟を正す。
裾に触れる。
整える。
背筋を、伸ばす。
「……いた」
ほんの少しだけ、声を整える。
「……よかった」
笑う。
――作る。
ノブが、一瞬だけ止まった。
ほんのわずかな、間。
「……ああ」
頷く。
少し遅れて、笑う。
「見つかってよかった」
その声は、いつも通り。
なのに――
ほんの少しだけ、間があった。
再び繋がる手。
強い。
さっきよりも、少しだけ。
――確かめるみたいに。
アヤ「はぐれたんならスマホ使えばいいのに。いま令和だよ?」
ノブ&アキラ「……」
アヤ「皆川さん、一人で何してたんだろ?」
ノブ「たしかにな」
アキラ「謎だよな」




